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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第474回 2022.7/5

百人一首No.52 藤原道信朝臣:明けぬれば暮るるものとは知りながら なほうらめしき朝ぼらけかな

夜が明けてしまうとやがて日が暮れて、そうしてあなたに逢えると分かってはいるものの、それでもやはり恨めしい夜明けだなあ。

N君:「知りながら」の「ながら」について調べました。本歌では逆接の意であり「女ながら力持ち」の用法と同じです。「テレビを見ながらごはんを食べる」は同時並行の意です。ここまでは誰でも知っていますが、古文ならではの「ながら」が枕草子に出ていました。「すべて折につけつつ一年(ひととせ)ながらをかし」の「ながら」は all of ~ の意であって「一年のすべてに趣がある」となります。

Day and night comes by turns as usual.  I know that I will be able to see you again this evening.  But I feel very bitter to think that I will have to say a farewell to you when the dawn breaks.

S先生:だいたい良いのですが、持って回って冗長になっています。もう少し簡潔な文章を書くように心掛けましょう。

I know that night will soon come to us again if day breaks.  But oh, how lamentable to part from you in the morning !

MP氏:As the sun rises I know that when it sets at night I can see you again.  Yet even so, how hateful ー Parting in this cold light of dawn.

S先生:MP氏の作品の this cold light of dawn に「恨めしさ」が籠っている感じがしました。普通は朝に光というのは明るく燦燦と降り注ぐものですが、ここでは cold という形容詞が使われたことに意味があったと思います。さてN君の第1文:Day and night comes by turns as usual. は、これはこれでOKと思われますが、Usual as it is, day and night comes in turn. というような言い方もあるでしょう。この短い一文について色々な方面からつついて英作談義をしてみましょう。まず第1に「逆接」について。N君が調べてくれたように「ながら」は本歌では逆接ですが、although や but を使うようなコテコテの逆接ではありません。ほんのちょっと軽く「~なんだが」と添える感じです。こういう時は「形容詞+as+SV」の形が役に立ちます。そこで Usual as it is, という形が登場するのです。形容詞の usual のところは common, natural, proper, ordinary, reasonable などいろいろ考えられますが、やはりここでは usual が良いでしょう。意味的に無理がないし、何より口に出した時のリズムが良いです。第2に Usual as it is, の it は何を指しているのか、という問題があります。この it は主節の内容を指しているのであって、「指示代名詞のくせして自分の後ろにあるものを受けている」のです。困ったものですが、英語ではこういうことが往々にしてあります。第3に「day and night でも night and day でも同じ」と思うでしょうが、欧米人は口調的に day and night を好むらしい。このあたりは何が正しいか、というよりも、多分に感覚的なことです。第4は comes なのか come なのか、という問題。day and night をひとまとめにして単数と考えるから三単現になっている、と思うかもしれないがそれは違います。day と night のそれぞれがかわりばんこにやってくる、という意味で三単現になっているものと思われます。第5は in turn と by turns ですが、正直申し上げてどちらが良いのか私には分かりません。おそらくどちらでも意味は通じると思われます。このように、ほんの短い英文一つを取り上げてみても、突っ込み所が5つもあります。この一例を見ても、日本人が英語をマスターするというのは並大抵のことではありませんね。英語教材の宣伝文句に「一日5分聞き流すだけ」なんていうのがありますが、この類は概ね嘘か大げさというものでしょう。努力なしに何かを手に入れることなどできないと思います。東大の英語の先生が「一日3時間みっちりやって10年経てばまあまあのレベルまで来る」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。ちなみに小学校1年生から高校3年生までの12年間、一日も休まずに毎日1時間ずつ集中して英語の勉強をしたら、東大京大の入試英語で半分くらい得点できると思います。

K先輩:第445回で「討幕活動へ至る長州藩の精神的支え」について述べました。かいつまんで再言すると「我が長州藩のご先祖は頼朝の右腕であった大江広元=政所初代別当 で、さらにたどれば桓武天皇平城天皇阿保親王在原行平・業平、、、なるぞ、三河の田舎侍(徳川家)とは格が違うぞ」というわけです。445回でも言いましたが、藩政改革で浮かせた金で鉄砲や軍艦を買うことはできても、精神的なバックボーンがないと、幕軍に対して銃の引き金を引くことなどできない、のです。ゆえに薩長にとっては精神的なバックボーンは是非とも必要でした。それは結局のところ「家の格」つまりは「御先祖」なのです。ここで薩摩藩の藩祖=島津忠久 とはどういう人物なのかが問題となってくるわけです。話は変わりますが、私は先日、大阪の住吉大社にお詣りしました。有名な太鼓橋を渡ると正面に拝殿がありますが、左手に逸れた所に「誕生石」なる大き目の岩がありました。その「いわれ」はこうです。頼朝は政子との間に頼家・実朝をもうけたが、実は「丹後内侍(たんごのないし)」という側室がいて、この側室が身籠った。頼朝は女好きで政子も手を焼いており、政子は亀の前という側室の家を破却してしまう、という事件が起こった。丹後内侍はこの事件に恐れを抱き、もし自分が頼朝の子を宿していると知れたら何をされるか分からない、逃げよう、となった。鎌倉から西を目指して逃げる途中に大阪住吉大社まで来たところで産気付き、この岩の上で男の子=島津忠久 を生んだ。頼朝は忠久を薩摩国守護に任じ、政子から遠ざけた、というのです。このエピソードをもっともらしく飾るために「誕生石」なる史跡を捏造したものと思われます。しかし事の真偽などどうでもよい。噂としての「藩祖忠久公は実は頼朝の三男」が広まりさえすればよいのです。三男、つまり三郎です。幕末の文久年間に島津久光は幕政改革を迫る目的で軍隊を連れて江戸に乗り込んだことがありました。この時彼は自身のことを「島津三郎久光」と名乗っているわけですが、私は長いことこの「三郎」の意味を理解できませんでした。しかし、住吉大社の誕生石を知った今、この「三郎」には「徳川なんかより島津のほうが上なんだぜ」という隠れた意味があったのだ、と理解しました。このことが「討幕活動へ至る薩摩藩の精神的支え」になったでしょう。薩長ともにこの手の話を水面下で広げながら「われらは初めての武家政権鎌倉幕府の草創期から政にかかわっていたのであり、徳川なんぞはポッと出の田舎者だ」と主張していたのだろう、と思います。

1862=文久2年 に江戸で幕政改革の主張を終えた島津三郎久光は意気揚々と帰路に就くのですがここで問題が発生しました。横浜村のとなり生麦村で、久光の行列の前を、何も知らずに横切った英国商人の一行に対して「無礼者!!」と叫んで殺傷してしまったのです。久光およびその周辺は肩に力が入っていたのでしょうが、いくらなんでもやり過ぎでしょう。この生麦事件が翌年1863の薩英戦争につながり、艦砲射撃によって城下町を焼かれた薩摩は「攘夷など無理」と悟ることとなるのです。同じことは長州藩にも言えます。長州藩に糸を引かれた公家勢力が14代将軍家茂(いえもち)をわざわざ上洛させて「文久3年=1863 の5月10日をもって攘夷を決行します」と孝明天皇に誓いを立てさせました。その誓いの通りに長州藩は1863.5/10に下関海峡を通過中の米商船に砲撃を加えます。その報復として翌1864に米英仏蘭の四国艦隊が下関海峡に集結し、長州藩の砲台を破壊して占領してしまったのです。この事件により長州藩は「攘夷など無理」と悟ることとなったのです。薩長ともに頭の良い人達は、痛い目に遭う前から分かっていたでしょうが、多くの凡庸な人達というのは「実際に痛い目に遭ってから初めて気付く」のです。藩論を統一するためにも痛い目に遭うことは必要だったでしょう。

今回は幕末における薩長の共通点を「御先祖」および「痛い目に遭ってみて藩論統一」の面から探ってみました。ちなみに「攘夷は無理」と分かったとしても、「討幕なのかそうでないのか」という問題はまだ残っていて、ここが収束していくにはまだまだ時間が必要でした。ここらの込み入った話はまたどこかで。