kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第463回 2022.6/24

百人一首No.41. 壬生忠見(みぶのただみ):恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか

恋をしているという私の噂が早くも立ってしまった。誰にも知られないように心ひそかに思い初めていたのに

N君:「まだき」は副詞で「早くも」「もう」の意。あまり使われませんが現代でも「朝まだき」という言葉があります。これは現代では名詞になっていて、朝方のまだ夜が明けきらないころ、つまり「未明」の意です。本歌では上句と下句が倒置されていて、本来は「人知れずこそ思いそめしか 恋すてふわが名はまだき立ちにけり」です。この場合「係り結びがそこで終わらずに続いていく時には逆接の意」を表すので「思っていたのだが」と訳します。古文の大切なところで第469回にも出て来ます。

Although I secretly started to love her, people have already begun to talk about it.  How on earth could they notice my private love ?

S先生:ほぼ良いと思います。N君の第1文や以下に示した私の作文でもそうなのですが、主節の主語と従属節の主語が相異なっていますね。これは間違いというほどではないのですが、できれば避けたほうが良いとされています。主語が一致している文のほうが読みやすいからなのでしょう。

A rumor is already spread that I am in love with her though I have had a secret love for her.

K先輩:第462回に「我が国初の文字使用例」~「暗黒の5世紀」について話したので、今回はその続きとして「中国の歴史書に書かれた倭国の姿」について語ってみたいと思います。我が国には文字がなかったのでその様子を知るためには中国の歴史書に頼るしかないのです。BC100~AD500くらいの約600年間に、倭国に関する記述が4つあります。第1は「漢書地理志」です。BC100~AD0 くらいの倭について書かれていて「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す、歳時をもって来たり献見すという」というフレーズで有名です。楽浪郡というのは今の北朝鮮の東部にあたり、ここに前漢の出張所があって、この出張所に倭国から貢物を携えた使節がお中元・お歳暮を持ってきていた、というのです。この頃倭国は100個くらいの小国に分かれていたのですね。その中の有力な数か国が楽浪郡へやってきて前漢の庇護を求めた、ということなのでしょう。第2は「後漢書東夷伝です。東夷というのは東方にいる夷(えびす)=田舎者 という意味です。当時の倭国を中国から見ればそのように見えたでしょう。そもそも「倭」というのは「背の小さな人」の意味で、栄養不良の結果でしょう。さてこの後漢書東夷伝には具体的な年号を持った情報があって非常に有用です。まずは「57年に倭の奴国(なこく)が後漢の都洛陽に使いを送り光武帝から印綬を授けられた」という記述があります。「漢倭奴国王(かんのわのなこくおう)」と書かれたこの金印は江戸時代の中頃に福岡県志賀島で発見されました。百姓の甚兵衛さんが農作業中に石の下から見つけたそうです。鉄と違って金は錆びないのでピカピカ光っていたでしょうね。3cmくらいの小さな金印で、福岡の博物館で初めて見たときはその小ささに拍子抜けしてしまいました。あれはレプリカだったのかもしれませんがとにかく小さかった。志賀島博多湾を形成する”海の中道”の先端に位置する島ですがほぼつながっていて、車でそのまま行けます。ここに金印公園という名の公園があって私も行ってみました。金印をイメージしながら行ったのですが、来てみると元寇に関する看板が付近にたくさんあって「なるほど金印より元寇なんや」と感心した思い出があります。金印も元寇も外国との接点があってこその遺物であり事件であったと思います。ここの海を眺めながら、弥生時代あるいはもっと昔から、北部九州は大陸や朝鮮半島と密接につながっており、平城京平安京の純和風な感じとは全く異なる文化圏にいたのだ、という思いを強くしました。さて57金印に続く後漢書東夷伝の記述を訳すと「107年に倭の国王帥升(すいしょう)が安帝に生口(せいこう)160人を献じた」となっています。帥升が倭のどのあたりの国王だったのかは不明です。生口というのは奴隷のこと。その国に金とか馬とか錦とかの特産物があればそれを献上すればよいのですが、貧しくて遅れた国にはそのような特産物はありませんから、人間そのものを献上するというわけです。献上される人間というのは奴隷であったり美女であったりしたでしょう。さて57金印、109帥升、に続く記述は「恒霊の間(147~189)倭国おおいに乱れ更相攻伐して暦年主なし」です。一言でいえば「倭国大乱」ですね。100余りの国たちが戦いを繰り広げながら次第にまとまっていく真最中にあります。第3は「魏志倭人伝でこれが最も有名かつ最も多くの情報量を持っています。その書き出しは「倭人は帯方東南、大海の中に在り、山島に依り国邑を為す、もと百余国、漢のとき朝見する者あり、今使訳通ずる所は三十国なり」です。100から30に減りましたね。これには倭国の習俗や小国の配置や邪馬台国統治機構などについて面白いことがたくさん書かれていますが、最も大切な記述は「239年に卑弥呼が使者(難升米、なしめ)を魏に遣わして天子から【親魏倭王】の称号と金印を授けられた」です。先ほどの甚兵衛さんの金印とは違って、卑弥呼が魏からもらった金印はまだ見つかっていません。その金印の銘文は不明ですが仮に「親魏倭王の金印」ということにしておきましょう。令和の現在でも邪馬台国の位置については北九州なのか奈良盆地なのか論争が続いていますが、もしもどこかから「親魏倭王の金印」が出てきたら大スクープになります。それが出た所が邪馬台国です。ちょっと話が飛びますが、奈良県桜井市三輪山というきれいな山がありその西麓に大神(おおみわ)神社があります。三輪山自体がご神体という珍しいお宮で、大きな鳥居が遠くからでも目立ちます。ここの主祭神大物主大神(おおものぬしのおおかみ)という男の神様で、その嫁はんが第7代孝霊天皇の皇女である倭亦亦日百襲姫命でした。読み方が難しいので一字一字確認しながら「やまと・ととひ・ももそ・ひめのみこと」と読みます。第462回で考察した第14代仲哀天皇(神功皇后の夫、応神天皇の父)が300年代後半でおそらく370くらいとして、1代あたりの活躍期間を20年と考えると孝霊天皇は 370-(14-7)×20=230 となって孝霊帝は200年代前半の人、ということになります。その娘である倭亦亦日百襲姫命は 230~250くらいの頃の人でしょう。この女性は子供の頃から神懸かり的な逸話を残しており謀反の予言などもやったようです。この230という数字は、古代ロマンを追っている者にとっては”特別な響き"を持っているのです。そう、卑弥呼のふみ来る倭人伝、すなはち239年だからです。さて倭亦亦日百襲姫命は夫である大物主が夜だけは閨(ねや)に来るのに昼間はどこかに姿をくらましていることを訝しく思い、「昼間も一緒に居て」と頼みます。そのあと朝になって大物主の姿を見るとなんと「一匹の美しい蛇」だったのです。あまりのことに驚き悲しんだ倭亦亦日百襲姫命は「箸を自分の陰部に突き立てて」死んでしまいました。私は古事記のこのあたりの記述がどうも奇想天外すぎてついていけないのですが、とにかく倭亦亦日百襲姫命は若くして亡くなったようです。出産の際の出血多量で死んだのかもしれません。夫である大物主を祭った大神(おおみわ)神社から北へ1kmくらい行ったところに大きな前方後円墳があり、大昔から箸墓古墳と呼ばれています。名古屋大学中塚武教授は「年輪セルロースを対象とした酸素同位体による1年単位での年代測定」を精力的に進めており、箸墓古墳出土の木材から230あたりの年代が測定されれば、一気に「卑弥呼=倭亦亦日百襲姫命」が現実的になってきます。第462回で私は「卑弥呼は大和政権草創期の少し後に存在した女シャーマンだ」と言いましたが、その結論は「卑弥呼は倭亦亦日百襲姫命でありその墓は箸墓古墳だろう」です。親魏倭王の金印がまだ出てきていない現段階では、中塚教授の研究結果が待たれるところです。日本書紀箸墓古墳について「昼は人が造り夜は神が造る」と表現していて昼夜兼行の大事業だったようです。魏志倭人伝にも「卑弥呼死しておおいに塚を造る」と記述されています。さて魏志倭人伝は最後に「卑弥呼の死後に男王が立ったが国が乱れたので、後継者として壱与(いよ)という名の女子を立てたところ国が収まり、壱与は266年に西晋に使いを出した」と記述しています。この後300年代にはちゃんとした資料が存在せず、唯一の資料は第462回でも触れた391好太王碑で、私は神功皇后がかかわっていたのではないかと考えています。第4は「宋書倭国伝」です。これは讃・珍・済・興・武 すなわち「倭の五王」の話であり第462回にて詳しくやりました。400年代の話になります。その中に倭王武=第21代雄略天皇が478年に宋の順帝に上表文を出していることが書かれています。雄略天皇は「私の祖先は東~西~海北に出兵して多くの小国を切り従えてきました、ついては今回これらの地域をまとめた私を安東大将軍倭国王として認めて下さい」と言っています。順帝は「おお、よしよし」みたいな返事をしていますが、百済への統治は認めなかったようです。いろいろな power balance があったのでしょう。

57漢倭奴国王の金印:粉ふりかける光武帝

239卑弥呼が魏へ使いを出す:卑弥呼のふみ来る倭人

391広開土王碑:サンキュー一発好太王

478雄略天皇の上表文:死なばもろとも雄略帝

以上の 漢書地理志~後漢書東夷伝魏志倭人伝宋書倭国伝 を概観しますと、時期的には BC1~AD1および2~AD3~(AD4をとばして)~AD5 という並びになります。内容的には、百余国~金印「漢倭奴国王」と倭国大乱~三十か国のひとつ邪馬台国とその女王卑弥呼倭の五王 となります。500年代に入って福井県からやってきた第26代継体天皇が即位し、この頃から我が国の歴史には薄陽が射すようになります。暗黒の5世紀を抜けたの感あり、です。

ちなみに BC=before Christ=キリスト誕生以前、AD=Anno Domini=in the year of Our Lord=我らが主の紀元~年=キリスト生誕後~年 という意味です。