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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第470回 2022.7/1

百人一首No.48. 源重之風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな

風が激しいので岩に打ち当たる波がひとりだけで砕け散るように、(彼女は平気なのに)私だけが心も砕けるばかりに物事を思い悩む今日この頃であるなあ。

N君:「名詞+を+形容詞語幹+み」は第423回のNo.1天智天皇「とまをあらみ」でも出てきた言い方で「名詞が~なので」の意です。基本中の基本です。

As the waves hitting the rocks crush by themselves in a storm, so am I alone broken-hearted nowadays, anxious about her indifference.

S先生:As ~, so ~ の構文にも慣れてきましたね。従属節の中の波については by oneself 「ひとりでに、自然に」を使い、主節の中の I については alone を使いました。この使い分けは良かったです。波が砕けるのは crush よりも break のほうが良いでしょう。全体的にこなれてきている感じがします。

As mounteinous waves fanned by a violent wind hit against the rocks and break to pieces, so am I alone distressed these days, lost in broken heart.

MP氏:In the fierce wind the waves beat upon, but are held by rocks.  Yet my beloved will not brake these turbulent thoughts of love pounding upon my heart.

N君:brake「ブレーキをかける」は break と発音同じ。MP氏は「強風の中で波は砕けるが岩がそれを受け止めてくれる、だのに、あの人ときたら私の千々に乱れる恋心にブレーキをかけてもくれない(私独りが思い悩んでいる)」と作文しています。but are held by rocks という発想は独特だと思いました。

K先輩:「風をいたみ」に使われた形容詞「いたし」に関連して今日は鏡物がらみで語ってみましょう。鏡物というのは平安~鎌倉~室町時代あたりの事績が書かれた一連の歴史物語「大鏡・今鏡・増鏡・吾妻鏡・水鏡」を指します。いづれも作者は分かっていません。まず「大鏡」は第55代文徳天皇~第68代後一条天皇 の時代の話ですが、藤原氏で言えば冬嗣~道長 の時代を語っており、もっと乱暴にまとめると「道長ヨイショ物語≒栄花物語(No.59赤染衛門)とほぼ同じ」と言ってもよいでしょう。次の「今鏡」は第69代後朱雀天皇~第80代高倉天皇 の時代の話で、道長院政期を語っています。第81代の安徳幼帝は清盛の母=二位尼(にいのあま)と共に1185壇ノ浦の海に沈みました。その後を受けて「増鏡」はスッポリと鎌倉時代にあてはまります。すなはち第82代後鳥羽天皇後鳥羽院が1221承久の乱にて事敗れて隠岐島に死し、第96代後醍醐天皇が1331元弘の変にて事成って隠岐島から京へ戻るまでを語りました。この1221と1331は覚えやすいですね。これ以外にも、鎌倉幕府の役人が著した「吾妻鏡」、京の貴族が著した「水鏡」があります。これら鏡物のうち増鏡には隠岐島での後鳥羽院の様子が語られています。「潮風のいとこちたく吹き来るを聞こしめして【我こそは新島守(にいじまもり)よ隠岐の海の荒き波風こころして吹け】、【同じ世にまた住之江の月や見ん今日こそよそに隠岐の島守】」。この詞書(ことばがき)の中で使われた「こちたし」は、「言痛し」あるいは「事痛し」です。「言痛し」の場合は「人の噂がうるさい」の意であり、「事痛し」の場合は「数や量が多すぎてウンザリだ」の意です。ここでは後者の意になるでしょう。いずれにしても「痛し」は、単に painful というだけではなくて「程度が甚だしくてゲップが出そう」みたいな含意を持った形容詞です。現代でも「あのオジサン若造りしてイタイな」などと言うことがありますが、この「イタイ」の語感に通ずるものがあります。それにしても後鳥羽院は何故挙兵したのでしょうか。2歳年長の兄安徳が1185壇ノ浦で亡くなった時に三種の神器(八咫鏡天叢雲剣・八尺瓊匂玉:やたのかがみ・あめのむらくものつるぎ・やさかにのまがたま)を失ってしまい、後鳥羽は神器の無いまま即位しました。これはものすごく特殊なことであり、後鳥羽が兄の命を奪った武家政権に恨みを持つのは自然なことだったでしょう。このような恨みを抱いたまま後鳥羽は成長し、1219三代将軍実朝が鶴岡八幡宮の石段で公暁に切られて死んだことで「政権を鎌倉から京へ取り戻せるかもしれない」と思ったのでしょう。歌も上手で頭も切れる。なにしろ「日本一の大天狗=後白河院」の孫ですからね。しかしその判断は甘かった。九条兼実の弟No.95慈円もその著書「愚管抄」の中で「もはや武士の世であり昔のようにはいかない、それが道理だ」と述べて後鳥羽院に自重を迫っています。しかし後鳥羽院から見れば、たとえ幕府の実権が将軍から執権の北条家へ移ったとしても「京ならぬ鎌倉の、公家ならぬ武家の、雅を解さぬ野卑なる政権」だったのでしょうね。この当時、後鳥羽院が祖父後白河院から相続した一連の荘園群=長講堂領 は広大だったのですから、これをエサにして鎌倉の御家人どもや畿内~西国の豪族どもに事前工作しておけば、1221承久の乱の勝敗はどうなったか分かりません。要するに、御家人にしろ、地方豪族にしろ、「戦ったあとの恩賞としての領地をちゃんと面倒みてくれるのか?」が問題になっているわけですから、ここのところをしっかりケアしておくことが何より大切だったのです。命を懸けて戦う者には精神的な満足感に加えて実地の褒美が必要なのです。後鳥羽院はここのところが分かっていなかったと思います。ちなみに平安後期から続く院政のシステムも煮詰まったこの時代、以前から蓄積されてきた寄進地系荘園は、大きく二つの系統に集約されていきます。第1は鳥羽法皇~皇女八条女院八条院領100か所~大覚寺統南朝。第2は上述の後白河院後鳥羽院~長講堂領90か所~持明院統北朝。つまり、寄進地系荘園の2大系統が、南朝および北朝の経済的基盤になっていったのです。1333鎌倉時代終焉の後に、ほんの一瞬だけ後醍醐天皇の「建武の新政」がありましたが1336に室町の初代将軍足利尊氏持明院統光明天皇を即位させてからのち、1392に三代将軍義満が南北朝合一を成し遂げるまで、約60年にも渡って南北朝の時代=室町時代前期 が続くのです。N君もここらあたりの時代区分があいまいになっているのではありませんか?

1333建武の新政:人見て散々文句垂れた二条河原

1392南北朝合一:いざ国をひとつに南北朝