kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第495回 2022.7/26

百人一首No.73 権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)高砂の尾の上(へ)の桜咲きにけり 外山(とやま)の霞立たずもあらなむ

遠くの山の峰の桜が咲いたなあ。里に近い山の霞はどうか立たないでほしい、桜が見えないから。

N君:山は山でも外山(とやま)というのは「山岳地帯の外周部分にある山」つまり「人里に近い低い山」のことらしいです。ということは、No.83俊成「山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」や、No.5猿丸太夫「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の」に出てくるような、遠くの高い山ではありません。文法的には「あらなむ=未然形+誂え終助詞なむ」が大切で、以前出てきた菅原孝標女更級日記」の「いつしか梅咲かなむ」と同じ構造ですが、百人一首の中にはあまり用例がありません。意味的には願望終助詞「もがな」と似ています。「もがな」は、No.90実朝「世の中は常にもがもな渚漕ぐ」、No.54貴子「今日を限りの命ともがな」、No.56和泉「今ひとたびの逢ふこともがな」、No.63道雅「人づてならで言ふこともがな」に出てきますのでこちらはわりと頻出です。

 Cherry blossoms have been in bloom on the summit of the distant mountains.  Oh, Mist, never rise on the hills near my village in case I should be unable to appreciate their graceful sight.

S先生:第1文の主語 Cherry blossoms は、桜の花全般を指しているわけではなく、遠くの山の山頂にある特定の桜の花を指しているのですから、定冠詞が必要です。また「咲きにけり」となっているので現在完了を使ったのでしょうが、英語としては現在時制のほうが自然です。したがってこの部分は The cherry blossoms are in bloom 、、、とするのが良いでしょう。第2文は命令文にして、Mist に呼び掛けている形を構成しました。とても良いと思います。Oh, Mist, の呼びかけ部分は、O Mist, でも良いです。

The cherry blossoms are in full bloom on yonder hilltops.  O Mist, don't hang over the knolls near my village, for I would like to see them at their best.

N君:yonder「あの向こうの」、knoll「小山」。

MP氏:How lovely the cherry blossoms blooming high on the mountain.  May the mists in the foothills not rise and block the view.

N君:MP氏は祈願文でした。

K先輩百人一首も70/100を越えてきているのでアチコチが微妙にリンクしてきたようですね。関連知識が広がることで意外な部分が繋がって、知識に厚みが出てきました。百人一首に限らず、それは数学でも物理でも同じことです。今回は「なむ」が問題になっていて、これは第447回でもまとめたように沢山の文法的な異同があります。今回は「未然形+誂え終助詞なむ」が出ましたが、一般的には「連用形+完了ぬ未然な+推量む終止む」の用例のほうが多いでしょう。たとえば徒然草に「さやうのもの無くてありなむ」という一節がありました。これは「そういうものは無いほうが良いだろう」の意になります。文末の推量助動詞「む」が、推量というよりは適当を表しているのでこういう訳文になるのです。これがもし「さやうのもの無くてあらなむ」だったら「存在しないでほしいなあ」のような意味になりますから、ここの違いをハッキリ区別することはとても大切です。そもそも「なむ」で最も用例が多いのは「係助詞なむ」であり係り結びでよく出てきます。この場合は文の意味を強調する働きをしているわけです。「ぞ・なむ・や・か+連体形」「こそ+已然形」の用例は沢山あります。伊勢物語の中にあった「形よりは心なむ勝(すぐ)りたりける」は「形より心勝りたり」を強調した文体になっていると考えられます。

話は変わりますが、私は常々「鎌倉執権15代、室町足利将軍15代、江戸徳川将軍15代、なぜみな15なのか?」という疑問を持っています。鎌倉幕府では源家の将軍が頼朝・頼家・実朝の3代で途切れてしまった後に、摂家や皇族のお飾りを都から呼んで将軍に据えましたが実権は北条家が握っていました。執権は初代時政(頼朝舅)に始まって15代高時まで続きました。高時の息子時行が1335中先代の乱を起こしましたが復興はかないませんでした。足利将軍は初代尊氏から15代義昭まで続きました。義昭は信長に利用された挙句に最後は追放されてしまいました。徳川将軍は初代家康から15代慶喜まで続きました。慶喜は政権を朝廷に返還して幕府の存命を図りましたが、薩長に武力倒幕されてしまいました。どうしてみな15代なのでしょうか。凄い偶然です。3つの幕府が3つとも15代で終わったのですからね。この理由は永遠に不明でしょうが、結局は「人間が作る組織というものはそういうもの」ということだろうと思います。

3つの幕府の話が出てきて、徳川氏の江戸幕府薩長に武力倒幕され、足利氏の室町幕府はなんとなく消失したことを知っていますが、北条氏の鎌倉幕府がどのようにして倒れたのかを明確に説明できる人はあまりいないようです。15代執権北条高時の時代に、皆もよく知っている後醍醐天皇が政治の実権を朝廷に取り戻そうと運動していました。その運動を鎮圧するために鎌倉の高時が有力御家人足利高氏(この時は高で後に尊に替わります)を京に派遣したが、その高氏が寝返って高時を滅ぼしてしまった、ということです。その後2年くらい後醍醐天皇による建武の新政がありましたが、再び尊氏がそこから離反して、後醍醐天皇を追い払い、自分は1336京に北朝光明天皇を据えた上で幕府を開いたのです。これが室町時代の始まりであり、60年続く南北朝時代の始まりでもありました。この鎌倉時代の終わり~短い建武の新政室町時代の始まり、について、ちょっと触れておきたい個人的な旅の話を聞いて下さい。第462回で、偶然立ち寄った和歌山県の隅田八幡(すだはちまん)で、5世紀の古い鏡に書かれたわが国初の漢字を見た話をしました。この神社の境内の裏手に回って散策をしていたとき、小さな立て看板を発見しました。そこには「隅田党」について書かれていました。中世に隅田八幡近くの豪族たちが、鎌倉幕府の危機に際して、その京都出張所ともいうべき六波羅探題を守るため、大挙して京へ上った、というのです。六波羅探題の大将は北条仲時。後醍醐サイドや高氏サイドに攻められて、鎌倉めざして東へ落ちていきます。私は、ああそういうこともあっただろうね、と軽く理解していました。後日、歴史学者の友人が中山道の宿場町を見に行く、というのでついていった先は、関ヶ原より少し西へ寄った番場宿。江戸時代の雰囲気を残す素晴らしい街でした。そこに蓮華寺というお寺があり、何気なくついていったところ、ここが「仲時以下430人余りが切腹した寺」であることを知ったのです。この430人のなかには隅田党の面々も含まれていたでしょう。京を追われて鎌倉を目指した仲時一行でしたが、大津を越えてここ番場まで来たところで敵に囲まれ進退窮まって切腹した、というのです。血が流れて、寺の前には「血の川」ができたとのこと。今でもその跡が残っていました。1333に和歌山県の山中にある隅田から京へ上り、東へ落ちてここ滋賀県米原市番場宿の蓮華寺で死んだ多くの若者がいた、という事実を知ったのです。無念だったでしょう。歴史というのはひょんなところで繋がっていることを実感した旅でした。