kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第499回 2022.7/30

百人一首No.77 崇徳院(すとくいん)瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ

川の流れが速いので、その急流が岩にせき止められて二つに分かれ、しかしまた一つになるように、恋しい人と今は分かれてもまたいつか再び会おうと思う。

N君:「名詞+を+形容詞語幹+み」は「名詞が~なので」の意味でありNo.1天智天皇の歌にも「苫をあらみ」として出てきました。古文では重要なところです。

A rapid stream divides into two small brooks, blocked by a rock, to merge into one in the end.  In the same way, I would like to meet her again even if I have to bid her farewell now.

S先生:よく書けていると思います。第2文の would like to meet  のところは簡潔にという意味で wish to meet でも良かったと思います。wish to meet にすると丁寧さがさらに増して「もしできましたらお会いしたい」のような意味になります。

As a rapid stream, though it flows apart blocked by the rocks, will meet again, so shall we be together some day even if I must part from you now.

N君:後半部分の語順はこれでよいのですか?

S先生:全体として (Just) As S+V, so S+V の形であることは分かって頂けると思います。後半部分では副詞 so を強調するために助動詞も一緒に飛び出してきた、と考えて下さい。だからこれは疑問文ではなくて強調の文なのです。

MP氏:Like water rushing down the river rapids we may be parted by a rock, but in the end we will be one again.

N君:締まっていて簡潔で力強いMP氏の作品です。

K先輩:1156保元の乱において弟後白河天皇(日本一の大天狗)に敗れた兄崇徳上皇=本歌作者 は、讃岐国に流されて死んだ後に「怨霊になった」と言われています。どうしてそんなことになったのでしょうか。崇徳院という人はそもそも生まれた時からいわく付きなのです。第480回で触れたように、院政を始めた白河院はひどい人でした。系譜上は 後三条ー白河ー堀河ー鳥羽ー崇徳+後白河 となっているわけですが、「崇徳は実は鳥羽の息子ではなく、66歳白河院が18歳待賢門院璋子(たまこ)を孕ませた状態で孫=鳥羽天皇中宮として送り込み、そうして生まれたのが崇徳」という噂が絶えませんでした。事の真偽は不明ですが、そんな噂が出るくらいに白河院は無茶苦茶だったということなのでしょう。もしそれが本当なら、鳥羽天皇から見て崇徳は息子どころか叔父にあたるわけで、鳥羽天皇は崇徳を「叔父子(おじこ)」と呼んで忌み嫌ったそうです。優雅に見える皇室にもいろんな問題があるものですね。一本気な性格の崇徳は辛い子供時代を過ごしたでしょう。崇徳はその寂しさを紛らわすかのように歌作りに励みました。本歌もそんな中の一首であり「情熱的な恋の歌」であることには違いないのですが、No.86西行は本歌の中に「恋心の向こうになにかもっとほとばしり出るもの」を感じたそうです。それは「満たされぬまま焦がれ続ける悲壮感」のようなもので、崇徳の不幸な生い立ちが影を落としているのではないでしょうか。一本気な兄崇徳に対して弟の後白河は陰謀conspiracy 好きの人物です。こんな二人が戦えば後白河が勝つに決まっています。1156保元の乱の後も後白河は1159平治の乱の火種を蒔き、1177鹿ケ谷事件では黒幕でしたし、1180頃は清盛と渡り合ったり、1185頃には九郎義経に官位を与えて頼朝と仲違いさせたりで、権謀家の面目躍如です。1192に後白河が死んだことを契機として頼朝は征夷代将軍に任命されたのです。「いい国作ろう頼朝さん」とか言って鎌倉開幕を覚えた人も居るでしょうが、実際の開幕は1185頃ですし、1192はむしろ後白河院死去+頼朝征夷大将軍 の年として認識すべきです。さて讃岐に流された崇徳院仏道修行に励み、写経を京の寺に奉納しようとしたのですが、後白河がこれを拒否しました。後白河という人は必ず人の進む方向に竿をさす性格のようです。この仕打ちに激怒した崇徳院は佛堂に籠り血涙を流しました。風呂にも入らず髪も髭も伸び放題となって、亡くなった時には幽鬼のようになっていたそうです。保元の乱で敗れて非業の死を遂げた崇徳院悪左府頼長が、怨霊となって都に祟る、という噂が流れました。No.86西行は京を発って讃岐の白峰陵(崇徳陵)へ向かい、荒れ狂う崇徳院の怨霊に「よしや君昔の玉のゆかとても かからむ後は何にかはせむ」と呼び掛けて、静かに成仏するように慰めたと伝えられています。西行は歌の道に進むと決心し家を出ようとした時に、泣いてすがる我が子を縁側から蹴落としたと言われていて、厳しい男かと思っていましたが、崇徳院の怨霊に示した優しさはこの上ないものでした。一人の人間には色々な面があるものです。京都市の御所から見て北西の今出川通り沿いに白峯神社があります。もともと蹴鞠を伝える飛鳥井氏の神社でしたが、幕末の孝明天皇が「讃岐国白峰陵の崇徳院が可哀そうだから」という理由で、崇徳院の魂をこの白峯神社にお招きしよう、と音頭をとりました。その結果、白峯神社は「球技の神様」を祭ると同時に「崇徳院(と淳仁天皇)」も祭る神社となりました。無関係な二つの事象がひょんなことから合体した感じの神社になっています。あまり大きな神社ではありませんが、京都市バスの停留所もありますし、ちょっと寄ってみてはいかがでしょうか。サッカー・バレーボールなどの日本代表の絵馬があります。ここのちょっと東を縦に走る室町通り沿いに松乃屋という名前の定食屋さんがあります。同志社大学が近いので学生さんが多く来店しています。量が多くて安くて何でも美味しいですが特にかつ丼やとんかつ定食は絶品です。おなかが空いている時に行くとよいでしょう。食べた後は御所の西沿いをずんずん南に歩いて蛤御門へ行ってみるのもいい。1864蛤御門(禁門)の変で長州藩に打ち込まれた弾丸跡が今も生々しく残っています。