kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第516回 2022.8/16

百人一首No.94 参議雅経:み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣打つなり

吉野の山里に秋風が吹き夜が更けて、この里は寒く衣を打つ音が聞こえてくる

N君:句末の助動詞「なり」は断定ではなくて伝聞推定です。直前の「打つ」が連体形なのか終止形なのか分かりませんが、ここは意味からして終止形であり、終止形接続の「なり」は伝聞推定でしょう。紀貫之土佐日記冒頭「男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり」の前半は終止形接続で伝聞推定、後半は連体形接続で断定です。

On an autumn night a cold wind is blowing hard over the country of Yoshino, which used to be a capital.  Hearing some woman pounding the cloth to soften and brighten it, I recall the deserted landscape of my hometown.

S先生:some woman「誰か知らないある女性」、a certain woman「名前を知っているけれどもあえてここでは言わないある女性」です。ここでは some woman で良いでしょう。「衣を打つ」というのは中国語で「擣衣(とうい)」と言って、衣類を柔らかくかつ光沢を出すために、昔から女性が夜なべをしてやっていた作業です。衣を打つための小さな木槌を「きぬた」と呼んでいました。N君の作文にはこの説明部分が入っているので歌の作文としてはどうなのか、と思いますが、この説明がなければないで歌意が分からないので、痛し痒しというところです。李白の詩を紹介しておきます。「長安一片の月、万戸(ばんこ)衣を打つの声、秋風吹いて尽きせず、、、」。人家もまばらな吉野の里に秋夜の冷たい山風が吹いていて、そのヒューヒュー鳴る寒い音の間に砧(きぬた)の音が混じって聞こえてくる、という歌です。思い浮かべるだけで寂寥感がこみあげてきます。これを表す形容詞は dreary でしょう。

While an autumn wind is blowing down from the mountain through the night, I feel dreary to hear some woman beating the cloth at Yoshino, a chilly old capital.

MP氏:The autumn wind blowing down the mountain brings on the night.  At the old capital of Yoshino it gets colder, and I can hear pounding ー cloth being fulled.

K先輩飛鳥井雅経(あすかいまさつね)は蹴鞠(けまり=しゅうきく)を家業とする珍しい貴族で、その屋敷は御所のすぐ北西にありました。屋敷跡は現在では神社になっており、サッカーやバレーボールの選手がお参りに来ます。Jリーグの偉い人なんかも来るらしいです。その名も「白峯神宮」。神社の前に市バスの停留所があり私もバスを降りて行ってみました。白峯といえば、讃岐で亡くなった崇徳院のお墓が確か白峯陵でした。第499回で触れたように、西行崇徳院の怨霊を慰めようとしてお参りしたのが讃岐国白峯陵でした。幕末の孝明天皇が「讃岐に流されたままの崇徳院が可哀そうだから御霊を都に帰してあげよう」と発願しこの場所に祀った、とのことです。だから白峯神宮には「蹴鞠および崇徳院」という二つの側面があるのです。歴史というものは妙なもので、全く関係のなかったものどうしがある日突然出会うことがあるのです。化学反応に似ています。通常環境では反応しないAとBが特殊環境で反応して見慣れぬ化合物を作ることがあり、白峯神宮はその好例でしょう。私がお参りした日にはバレーボール女子日本代表の勝利祈願の絵馬がデカデカと掛けられていました。高度できつい練習をこなしながらも最終的にはこうして球技の神様に願掛けをするんだなあ、としみじみ思いました。さて孝明天皇が不憫に思って都に呼び戻した御霊は崇徳院だけではなく、もう少し前の淳仁天皇の御霊も。764恵美押勝(えみおしかつ=藤原仲麻呂)の乱で仲麻呂が失脚した時、淳仁天皇は実のところ無関係であったのに何故か淡路島へ流されてしまったのです。讃岐の崇徳院、淡路島の淳仁天皇、お二人とも不運な人生を歩いて都から離れたところに葬られたのですが、そのことを哀れに感じた孝明天皇が彼らの御霊を都に呼び戻したのです。孝明天皇の優しさ溢れる手配ぶりは、球技におけるチームワークにも通じるところがあるように思います。

孝明天皇と言えば、幕末の動乱の中で妹和宮を14代将軍家茂に輿入れさせて公武合体がこれからだという時に、1867正月に天然痘であっけなく亡くなってしまいました。まだ35歳でした。1866の年末には坂本龍馬中岡慎太郎の手引きで秘密裏に薩長同盟が締結されていましたが、1867に入ってすぐに孝明天皇が亡くなったことは、薩長による”武力倒幕"にはずみをつけたでしょう。もし孝明天皇が生きていたら武力倒幕とはならずに、新政府には徳川も参画していた可能性が高く、そうなればその後の歴史は全く別のものになっていたでしょう。西南戦争や日清・日露の戦争も全く異なる様相を呈していたでしょう。孝明天皇の突然死に関しては昔から色々取り沙汰されていて、薩摩藩の誰かが暗殺したのではないか、などという説もあるくらいです。熱が出てブツブツができたのなら天然痘で間違いないでしょう。天然痘で死んだ歴史上の人物といえば、奈良時代藤原四兄弟が有名です。聖武天皇の皇后になった光明子の兄4人です。藤原南家の武智麻呂、北家の房前(ふささき)、式家の宇合(うまかい)、京家の麻呂です。729に長屋王を自殺に追い込んで実権を握ったまではよかったが737に天然痘にかかって皆死んでしまい、その後は橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を引き継ぎました。安土桃山時代では仙台藩伊達政宗ですね。梵天丸と呼ばれていた子供時代に天然痘にかかって死にはしなかったが右目を失明しました。黒い眼帯をした独眼竜政宗として令和の現在も有名ですが、実際にあの眼帯をしていたかどうかは不明であって、最近の研究では「おそらく眼帯をしていなかった」ということになっているそうです。眼帯と言えば江戸時代のはじめ、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の長男十兵衛は黒い眼帯をしていたのでしょうか。こちらは天然痘ではなくて、烏丸少将の射た矢が当たって失明しました。