kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第424回 2022.5/16

百人一首No.2. 持統天皇:春過ぎて夏来(き)にけらし白妙の 衣干すてふ天(あま)の香具山(かぐやま)

春が過ぎてもう夏が来てしまったらしい。夏になると真っ白な衣を干すという天の香具山なのだから。

N君:「白妙の」と来れば「衣」となる。これは枕詞と呼ばれるもので、ある種の有難味を呼び起こす呪術的な言葉らしいです。あかねさす→紫、ひさかたの→光、たらちねの→母、あをによし→奈良、などたくさんの枕詞があります。「けるらし」がつづまって「けらし」になったとのことです。過去けり連体ける+現在推量らし終止らし。同様に「といふ」がつづまって「てふ(発音は”ちょう”)」になりました。古文もいろんなことがあるんですね。本歌を読んで想起されるのは「5月中旬のよく晴れた昼前、気持ち良い風が吹きわたっており、眺めれば緑萌え出づる山々、そこに真っ白な布がたなびいている」という景色です。緑と白のコントラストがまぶしい。

Spring has gone and summer seems to have come.  I can imagine pure white cloth hung in dry May breeze and the bright sunshine of "Ama-no-Kaguyama".

S先生:第1文は完璧です。簡潔で言いたいことがよく伝わって来ます。このような文を英訳するとき時にやたらと apparently のような副詞を使いたがる人がいますが、この種の修飾語をできるだけ使わない方が余韻があって良いのです。第2文に入って、cloth「ただの布」なのか clothes「衣類」なのか判断に迷いますが、私は clothes で作文してみました。5月の風は dry よりも soft あるいは fresh のほうが良いでしょう。ここは in a fresh May breeze のように不定冠詞を入れて下さい。 sunshine of ~ は、~の部分が香具山なのですから、前置詞は of ではなく場所を表す at にして下さい。その後の "Ama-no-Kaguyama" ですが、「天の」は枕詞みたいなものですから、簡潔に Mt.Kagu としてはいかがでしょうか。double quotation marks はこの際不要でしょう。最後のところで、ピリオドを quotation marks の外に置いていますがこれはいけません。カンマやピリオドは必ず quotation marks の内に入れて下さい。例文を示します。He said, "I heard her say, 'I am sorry.' "

Spring is gone and summer seems to have come, for white clothes are being aired at the foot of Mt.Kagu.

N君:冠詞のことがモヤモヤしています。

S先生:それは無理もありません。英語で最も厄介なのが冠詞、ちなみに第2位は前置詞です。 a fresh May breeze のように風なら不定冠詞だったのに、風ではなくて日光の場合は the bright sunshine,  the warm spring sunshine のように定冠詞となります。ところが同じ風でも形容詞がない時には The wind blew hard. のように定冠詞となるのです。これはもうお手上げと言うしかないですね。たくさんの英文にあたって慣れていきましょう。

N君:それを聞いて少し安心しました。

MP氏:Spring has passed.  At last the mists have risen and white robes of summer are being aired on fragrant Mount Kagu ― beloved of the gods.

N君:最後のところの beloved of the gods ですが、この of は by でもよいですか。

S先生:by でもよいですが、文語的には of のほうが格調高い感じがします。MP氏の mists have risen という感覚には私は気が付きませんでした。春霞が晴れて夏へ向かっていく爽やかな空気感が見事に表現されています。本当に素晴らしい。

K先輩:「緑と白のコントラストが眩しい」というN君の感想がありましたが、天武(大海人)・持統の両天皇夫妻の時代は、隋が終わって初唐から盛唐へ向かう「のびやかで清新な」時代です。西暦で言うと680~690頃でしょうか。天智天皇亡き後、息子大友皇子と弟大海人皇子が争ったのが672壬申の乱でした。天武天皇の代になって都が大津から再び飛鳥の地へ戻って人心も安定し、のびやかで清新な白鳳文化が花開いたのです。飛鳥文化と天平文化に挟まれて目立ちませんが、白鳳文化のイメージはこの持統天皇の歌のイメージにピッタリです。高松塚古墳(1972発見)の色鮮やかな壁画、蘇我石川麻呂を模した山田寺の若々しく大きな仏頭(現在は興福寺仏頭)、1949=昭和24年に物狂いの僧侶によって焼かれてしまった法隆寺金堂壁画、などなど、白鳳の文化財はいずれも溌剌とした若々しさに溢れています。高松塚の発見は日本古代史上最大の発見だと言われています。この1972は佐藤栄作首相の沖縄返還や、田中角栄首相の日中共同声明、続いて1973はオイルショックの年でした。さて近鉄奈良駅に降り立つとまず行基銅像が迎えてくれます。ここを右折して商店街に入るとすぐに左手に回転寿司屋さんがあってこれがなかなか旨い。寿司屋を出て商店街を進むとすぐ左手に脇道があってこの小さな坂を登るとすぐに興福寺の境内に入ります。藤原氏の氏寺で、五重塔が美しい。鹿もいます。興福寺には有名な阿修羅像がありますがこちらは天平文化の時代のもので、天平の美少年とも呼ばれています。興福寺宝物殿に入る(入場料500円くらい)と阿修羅像や興福寺仏頭に対面できますが、微妙に仏頭が先で阿修羅像が後、と意識してほしい。どちらも国宝です。また法隆寺そのものは飛鳥文化を代表する建築ですが、法隆寺金堂壁画は白鳳時代のものです。法隆寺が先で金堂壁画が後です。この焼損事件があった1949=昭和24年 に文化財保護法が制定されました。終戦直後の日本人を悲しませた焼損事件でしたが、同年、京都大学理学部の湯川秀樹教授が日本人初のノーベル賞を受賞し国民を喜ばせました。白鳳文化の話はこれくらいにして、持統天皇です。立派な方だったと思います。初めて火葬された天皇としても有名ですね。また彼女は我が国初の本格的都城である藤原京を造営したことでも有名です。夫天武天皇の遺志を継いでこの大事業をやったのでしょう。710平城京へ移る前の10年間の話です。奈良盆地をすり鉢と思って考えてみると、藤原京はすり鉢の南方にあって、「王は南面す」の原則に従って内裏を藤原京の北端に据えた場合、汚水が低い内裏に向かって流れ込んでしまう。この理由によって藤原京は長続きしなかったと思います。一方、平城京はすり鉢の北方にあって、内裏を平城京北端に据えれば汚水が内裏に流れ込むことはありません。こうして平城京は70年くらい持ちこたえました。少し前になりますが、藤原京から696年の記載が入った木簡が発見されました。それには「評」の文字が見え、長年に渡った郡評論争に終止符が打たれました。701大宝律令よりも前の地方行政単位が郡なのか評なのか意見が分かれていたのですが、この発見によって「大宝律令より前は評、後は郡」という具合に決着しました。645大化の改新によって発足した律令制度ですが、天武・持統の690頃には官制も整って安定期を迎えました。律令の官制についてはおいおい説明していくとして、そもそも律令とはなんでしょうか。律は刑法、令はその施行細則、と考えておきましょう。早い話が「国家を治めるための法律みたいなもの」です。鳴り物入りで始まった律令制度ではありますが、早くも723三世一身の法あたりからおかしくなってきます。長屋王が公地公民の制度に最初の穴をあけた、と私は思っています。彼は平城京のはじめ元明・元正両女帝の頃、天武天皇の孫として颯爽と政界デビューし、藤原不比等(鎌足の息子)亡き後には政界の中心人物となりました。ものすごい金持ちで、氷室(ひむろ)を持っており、夏にはかき氷を食べていたらしい。風通しの良い山の北側斜面に横穴を掘って、冬にできた氷を夏までその場で保存していたらしいのです。すごいですね。こんな長屋王ですが、不比等の息子たち(藤原四兄弟)に焼きもちを焼かれたらしく、729には自殺に追い込まれています。長屋王の変です。四兄弟もその直後に天然痘にかかって皆死にました。カキ氷で思い出しましたが、宮川禎一氏の本の中で「鈴木牧之(ぼくし)が北越雪譜の中で1800年代の前半ころに中仙道にあった峠の茶店で『カキ氷が出たので手持ちの砂糖をかけて食べたらうまかった』と記録しています」と紹介している。江戸時代の終わりのころには一般市民の中にも砂糖を所持している者がいたのですね。奈良時代はじめの長屋王はアマヅラの茎から出る甘い汁を氷にかけていたのでしょう。

701:なーおい、大宝律令ってナニ?

710:七色奈良の平城京

723:三世一身て何様?

729:なにくわぬ顔の長屋王

1972:角栄さん、行くなっちゅうに行っちゃった。  ちゅう=中国

1973:逝く皆老人老いるショック。