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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第515回 2022.8/15

百人一首No.93 鎌倉右大臣:世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも

この世の中はずっとこのまま変わらないでいてほしいものだ。波打ち際の小舟に付いた引き綱を見ると、身にしみて心動かされるなあ。

N君:鎌倉右大臣は頼朝の次男で鎌倉3代将軍実朝です。万葉集に連なる力強い歌を金槐和歌集の中に残しました。金塊ではなくて金槐です。この槐は中国語で「大臣」くらいの意味らしいです。

Although I know how evanescent this world is, I hope it will last forever.  I am touched to see a fisherman rowing his boat along the shore, pulling the rope of a smaller one.

S先生:第1文主節の hope は常に expect との使い分けが問題になるところです。expect の場合は良いことでも悪いことでも予想の対象となります。hope は良いことを予想します。本文では it will last forever が良いことなので hope を使ったのは正解でした。第2文の be touched to do 「~して感動した」は頻出なので覚えましょう。「心に触れられた」という感じです。漁師がメインの舟を漕ぎながら、綱で小さなボートを引いて進んでいく状況を歌っていると考えられます。

I wish this world would be as it is.  I am deeply moved to see a fisherman rowing along the beach pulling a small boat.

MP氏:Would that things not change.  These simple movings sights ー Fishermen at their common chores, rowing their small boats, pulling nets along the shore.

N君:MP氏の作品第1文は祈願文のような雰囲気です。「変わらないでいてくれ」という内容でしょう。第1文の主語 that things を第2文で具体的に言い換えているのだと思います。

K先輩後白河院の死を契機として頼朝はようやく1192に征夷大将軍となり、これが昔から鎌倉開幕の年号とされてきましたが、実際には1185ころから政所・侍所・問注所を開いて東国支配を始めていたので、最近ではこの1185あたりを開幕の年号としているようです。いずれにしても後白河院の存在の大きさが分かりますね。その頼朝も1199には落馬事故がもとでアッサリ死んでしまいました。50歳でした。教科書などに載っている頼朝像の絵はスケッチブックサイズくらいかと思っていたのですが、最近京都国立博物館で見たその絵はとてつもなくデカいものでした。3メートル四方くらいあったと思います。漢倭奴国王の金印がビックリするくらい小さかった経験とも合わせて、何事もちゃんと実物を見ないと分からないものだ、と思いました。さてあまりにもあっけない頼朝の死に際して妻北条政子は泣いたでしょう。二人はこの時代には珍しい大恋愛の末の結婚でしたからね。しかし頼朝亡き後の政子の行動が私には分からないのです。頼朝政子夫婦の長男頼家の後見に立ったのは有力御家人比企能員(ひきよしかず)でしたが、政子の父時政は1203比企氏を滅ぼし1204頼家を伊豆修善寺に幽閉して謀殺してしまいました。自身が後見している次男実朝=本歌作者を3代将軍に据えたのですが、義時(=時政息子=政子弟)が、頼家の遺児公暁(くぎょう)を焚きつけて1219鶴岡八幡宮参詣途中の実朝を暗殺させたのです。鶴岡八幡石段の向かって左手にある銀杏の大木の陰に公暁は隠れていたのですが、この銀杏が平成の終わり頃の台風で根こそぎポッキリと折れてしまいました。3代将軍就任を鎌倉の守り神である鶴岡八幡へ報告するための儀式でしたから、実朝と共に義時もその行列に加わる予定であったのに、義時はその直前になって”腹が痛いから家に帰って休みます"などと言って行事に参加せず、難を逃れたのです。ここらあたりの経緯は古来謎とされていて2022NHK大河ドラマでどのように描かれるのか、私は大変興味があります。ここまで見てきて頼家・実朝という実の息子2人を殺された政子の心中はいかばかりか、と思います。しかも下手人は父であり弟であり孫、つまり全て身内です。色々な事情があったにせよ政子は婚家=源が滅びるのを指をくわえて見ていたのであり、実家=北条が執権として権力を掌握していく事をよしとしたのです。1221承久の乱では後鳥羽院が2代執権義時の追討令を出したので、これに対抗して鎌倉から京へ軍隊を派遣することになったのですが、鎌倉出発の前夜に政子は関東武士どもの前で大演説をぶっています。まさに尼将軍ですね。彼女は「頼朝様の御恩に報いるため」などと叫びましたが、関東武士を結束させて後鳥羽院を排斥すれば得をするのは北条です。このあたりの政子の心の動きが読めないのです。そもそも頼朝政子の夫婦仲がどうだったのか、というところに戻って考え直してみましょう。大恋愛の末の結婚ですから当然はじめのうちは仲が良かったでしょう。父時政の勧めを断って政子は頼朝のもとへ走ったのですから、令和の現代から見ても熱い結婚です。しかし都育ちの頼朝には複数の愛人がいました。都ではそれが当然でしたからね。愛人の一人に亀前(かめのまえ)という人がいましたが、政子は亀前の家を焼いたばかりか、亀前をかくまった御家人を処罰しているのです。また別の愛人が政子に恐れをなして西方へ逃げていく途中に大阪住吉神社誕生石の上で島津藩祖三郎忠久を生んだ話を以前しましたね。要するに政子はかなりの鬼嫁だったと考えられます。その鬼嫁ぶりは日野富子(室町8代将軍義政の嫁)にまさるとも劣らないものだったでしょう。大河ドラマではきれいに描かれていましたが、私は二人の仲は結構剣悪だったのではないかと思っています。政子の頼朝への恨みが源家の将軍を途絶えさせ、北条の執権政治を招来したのではないでしょうか。直木賞作家永井路子先生が歴史小説北条政子」でこのあたりの政子の心理を描いていますのでN君も読んでみてはいかがでしょうか。永井路子先生は女性の立場から歴史を見つめた凄い人でした。江戸時代の初代土佐藩山内一豊がまだ若い頃、信長の「馬揃え」に一豊が乗っていく良馬を、妻千代がヘソクリ10両をはたいて買った、という話が「内助の功」のモデルケースとしてもてはやされているわけですが、永井先生によれば「女というものはそんなことにヘソクリをはたきません!」とのこと。ことの真相は以下のようなことが考えられます。一豊が千代のヘソクリ10両をこっそり拝借して良馬を買い馬揃えに出た時、友人に尋ねられた一豊がつい「妻千代がヘソクリで買ってくれた」と言ってしまったのが、口から口へと広まった。周囲の者が皆で千代をほめそやすので千代は「10両盗まれたのはくやしいけれど一豊をとっちめるわけにもいかない」という落とし穴に落ちてしまった。女性は虚栄心の塊ですからね。千代は引きつった笑顔で周囲の者に応対しながら「立派な奥さん」という評判を得たことに満足した、という次第。この説は私の友人の歴史学者M氏のものですが、けっこう当たっているんじゃないかと思います。