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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第473回 2022.7/4

百人一首No.51. 藤原実方朝臣:かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

せめて、私がこんなにも恋い慕っていることだけでもあなたに言いたいのですが、言うことができません。伊吹山のさしも草ではないが、それほどまでとは御存知ないでしょう。火のように燃えあがる私の思いを。

N君:さしも草ってなんだろう。

At least I would like to tell you my painful and unreciprocated love, but I am sorry I can't do so.  You would not know at all how enthusiastically I love you.

S先生:painful and unreciprocated love「痛々しいほどの片思い」のところがちょっと暑苦しい感じです。内容的には良いのですが「伊吹山のさしも草」について触れられていないのが減点対象になるでしょう。

How I wish I could confide my love to you !  Yet, to my great sorrow, you do not know my affection burning like the moxa of Mt. Ibuki.

MP氏:Can I let you know what consumes me ?   Unknown to you, my heart blazes like red hot moxa aflame with love for you.

N君:moxa =モグサ=さしも草 を初めて知りました。モグサなのだから燃えて熱を帯びるわけですね。この歌にピッタリです。

K先輩:私は最近伊吹山に行きました。滋賀県岐阜県の境にある山で、車で山頂まで行けますがカーブが多くて酔いそうでした。その道は伊吹山ドライブウエイと言って、入り口で3000円くらいとられます。標高は1300メートルくらいで景色は良いです。山頂ではソフトクリームをいただきました。伊吹山から下りてきて地元の道の駅に寄って休憩していたらモグサとか灸とかの看板を見ました。このあたりは今でもモグサの産地のようです。別の日に、岐阜県と長野県の境にある乗鞍岳にも行ってみました。名古屋から、窓がワイドビューになっている特急飛騨で高山駅まで行き、なにやら登山の服装をしている人たちが並んでいたので覗いてみると「明日が乗鞍の山開きの日で、標高3000メートルのターミナルまでバスで行く」とのことでした。次の朝、私も早起きしてそのバスに乗ってみました。その日は7月だったのにバスターミナル付近には赤とんぼが飛んでいて「完全に秋」でした。ターミナルでバスを降りると登山のいでたちをした皆さんは山頂目指して出発、私はターミナルの近くの「お花畑」と呼ばれる草原でウダウダしてました。半袖だったので寒いくらいでした。伊吹山乗鞍岳から見る風景がなんとなく似ていて、ああ同じ造山活動でできた山々なんだろうな、と思いました。乗鞍からは日本アルプスの山々、たとえば槍ヶ岳とか焼岳とか笠ガ岳などがズラリと見えます。伊吹山から西を見ると、秀吉が初めて城持ちになった長浜の町がありその向こうが琵琶湖北半になります。長浜は「鉄砲の国友村」で有名です。1543種子島に伝来して種子島時尭がわずか2丁買っただけの鉄砲を、あっという間に分解して仕組みを調査し、高性能の模造品を試作したのが国友衆と根来衆でした。日本人の「鵜の目鷹の目」「野次馬根性」は世界でも類を見ないほどスゴイと思います。長浜の少し北に木之本(きのもと)という古い街があり石畳がきれいです。そのすぐ西は琵琶湖の北端で、ここは山が迫っていてリアス式になっています。ここは南から北へ向かって琵琶湖北端~賤ケ岳(しずがたけ)~余呉湖 という並びになっています。琵琶湖の北端に小さな付属の湖=余呉湖 があったなんて意外でした。余呉湖畔には天女が舞い降りて衣を掛けた、という木も残っていました。琵琶湖側からリフトに乗って賤ケ岳に登ると、南に琵琶湖、北に余呉湖が一望できて、自分が今立っている賤ケ岳が屏風のテッペンのように感じます。おにぎりとお茶を持参して最高のピクニックを経験しました。賤ケ岳山頂には地元のボランティアの方が紙芝居をして語ってくれます。話題は当然「1583賤ケ岳の戦い」です。1582本能寺で信長が亡くなりその後継者争いが、新興の秀吉 vs 古参の柴田勝家 という形で繰り広げられたのです。この戦いの関連事項として、勝家と再婚していた信長妹お市の方が越前北庄城で自害した、とか、秀吉サイドの若武者7人が「賤ケ岳七本槍」として活躍した、とかの話が有名ですが、ここではあえて秀吉サイドで戦死した武将「中川清秀」について語ってみたいと思います。摂津(大阪府茨木市)生まれの気骨あふれる武将です。キリスト教を捨てなかったために秀吉によって領地を没収され家康・秀忠によってマニラに追放された高山右近は、清秀のいとこです。清秀の名をとどろかせたのは次の一件でしょう。1582本能寺の直後に秀吉が黒田官兵衛の助言のもとに中国大返しをして、明智光秀を討ち取った山崎天王山の戦い。秀吉サイドで最も骨を折ったのが中川清秀でしたが、清秀は別に秀吉に加勢するというよりも「信長様のご恩に報いよう」としていたのであって、気分としては独立独歩の戦いでした。戦い済んで日が暮れて「ヤレヤレやっと終わったか」とそのあたりに座り込んで家臣と話し込んでいた時に、秀吉が騎馬のまま通りかかり馬上から「瀬兵衛(せべえ)ご苦労!」と言い放ったのです。瀬兵衛というのは清秀の通名です。信長公のもとでは同僚と思っていた秀吉が、明智光秀がいなくなった途端に自分のことを下に見て無礼な態度をとったので、清秀はカンカンになって怒りました。「サル(=秀吉)、はや天下を取ったつもりか」と大声で言い返しましたが、秀吉は聞こえぬ風で行ってしまった、とのことです。中川家関ケ原では東軍に味方したので江戸時代を大分県竹田市の岡藩主として明治まで生き永らえたのです。岡城址を謳った滝廉太郎「荒城の月」はN君も一度は聞いたことがあると思います。山崎天王山の1年後に清秀が討ち死にした賤ケ岳近くの大岩砦には清秀の墓が建てられており、岡藩中川家の代々の藩主は参勤交代の途中に、ここ賤ケ岳に立ち寄り清秀の菩提を弔ったとのことです。おそらく、京から大津まで来て舟に乗り換えて琵琶湖を北上したでしょう。琵琶湖北端=賤ケ岳南麓 に塩津という町があって、ここらあたりに1泊して墓参りしたかもしれません。大昔から琵琶湖の水上交通というのは大変重要な役割を果たしていた、と考えられます。琵琶湖北端~福井県若狭湾 を水路でつなごうという計画が江戸時代からあったそうです。地図を眺めてみるとこの辺りは「日本列島のくびれたウエスト」みたいになっていて、水路開発は実現性も実効性も高いのではないでしょうか。少なくとも令和の現在ならば、技術的には問題なくイケると思います。

1582本能寺の変囲碁は二劫の本能寺

変の前夜、信長の御前で本因坊算砂 vs 林利玄 の対局があり滅多に出来ない三劫が発生し、これ以降「三劫は不気味」のいわくが付いた、と言われています。私もアマチュア5段の碁打ちですが、三劫は経験がありません。相当に珍しい現象だと思います。

伊吹山のすぐ南は関ケ原です。1600年に 家康 vs 石田三成 の一大決戦が行われた土地です。私も関ケ原へは3回くらい行きましたが、この話は長くなるのでまた別の日に。

オリジナル勉強風呂Gu 第472回 2022.7/3

百人一首No.50. 藤原義孝:君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな

あなたのためにはたとえ捨てても惜しくないと思っていた私の命ですが、(逢瀬を遂げた今となっては)、長くありたいと願うようになりました。

N君:歌全体の意味は、なんか分かる気がします。誂(あつら)え終助詞「もがな」が登場しました。この「もがな」は百人一首No.90 実朝 の歌にも出てきます。

Although I have not minded even losing my love for you, I am now inclined to live a long life because I have had a tryst with you.

S先生:特に直すところはなく私の作文とほぼ同じだったので、今回は私の作文は出しません。長くやっているとこういう珍しいこともあるのですね。老婆心ながら2点だけ補足しておきます。主節の中にあるbecause節ですが、accomplish などの単語を使う必要はなくて、このように現在完了形を使うことで達成感を出していますね。またAlthough節の中に使われた動詞 mind の目的語が不定詞ではなくて動名詞であることにも注意しておいて欲しいです。

MP氏:I always thought I would give my life to meet you only once, but now, having spent a night with you, I wish that I may go on living forever.

S先生:「逢瀬を遂げる」と言いたいときに make love with ~ はあまりに露骨すぎて歌には使えないので have a tryst with ~ が良いだろうと考えていたのですが、MP氏は spend a night with ~ という趣向を見せてくれました。自然で品があって最高です。

K先輩:今回のN君の作文はS先生のものとほぼ同じであったということで、おめでとうございます。こういう時に生徒は「俺の腕もまんざらじゃないな」などと自惚れるものですが、世阿弥は「風姿花伝」の中で若者の自惚れを厳しく戒めています。能修行に励む若者が手に入れた一時的な成功を「真の花にはあらず、年の盛りと、見る人の一旦の心の珍しき花なり」と述べています。若い頃というのは誰でも生意気であり、私自身にも思い当たるふしがあります。だから世阿弥先生の指摘は耳が痛いのです。「秘すれば花」「初心忘るべからず」が世阿弥からのメッセージです。さて本歌作者藤原義孝の息子行成(ゆきなり、こうぜい)は三蹟の一人であって清少納言枕草子」にもちょこっと顔を出しています。三蹟というのは「和様書道の名手三人(行成・佐理・小野道風)」の意であって、たとえば巨勢金岡(こせのかなおか)の描いた大和絵屏風に行成が滑らかに書いた和歌の草紙を張り付けたりしたら、これはもう最高の調度品だったでしょう。奈良県吉野の金峯山(きんぷせん)に埋められていた道長の経筒に流れるような達筆を示したのは行成ではないか、という話もあります。道長と行成は死んだ日が同じで1028.1/3でしたが、これもなんだか因縁めいていますね。三蹟の二人目小野道風(おののとうふう)の姿は現代でも花札の絵に見ることができます。カエルが柳の枝に飛びつこうとしているのを貴族風の男が傘をさして見守っている絵柄がありますが、あの男が小野道風です。ある日私は何気なく東寺(教王護国寺)の境内を散歩していたら、その「道風の柳」に出会いました。あの花札の絵柄は東寺だったのです。これはまさに第462回で隅田(すだ)八幡に出会った時と同じく serendipity「予期せぬ僥倖」でした。東寺というのは、空海嵯峨天皇から賜った修行用の寺で、新幹線が西から京都駅に入る手前で、右手に見える大きな五重の塔を擁するあの寺です。東寺の境内では毎月21日の朝に市が開かれているので早起きしていくと掘り出し物があるかもしれませんよ。また市がなくても毎朝5時ころから読経の声が聞こえていて、夏の早朝に散歩するのが私のお気に入りです。三蹟の三人目は藤原佐理です。都を離れることの恨みつらみを「離洛状」に残しました。日本史の教科書には、唐風の厳しさを湛える空海の風信状と並んで、和風のたおやかな佐理の離洛状が並んでいて、さながら弘仁貞観文化 vs 国風文化 のそろい踏みといった風情です。これら平安時代における三蹟の和様を、鎌倉時代に尊円入道親王が受け継いで青蓮院流(しょうれんいんりゅう)を創始しました。青蓮院というのは洛東にある大寺知恩院の北隣に位置するすがすがしいお寺で、私は庭を眺めて2時間でも3時間でも座っていられます。ついでながら我が国の書の歴史について簡単におさらいしておきましょう。650高句麗僧曇徴(どんちょう)が絵具・紙・墨を初めて日本に伝えました。平安時代の三筆三蹟~鎌倉室町時代の青蓮院流 を経て、安土桃山時代にはイエズス会宣教師ヴァリニャーニが活版印刷を伝えました。ヴァリニャーニは、九州のキリシタン大名大友宗麟有馬晴信大村純忠に薦めてローマ教皇グレゴリオ13世に挨拶に行かせたことでも有名です。天正の少年遣欧使節です。これが1582本能寺の変と同じ年であったことを意識しておいて下さい。

1543鉄砲伝来:以後よさないか時尭(ときたか)くん

1549フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸:以後よく来る宣教師

1560桶狭間の戦い:ひっこむ王者義元くん

1582本能寺の変、少年遣欧使節囲碁は二劫の本能寺(→第473回)

 

オリジナル勉強風呂Gu 第471回 2022.7/2

百人一首No.49. 大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ):御垣守(みかきもり)衛士(えじ)の焚く火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ

衛士(宮中の門を警護する兵士)の焚く火が夜燃えて昼消えるように、私の恋心も夜に燃え昼に消え入るように沈んで、こういうことを繰り返しながら思い悩んでいる。

Guardmen who protect the Palace Gates make bonfires every night.  As they burn at night and die in the daytime, so my love for her repeats the same thing.  I am worried about what will become of us.

S先生:burn at night and die in the daytime の前置詞および冠詞の選択は満点でした。こういうちょっとしたところがあやふやな生徒が多いです。

Like the fires burnt by the soldiers who guard the Palace Gates, my fire of love glows aflame at night and goes out in the daytime, making me bleakly distressed.

MP氏:The watch fires of the palace guards blaze by the gates at night become embers in the day like my love which wanes by day and burns by night.

N君:ember「燃え残り、燃えさし」

K先輩:防人(さきもり)を知っていても衛士(えじ)を知らない人が多いと思います。律令制のもとで正丁=成年男性 の3人に1人が軍団で訓練を受けたあとに、防人として九州へ行ったり衛士として京へ登ったりしました。ただしこの3人に1人という比率はおそらく当初の663白村江の戦い前後のことではなかったか、と私は思います。平安時代の記録では防人の総数は2000~3000人くらいですから、衛士を加えてもせいぜい総数5000人というところでしょう。すると正丁総数15000人という計算となってこれはいくらなんでも少な過ぎる。おそらく危機感が薄れるにつれて1/3という率は1/10とか1/30とかに下がっていったものと考えられます。防人は鎌倉時代で言えば異国警固番役と同じで屈強性を要し、衛士は近衛兵として見た目の良さと従順性を要したと考えられます。防人でも衛士でも兵役についている間は租庸調や雑徭(ぞうよう)が免除exemption されていたものの、往復は手弁当であったから大変で、病気や飢餓のために道端で倒れてそのまま死んでしまうことも稀ではありませんでした。どの天皇だったか忘れましたが、このような兵役行路での死亡事例に心を痛めて「篤く葬ってやれ」と詔(みことのり)した天皇もいました。中四国九州出身者が防人をやって近畿東国出身者が衛士をやるのが良いだろう、と誰でも思いますよね。でも実際はそうならなかった。東国出身者が防人になったのです。どうしてこんな非効率な事をやったのでしょうか。答えは「東国の民が気質的に勇敢だったから」です。飛鳥時代いやもっと前の古墳時代から、東国の民は「額に矢立つとも背中に矢立たず」と言われてきました。これは、敵に向かって進むことはあっても逃げることは決してない、という意味です。日本史をつぶさに見てきた私は「日本は東と西とで気質が全然違い、あたかも2か国なるが如し」という感慨を持っています。第436回にも言いましたが、突然やってきた律令制度に対して、東国の民は叛乱という直接行動に訴えたのに対して、西国の民は浮浪逃散・偽籍・私度僧で対抗しました。東国の民は潔く勇敢で嘘がないのです。このような人達には防人が適任だと考えられていたのでしょう。悪だくみがものをいう下剋上~戦国時代は主に西国で繰り広げられました。幕末における会津藩の真っ正直な動きに対して、薩摩藩の寝業師的な動きにはビックリします。明治維新は西国雄藩の手によって遂行され、逆に倒幕に反対した東北諸藩は奥羽列藩同盟を結成し新政府に対抗しました。西国は機を見るに敏で権謀術数が渦巻いており油断なりません。その流れのまま政治的には西国出身者優位で大正昭和を経過してしまったわけですが、そこに東国の純粋さや潔さや優しさが加味されていたら、日本の近現代史もまた一味違ったものになっていたかもしれません。東と西は別の国。令和の現在、秋~冬にあたりが暗くなった夕方5時ころに東京で飛行機に乗り、6時過ぎに長崎に着くとまだ明るかったりして、「違う国やん」と思ったりしたことがありました。

さて衛士といえば伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ)です。荒くれ者の多い新撰組の中にあって、伊東は武のみならず文にも秀でた人格者で、自然と一派を形成していました。近藤勇土方歳三の佐幕に対して、伊東はどちらかというと尊王に重点を置いていたため、両者の間にはイデオロギー上の微妙なズレが発生し、ついに伊東一派は新撰組を離れ「禁裏御陵衛士」となりました。1867に急死した孝明天皇の御陵を守るという名目のもとに尊王活動をしていたのです。洛東の高台寺=ねね(秀吉正室)の寺 の西沿いに「ねねの道」と呼ばれる石畳の通りがありますが、ここに禁裏御陵衛士の屯所がありました。今もあります。1867.11/15に坂本龍馬中岡慎太郎京都市河原町蛸薬師の近江屋の2階で暗殺され下手人は不明、この事件は有名ですが、その陰に隠れるように2週間後に伊東は新撰組が放った刺客によって七条油小路にて暗殺されました。明治になる直前に日本を代表するような傑物が3人も相次いで亡くなってしまいました。皆若く30歳前後でした。坂本龍馬は官には何の興味もなかったようですが、中岡や伊東は明治新政府の屋台骨を背負うことのできる人物でした。

オリジナル勉強風呂Gu 第470回 2022.7/1

百人一首No.48. 源重之風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな

風が激しいので岩に打ち当たる波がひとりだけで砕け散るように、(彼女は平気なのに)私だけが心も砕けるばかりに物事を思い悩む今日この頃であるなあ。

N君:「名詞+を+形容詞語幹+み」は第423回のNo.1天智天皇「とまをあらみ」でも出てきた言い方で「名詞が~なので」の意です。基本中の基本です。

As the waves hitting the rocks crush by themselves in a storm, so am I alone broken-hearted nowadays, anxious about her indifference.

S先生:As ~, so ~ の構文にも慣れてきましたね。従属節の中の波については by oneself 「ひとりでに、自然に」を使い、主節の中の I については alone を使いました。この使い分けは良かったです。波が砕けるのは crush よりも break のほうが良いでしょう。全体的にこなれてきている感じがします。

As mounteinous waves fanned by a violent wind hit against the rocks and break to pieces, so am I alone distressed these days, lost in broken heart.

MP氏:In the fierce wind the waves beat upon, but are held by rocks.  Yet my beloved will not brake these turbulent thoughts of love pounding upon my heart.

N君:brake「ブレーキをかける」は break と発音同じ。MP氏は「強風の中で波は砕けるが岩がそれを受け止めてくれる、だのに、あの人ときたら私の千々に乱れる恋心にブレーキをかけてもくれない(私独りが思い悩んでいる)」と作文しています。but are held by rocks という発想は独特だと思いました。

K先輩:「風をいたみ」に使われた形容詞「いたし」に関連して今日は鏡物がらみで語ってみましょう。鏡物というのは平安~鎌倉~室町時代あたりの事績が書かれた一連の歴史物語「大鏡・今鏡・増鏡・吾妻鏡・水鏡」を指します。いづれも作者は分かっていません。まず「大鏡」は第55代文徳天皇~第68代後一条天皇 の時代の話ですが、藤原氏で言えば冬嗣~道長 の時代を語っており、もっと乱暴にまとめると「道長ヨイショ物語≒栄花物語(No.59赤染衛門)とほぼ同じ」と言ってもよいでしょう。次の「今鏡」は第69代後朱雀天皇~第80代高倉天皇 の時代の話で、道長院政期を語っています。第81代の安徳幼帝は清盛の母=二位尼(にいのあま)と共に1185壇ノ浦の海に沈みました。その後を受けて「増鏡」はスッポリと鎌倉時代にあてはまります。すなはち第82代後鳥羽天皇後鳥羽院が1221承久の乱にて事敗れて隠岐島に死し、第96代後醍醐天皇が1331元弘の変にて事成って隠岐島から京へ戻るまでを語りました。この1221と1331は覚えやすいですね。これ以外にも、鎌倉幕府の役人が著した「吾妻鏡」、京の貴族が著した「水鏡」があります。これら鏡物のうち増鏡には隠岐島での後鳥羽院の様子が語られています。「潮風のいとこちたく吹き来るを聞こしめして【我こそは新島守(にいじまもり)よ隠岐の海の荒き波風こころして吹け】、【同じ世にまた住之江の月や見ん今日こそよそに隠岐の島守】」。この詞書(ことばがき)の中で使われた「こちたし」は、「言痛し」あるいは「事痛し」です。「言痛し」の場合は「人の噂がうるさい」の意であり、「事痛し」の場合は「数や量が多すぎてウンザリだ」の意です。ここでは後者の意になるでしょう。いずれにしても「痛し」は、単に painful というだけではなくて「程度が甚だしくてゲップが出そう」みたいな含意を持った形容詞です。現代でも「あのオジサン若造りしてイタイな」などと言うことがありますが、この「イタイ」の語感に通ずるものがあります。それにしても後鳥羽院は何故挙兵したのでしょうか。2歳年長の兄安徳が1185壇ノ浦で亡くなった時に三種の神器(八咫鏡天叢雲剣・八尺瓊匂玉:やたのかがみ・あめのむらくものつるぎ・やさかにのまがたま)を失ってしまい、後鳥羽は神器の無いまま即位しました。これはものすごく特殊なことであり、後鳥羽が兄の命を奪った武家政権に恨みを持つのは自然なことだったでしょう。このような恨みを抱いたまま後鳥羽は成長し、1219三代将軍実朝が鶴岡八幡宮の石段で公暁に切られて死んだことで「政権を鎌倉から京へ取り戻せるかもしれない」と思ったのでしょう。歌も上手で頭も切れる。なにしろ「日本一の大天狗=後白河院」の孫ですからね。しかしその判断は甘かった。九条兼実の弟No.95慈円もその著書「愚管抄」の中で「もはや武士の世であり昔のようにはいかない、それが道理だ」と述べて後鳥羽院に自重を迫っています。しかし後鳥羽院から見れば、たとえ幕府の実権が将軍から執権の北条家へ移ったとしても「京ならぬ鎌倉の、公家ならぬ武家の、雅を解さぬ野卑なる政権」だったのでしょうね。この当時、後鳥羽院が祖父後白河院から相続した一連の荘園群=長講堂領 は広大だったのですから、これをエサにして鎌倉の御家人どもや畿内~西国の豪族どもに事前工作しておけば、1221承久の乱の勝敗はどうなったか分かりません。要するに、御家人にしろ、地方豪族にしろ、「戦ったあとの恩賞としての領地をちゃんと面倒みてくれるのか?」が問題になっているわけですから、ここのところをしっかりケアしておくことが何より大切だったのです。命を懸けて戦う者には精神的な満足感に加えて実地の褒美が必要なのです。後鳥羽院はここのところが分かっていなかったと思います。ちなみに平安後期から続く院政のシステムも煮詰まったこの時代、以前から蓄積されてきた寄進地系荘園は、大きく二つの系統に集約されていきます。第1は鳥羽法皇~皇女八条女院八条院領100か所~大覚寺統南朝。第2は上述の後白河院後鳥羽院~長講堂領90か所~持明院統北朝。つまり、寄進地系荘園の2大系統が、南朝および北朝の経済的基盤になっていったのです。1333鎌倉時代終焉の後に、ほんの一瞬だけ後醍醐天皇の「建武の新政」がありましたが1336に室町の初代将軍足利尊氏持明院統光明天皇を即位させてからのち、1392に三代将軍義満が南北朝合一を成し遂げるまで、約60年にも渡って南北朝の時代=室町時代前期 が続くのです。N君もここらあたりの時代区分があいまいになっているのではありませんか?

1333建武の新政:人見て散々文句垂れた二条河原

1392南北朝合一:いざ国をひとつに南北朝

 

オリジナル勉強風呂Gu 第469回 2022.6/30

百人一首No.47. 恵慶法師(えぎょうほうし):八重葎(やえむぐら)茂れる宿のさびしきに 人こそ見え秋は来にけり

幾重にも蔓草が生い茂っている家の寂しい所に訪ねて来る人はいない、秋はやってきていたのだった。

N君:係り結びがそこでおわらずに文が続いていく時にはその係り結びは逆接の意を表します。これは第463回にも出てきました。

I am now in a secluded cottage which is covered with the thriving grasses.  Although anyone cannot visit my poor house like this, just autumn remembers to come.

S先生:第2文の Although節のあとの主節が just で始まっていますが、ここは yet  を持ってくると強調の意味合いが生まれます。また主節の中身では remember to come よりも never forget to come のほうが同じ意味でも素直です。

I live in a secluded cottage covered with thriving grasses.  Although nobody is willing to visit my poor house, yet autumn never forgets to come.

MP氏:How lonely this house overgrown with goosegrass weeds.  No one visits me ー only the weary autumn comes.

N君:第1文では be動詞が省略されているようです。第2文の weary は「うんざりな」という意味の形容詞で、動詞の wear「着る、すり減る」から来ています。動詞の発音は[i]なのに形容詞では[e]なので発音注意とのことでした。

K先輩:八重葎とは何でしょうか。八重歯や八重桜でもわかる通り、八重というのは「幾重にも折り重なった」の意です。葎(むぐら)というのは蔓草(つるくさ)のこと。昔は立派だった邸宅が時を経て荒れ果て、そこに蔓草が生い茂るようになります。No.100順徳院「ももしきや古き軒端のしのぶにも」に登場する忍ぶ草も同じで、葎も忍ぶ草も「時の流れと共に朽ち果てていく物が醸し出す寂寥感」を表す言葉です。私は昔、まだ古文のことなんかなーんも知らなかった頃、たまたまこの歌を知っていて、葎が単なる蔓草ではなくて寂しさを表す小道具だと知っていた時に、たまたまテストで「以下の文章は誰それ作『八重葎』の一節である、これを読んで以下の問いに答えよ」という問題に出会ったことがあります。読んでも内容はチンプンカンプンでしたし蔓草の話など全く出てこなかったのですが、「葎を知っていたおかげで、話のテーマは寂寥感という気がした」ので、結構スラスラ回答できた思い出があります。またこんなこともありました。あれはたしか東大オープン模試でのことでした。当時私は数学のみ人並みであとはボロボロ、特に古文漢文は酷く、書いてあることの1割も分からない状態でした。そこに、No.63左京大夫道雅「今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな」を題材にした評論風の古文が出たのです。私はこの歌を古文としては知りませんでしたが、歴史背景には詳しかったのです。道長に追放された伊周の息子道雅=本歌作者 が密かに情を交わして通っていた相手=三条院皇女当子内親王 は、実は伊勢神宮斎宮(男性関係を禁じられた巫女さん)だったため、二人の関係を知った院がたいそう怒って監視役を付けたのです。高校生のくせに、私はこういうスキャンダル風の話題には詳しかったのです。結局この歌は「禁じられた恋への男の一途な思い」を謳っているのであって、それを知っていた私は案外スラスラ回答できたのです。これら二つの実例から私は「何が幸いするか分からない」ということをN君に言いたい。ちょっとした催事の起源、歴史上のコアな知識、皇室スキャンダル、昔の髪型やファッションのこと、時代時代の流行りもの、何でもよいのです。古典文法も大切でしょうが、そういう生々しい受験テクニックよりも、むしろ「昔にまつわる色々な下世話な事」に常日頃から触れておくことが大切です。そのためには子供の頃から宇治拾遺物語・今昔物語などを読むのも面白いでしょうし、百人一首のかるたをやるのも良いと思います。たとえば「耳はさみ」という髪型のことをご存知でしょうか。女性が垂れてくる前髪を邪魔にならぬように耳の後ろにかきあげた髪型で、現在では一般的などうと言うこともないスタイルですが、平安時代にはこの耳はさみは「はしたない髪型」とされていたのです。女性はおっとりと優美に構えているのが良いのに、「耳はさみ」には忙しく立ち働く女、というイメージがあって「はしたない」と見られていたのかもしれません。

オリジナル勉強風呂Gu 第468回 2022.6/29

百人一首No.46. 曾根好忠(そねのよしただ):由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行くえも知らぬ恋の道かな

由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が、舵がなくなって行く先も分からず漂うように、これから行く先の分からない恋の道だなあ。

N君由良川京都府の真ん中あたりから北西(丹後国)に向かって流れ若狭湾へ注ぐ大きな川で、河口の西方には日本三景のひとつ「天の橋立」もあります。

As a boatman who has lost his rudder in a rapid stream of the Yura Channel will drift in uncertain direction, so will the destination of our love be unknown.

S先生:「たとえの構文」As ~, so ~ の形を使ってきましたね。後半は強調のために助動詞 will が前に出ていますがこれもアリです。このような倒置はあってもなくてもよいです。前半部分のラストに使われた direction にかかる前置詞はいかなる場合でも必ず in であることを再確認しましょう。I was looking in his direction. が正しいのであって、at や to は誤りです。Yura channel ではなくて Yura Channel で正解です。

As a fisherman will drift on the waves with his rudder lost at the Straits of Yura, so do I not know where our love will go.

MP氏:Crossing the Straits of Yura the boatman lost the rudder.  The boat's adrift not knowing where it goes.  Is the course of love like this ?

N君:MP氏の作品では「舵を失った」のが単なるたとえ話ではなくて「過去の事実」として述べられていて、現在形で述べられた「恋の行方の問題」が生々しく浮かび上がっています。

K先輩:第451回で登場した No.29凡河内躬恒「置きまどはせる白菊の花」が淡路国掾であったのと同様に曾根好忠は丹後国掾でした。よって彼に付いたあだ名は曾丹で、明らかに軽蔑comtempt の意が含まれています。都の貴族に比べて身分が低いということも軽蔑の一因ですがそれだけではありません。好忠は相当な偏屈者 a narrow-minded person であったらしく、招かれてもいない歌会に乗り込んで「わしが招かれていないのはおかしい」などと文句をつけて、襟首をつかまれてつまみ出された、などというエピソードもあります。なかなか微笑ましい変わり者とお見受けしました。こういう男、私は嫌いではありません。冷淡かつ貴族然として取り澄ましている男に比べればマシです。さて皆から軽んじられた曾丹でしたが、この歌はなかなかしゃれています。激しい恋の歌ですが、どこか達観したような抜け感がありますね。この恋はもう自分の制御を離れてしまっていてどうしようもない、あとは風まかせ、どうにでもなれ、自分はその力に身を委ねて漂うだけだ、と言っています。男性歌らしい清々しさを感じます。女性だとこうはいきません。たとえば No.56和泉式部「あらざらむ」の歌は一途過ぎてご遠慮申し上げたいし、No.80待賢門院堀河「長からむ心も知らず黒髪の」の歌はドロドロとした艶めかしさに圧倒されてしまいます。コッテリ感がすごいのです。もっとも、この黒髪の歌を添削指導したのは佐藤義清(さとうのりきよ、後の No.86西行法師)だという噂もあります。西行にはプロデューサーとしての才能があったのかもしれないですね。源平合戦のさなかに平重衡によって焼かれた東大寺勧進のため、1186に西行は奥州平泉の藤原秀衡を訪ね、その帰途に鎌倉の頼朝を訪ねています。もしかすると東大寺勧進というのは隠れ蓑で、西行には別の目的があったかもしれません。1185に壇ノ浦合戦が終わって平家が滅びたわけですが、1186当時は頼朝が仲違いした弟義経を追っている最中でした。頼朝は当然「早晩義経は秀衡を頼って奥州平泉へ行くに違いない」と見ており、奥州の動向を知りたがっていました。ゆえに、頼朝の意を受けた西行が、秀衡と会って様子を探りそれを頼朝に報告した、という想像も成り立つわけです。その情報との交換で頼朝も勧進のための金を出した、ということも考えられるのではないでしょうか。ただし義経が奥州に入ったのは1187ですから、西行義経には会っていません。また1187に義経に再会した秀衡はそのすぐ後に脳溢血で亡くなっています。頼朝は1189に奥州征伐をやり、義経は衣川の持仏堂で自害します。持仏堂の前で多数の矢に貫かれながら立ったままこと切れた「弁慶の仁王立ち」の名場面です。

オリジナル勉強風呂Gu 第467回 2022.6/28

百人一首No.45. 謙徳公:あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたずらになりぬべきかな

私のことをかわいそうだと言ってくれそうな人は思い浮かばず、きっと私はひとり虚しく死んでいくに違いないのだなあ。

N君:えらく negative な歌です。作者は何か悲しいことでもあったのか?

I cannot recall anyone who will show grief over my broken heart.  So I am sure to die in vain without being noticed by anyone.

S先生:高校生のN君には分からないと思いますが、人間どんなにお金持ちでも歳を取って死が近くなると、こういう気持ちにもなるのです。N君にも分かる時が来ます。remember ではなくて recall を使ったのは良かったです。recall のほうが堅くて品がある印象です。このほかでは think up「考案する」はちょっとズレていて、使うなら think of 「~のことを思う」でしょうか。

I can't think of a lady who will have a compassion for me.  Ah, shall I be doomed to pass away forsaken ?

N君:pass away は die の雅語。forsake「以前親密にしていた人との縁を断つ」で、過去分詞の forsaken は、deserted とか abandaned のような意味を表しており、副詞ではなくて補語として使われていることに注意を要します。短く締まった文ですが情感たっぷりで、僕の平板な文とは大違いです。情感が増した理由はいろいろあると思いますが a lady をもってきたことでグッと深まった印象です。

MP氏:’I feel so sorry for you !' ー No one comes to mind who would say that to me.  Does it mean I must die sad, alone ?

N君:「『まあ可哀そうに』と言ってやってきて心配してくれるような人は誰もいない、つまりそれは、独り寂しく死んでいくほかない、という意味ですよね。」とMP氏は作文しています。

S先生:第459・462・464・465回に続いて「日英ことわざ比較」をやります。

(1) 朝令暮改=朝と晩で法律は同じではない:The law is not the same in the morning and in the evening.

(2) 蓼食う虫も好き好き=人の好みは説明できぬ:There is no accounting for tastes.

(3) 将を射んとすればまず馬を射よ=フランスを勝ち取るつもりの男はまずスコットランドから始めねばならぬ:He that will win France must fiest begin with Scotland.

(4) 諸行無常=生生流転=セントポール寺院とはいえ永遠に立ってはいない:St. Paul's will not stand forever.   このアポストロフィエスは Cathedral くらいの意。

(5) 生者必滅会者定離(しょうじゃひつめつ えしゃじょうり)=生まれて最初のひと呼吸は死の始まり:The first breath is the beginning of death.

(6) 小人閑居して不善を為す=怠惰は全ての邪悪の母:Idleness is the mother of all evils.

(7) 小の虫を殺して大の虫を生かす=失うなら命よりも足:Lose a leg rather than a life.

(8) 因果応報≒自業自得=アザミの種を蒔く者はその棘を刈らねばならぬ:He that sows thistles shall reap thorns.

(9) 瓜の弦に茄子は成らない=病気の親犬から元気な子犬を得ることはできない:We may not expect a good whelp from an ill dog.

(10) 憎まれっ子世にはばかる=雑草はトウモロコシよりも背が高くなる:The weeds overgrow the corn.

K先輩:第448回に登場した「みゆき待たなむ」の藤原忠平が死後にもらった諡号(おくりな)が貞信公であったように、その孫伊尹(これまさ)の諡号が謙徳公で本歌作者です。忠平の頃の醍醐天皇が902延喜の荘園整理令を出した頃すでに相当おかしかった班田収授は、それから50年くらい経った伊尹の時代には完全に崩壊していて、寄進地系荘園の時代へ突入しつつあったのです。はじめはドンドンと新田を開墾して私財とする墾田地系荘園だったのですが、荘園領主たちは開墾した荘園を皇族貴族・大寺院へ寄付して不輸不入の特権privilege を得て「税金も納めないし検査もお断り」の状態にした上で、自らは現場監督=荘官に収まったのです。要は「楽して暮らそう」ということです。寄付を受けた都の貴族たちは呑気なもので、自分の収入=荘園からの上納 さえあれば、国家の屋台骨がどうなろうと知ったことではありませんでした。たしかに936承平天慶の反乱で都は一時的に上を下への大騒ぎになったことはありました。「東の将門と西の純友が比叡山頂の岩に腰をおろして握手し、都を焼き払ってやろうと見おろしている」といった噂が流れたりもしました。しかし一旦反乱が鎮圧されてしまえば「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の諺通り、皆その恐怖を忘れてしまって再び目先の利益を貪るようになったのです。いつの時代にも既存の権力者にすり寄ってチャッカリ仕事をしようとする小者は居るものです。将門を倒した平貞盛藤原秀郷、および純友を倒した小野好古源経基などは典型的な小者であったと私は思います。そういった小者たちの助けによって延命した貴族政権のもとで国風文化は花開いていきます。国政の危機を自覚せず個人的な安逸を貪っていた、という意味において伊尹もまた凡庸な貴族の一人だったと言えるでしょう。かれらにできる唯一の仕事は「文化の継承」であり、それはそれで有意義なことであったと思います。伊尹は「梨壺の五人」の筆頭として第二勅撰和歌集後撰集を編纂しました。重税に喘ぎ基本的な衣食住にも事欠く一般大衆を踏みつけにすることで、文化は花開き、本歌のような”贅沢な悩み”も歌の題材として使われたのです。貴族の家に生まれ育って金の心配がなく、朝起きても別に仕事とてなく何をやっても自由、ということになれば、これはもう第465回で触れた琴棋書画しかないでしょう。私が分からないのは「どうしてこの時期の日本では数物化・生物学・天文学が発達しなかったのか」という点です。朝から何もすることのなかった貴族たちはなぜ琴棋書画ばかりやったのでしょうか。女性にもてるからでしょうかね。数学をやる奴は一人もいなかったのか? 「数学はこの世で一番の娯楽である」という言葉があり私も大賛成ですが、数学をやっても女性にはもてないです。

魅力的な数学の問題をひとつ紹介しておきましょう。それは「コラッツの問題」と呼ばれるもので、京都大学の入学式の直後に理学部生だけ集められて数学科の先生から教えてもらった未解決問題です。ある自然数kをひとつ与えられ、k奇なら 3k+1 を作り、k偶なら k/2 を作ります。新たに出来た自然数の奇遇により同じ操作を繰り返すと、どうも最終的には 1 に帰るように見えます。たとえば 6→3→10→5→16→8→4→2→1 という具合です。これがすべての自然数kに対して成り立つならそれを証明して下さい。反例があるなら一つでいいから示して下さい。私の検討によると、「帰納法でやっても完全解決は無理」「どうもすべて1に帰るようだが、(2のn乗)-1 の形の自然数は1に帰りにくい、つまり1に帰るのに多数回の操作を必要とする」「(2のn乗)-1 の形は2進法で言うと 111・・・11 の形であり、本問は2進法と何か関係がありそうだ」というところまで分かっています。ぜひN君も挑戦してみて下さい。

入学式直後のこの会ではノーベル物理学賞を受賞した先生のお話もありました。その先生曰く「嫌いなことはやらなくてよろし、好きなことだけトコトンやりなはれ」と。京都大学理学部というところは恐ろしいくらい自由なところです。必修科目というものがほぼなくて「好きなことだけ自由にやれ」というスタンスで、最後の半年だけはちゃんと卒業研究をやってくれよ、という感じでした。私にはとても合ってました。自由すぎて2留3留する人を結構見ましたが「それが普通」という感覚でした。休学してブラブラしている人も結構いました。「おりこうさん度」では東大にはかないませんが、なかなか魅力的な学校です。学長や名物教授から成る「変人会議」なるものがあって、公開で討論会みたいなことをやってました。なんでもかんでも効率重視の世の中にあって、このような「時間かけて納得いくまで自由にやってみなはれ」という学風は貴重です。そのような環境からは、大多数の落ちこぼれとごく少数の天才が出て来るでしょう。それで良いと思います。それが京都大学理学部の存在意義だと思います。