kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第464回 2022.6/25

百人一首No.42. 清原元輔(きよはらのもとすけ):契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは

約束したなあ。お互いに涙で濡れた袖をしぼっては、末の松山を波が越さないのと同様に、二人の心が変わらないことを。

N君:「末の松山」について調べました。宮城県多賀城市の丘に石碑「末の松山」があり、古来大津波が来てもここを越える可能性はない、といわれているポイントです。「絶対にあり得ない」の意を持つ歌枕で、昔の歌に「君をおきてあだし心をわが持たば 末の松山波も越えなむ」と詠まれています。つまり「末の松山を波が越える」=「あり得ないことが起きる」=「男女の恋の心変わりが起きる」という意味です。東北地方というのは昔から大津波が来ていたんだなあ、と初めて知りました。記録に残っている最古の津波貞観地震の頃といいますから800年代前半です。しかし縄文弥生の昔からこの地は何度も津波に襲われてきたのでしょう。石碑「末の松山」はそのシンボルであり、2011東日本大震災においても津波はこの石碑を越えなかったとのことです。

Squeezing sleeves moist with tears, we had promised with each other that our deep love would never change as sea waves could never go over Mt. Suenomatsu.

S先生:「末の松山」という歌枕を今日初めて知りましたが、やはりその土地土地に特有の事情というものがあるのですね。英作文はまずまずと思います。

Oh, did we not vow that we would never change our minds as surely as no waves could go over Mt. Suenomatsu, wringing each other's sleeves wet with tears ?

N君:wring「絞る」。助動詞 did が飛び出して強調構文になっているのですか?

S先生:そもそもこの分は didn't we vow that ~ という否定疑問文で「~と誓ったのではなかったか?」という意味なのですが、文語調にしようとして did we not vow that ~ としてみました。

MP氏:We pledged our love.  Wringing tears from our sleeves, we both vowed nothing would part us, not even if great waves engulfed the pines of Mount Forever.

N君:engulf「波や戦争や火災が~を飲み込む」。even if の前にある not は何なのか? not をなくすと「【たとえ津波が松を飲み込んでも何者も我々を引き裂くことはできない】と誓った」となって意味が通ると思います。

S先生:同感です。でもちょっと見方を変えてみましょう。we both vowed nothing would part us,「何者も我々を引き裂くことはできない」で一旦切ります。それに続く not はもう一度「引き裂くことはできない」と言っていて、最後に even if 節がくっついていると考えてみてはいかがでしょう。ただしこれは私も自信がないのでMP氏に質問したいですね。文末の Mount Forever にはビックリしました。さて第459回および第462回に続いて今回も「日英ことわざ比較」の続きをやります。

(1) 雀百まで踊り忘れず=三つ子の魂百まで=ゆりかごの中で身につけたことは墓まで運ばれていく:What is learned in the cradle is carried to the grave.

(2) 衣食足りて礼節を知る=空腹の奴は怒っている奴:A hungry man is an angry man.

(3) 塵も積もれば山となる=たくさんの小さなことが多量を作る:Many a little makes a mickle.

N君:many のあとに単数形が来ているのは珍しい。

S先生:全体をひとまとまりとしてとらえているので単数として扱っていますね。many+複名=複数 であってこれは普通ですが、本例のように many+単名=単数 となります。それと、m-m-m の頭韻を踏んでいます。

(4) 風が吹けば桶屋が儲かる=福音は期待していない人の手に降りてくる:Bliss often falls into the hands of an unexpected person.

(5) 多芸は無芸=器用貧乏=何でもうまくやる奴は何事も名人たりえない:Jack of all trades and master of none.

N君:Jack って何ですか?

S先生:Jack は「奴」くらいの意味です。

(6) 来てみればさほどでもなし富士の山=たとえ英雄であっても、いつも会っている召使いにとっては、ただの人:No man is a hero to his valet.

K先輩:英語の勉強中ですがちょっと失礼します。この「来てみればさほどでもなし富士の山」という格言というか俳句というか歌みたいなものの作者は、幕末の長州藩来島又兵衛(きじままたべえ)だと言われています。1864蛤御門の変で死にました。豪放磊落な性格で薩会(さっかい、薩摩+会津)との戦いを主張する勇ましいオヤジでした。この時、長州の攻め手はほとんどが20代30代の若手だったのですが、来島は40代中盤でした。嫁さんには頭のあがらない愛すべき男でした。蛤御門では薩摩藩川路利良に鉄砲で撃たれました。川路は明治になって東京邏卒隊の隊長から最終的に大警視(今の警察庁長官)になっています。この蛤御門は現在の京都御所の西にある門で、行ってみると、門の柱に多数の銃痕が今でもはっきりと残っています。N君も蛤御門へ行くことがあったら是非とも来島又兵衛川路利良のことを思い出してあげて下さい。蛤御門で死んだもう一人の長州藩士は久坂玄瑞(くさかげんずい)です。まだ20代前半だったと思います。生きていたら明治の世では少なくとも大臣にはなっていたでしょう。

S先生来島又兵衛のことは全く知りませんでした。

(7) 良きものは得難し=一番良い魚は底を泳ぐ:The best fish swims near the bottom.

(8) 言うは易く行うは難し=哲学者のように話し馬鹿者のように生活する:They talk like philosophers and live like fools.

(9) 空虚なる人は多弁=空の器を叩くと大きな音がする:The empty vessel makes the greatest sound.

(10) 柳に雪折れなし=嵐が吹くと樫は葉を落とすが葦は生き残る:Oaks may fall while reeds survive the storm.

K先輩:今回は「末の松山」で東北の話が出たので、東北つながりで岩手県遠野市を舞台にした江戸時代~明治初期の説話「遠野物語」について語ってみましょう。あの世とこの世の境界にまつわるたくさんの興味深い話が次々に出てきて飽きることがありません。遠野物語の出版物はたくさんありますが、NHK出版「100分で名著:遠野物語」が安くてコンパクトで分かりやすいので、このあたりから入ってみることをお勧めします。遠野は、岩手県の太平洋岸の釜石と北上川沿いの花巻の中間点に位置する小さな盆地で、ある種まわりから隔絶されたユートピア的な土地です。明治の終わりに遠野出身の佐々木喜善(ささききぜん)が早稲田の学生として上京してきた際に、佐々木が祖父から聞いていた遠野の話を民俗学者柳田邦男(やなぎたくにお)が聞き書きして誕生したのが遠野物語です。河童(かっぱ)や座敷童子(ざしきわらし)の話が有名ですがこのほかの話も魅力的なものばかりです。何篇か紹介しましょう。

(1) 平地人を戦慄せしめよ:これは柳田が序文の中で述べている印象的な言葉です。「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし、願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べています。山神山人 vs 平地人 です。山神山人とは、大げさに言えば、縄文文化のまま稲作を知らず山地に追いやられた狩猟の民で、文字も西洋文明も知らぬまま明治を迎えた人達のことです。そんな人間が実際に居たかどうかは別にして、要するに山神山人とは超田舎者くらいの意味でしょう。一方、平地人とは、表の日本史を歩いてきて稲作・文字・西洋文明にも触れた普通の人達、もっと言えば東京人。ゆえに遠野物語は山神山人の話であって、科学では説明のつかない「あの世、魂、神様、妖怪、自然」の話です。

(2) デンデラ野:村の集落で暮らしていた男や女は還暦を過ぎると自発的に家を出て、近くの台地=デンデラ野 へ移り住むしきたりになっています。デンデラ野は老人たちの集団生活の場であり、元気な者は村へ降りて行って野良仕事の手伝いをして食料を分けてもらいデンデラ野に持ち帰って老人たち皆で分けて食べます。病気や老衰の者を看取ります。若い者の邪魔にならぬよう、それでも皆と楽しく過ごして死を迎えます。死んだらダンノハナという近くの台地に葬ってもらいます。そういう無理のないサイクルが出来上がっていて、大和物語の昔から発生していた「姥捨て」の問題に一つの解答を与えているのです。

(3) 里における精神病者の受容:これは明治になってからの話です。母と、精神を患った息子の二人暮らし。息子が鎌で母に切り付けます。肩口から多量の出血があり、母の叫び声を聞いて駆け付けた村人に取り押さえられた息子は警察に突き出されました。流れる血の海の中で母は「自分は恨みもなく死ぬので息子のことは許してやって下さい」と懇願し、村人たちはその母心に涙を流します。精神鑑定の結果無罪となった息子は放免され「家に帰り今も生きて里に在り」で、この話は終わっています。どうですか、令和の現代では考えられないことでしょう。そのような危険人物を村人たちは受容しながら生活していたことになりますね。江戸~明治時代の田舎というのはこんな感じだったのですね。当時は精神病院もなかったでしょうから、どうしてもこういう結果になるのでしょう。

(4) 日常と怪異との接点:これは私が説明するよりも原文をそのまま紹介しましょう。佐々木氏の曾祖母年寄りて死去せし時、棺に取り納め親族集まり来てその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もその中に在りき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母の二人のみは大なる囲炉裏の両側に座り、母は傍らに炭櫃(すびつ)を置き折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて着物の裾の引きずるを三角に取り上げて前に縫い付けてありしが、まざまざとその通りにて縞目にも見覚えあり。あやなと思う間もなく、二人の女の座れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取りに触りしに、丸き炭取りなればクルクルと回りたり。母は気丈の人なれば振り返り後を見送りたれば、親類の人々打ち臥したる座敷の方へ近寄り行くと思う程に、かの狂女のけたたましき声にて「おばあさんが来た!」と叫びたり。ほかの人々はこの声に眠りを覚まし只打ち驚くばかりなりしと言えり。三島由紀夫は、「老女の幽霊の裾が丸い炭取りに触れてクルクルと回ったところが、日常と怪異との接点だ」と評したそうです。

(5) 明治の大津波で死んだ妻の幽霊:二人の子を持つ若い夫婦がいたが、明治29年の大津波に飲み込まれた妻の遺体は発見されなかった。夫は翌年の夏の夜に海岸で、死んだはずの妻と死んだはずの里の男が仲良く歩いているのを発見した。妻は自分と結婚する前はこの男と恋仲であった。夫が二人を呼び止めると、妻は振り向いてニコリとしたが、この妻もこの男ももはやこの世の者ではないことが感じられる。夫は「子供が可愛くないのか」と詰問するが、妻はうつむいて泣き「今はこの人と夫婦になりてあり」と言ってスーッと歩いていって見えなくなった、、、。なんともやるせない話ではありませんか。しかし、遺体が上がらずなんとなく妻の死を現実として受け入れることのできていなかった夫にとって、この経験は(辛いながらも)妻の死を受容して一歩を踏み出すきっかけになったのではなかろうか、と私は思います。

今回は歌枕「末の松山」から始まって東北つながりで遠野物語を見てきましたが、三陸海岸と大津波は昔から切っても切れない関係にあることをまざまざと知りました。