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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第471回 2022.7/2

百人一首No.49. 大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ):御垣守(みかきもり)衛士(えじ)の焚く火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ

衛士(宮中の門を警護する兵士)の焚く火が夜燃えて昼消えるように、私の恋心も夜に燃え昼に消え入るように沈んで、こういうことを繰り返しながら思い悩んでいる。

Guardmen who protect the Palace Gates make bonfires every night.  As they burn at night and die in the daytime, so my love for her repeats the same thing.  I am worried about what will become of us.

S先生:burn at night and die in the daytime の前置詞および冠詞の選択は満点でした。こういうちょっとしたところがあやふやな生徒が多いです。

Like the fires burnt by the soldiers who guard the Palace Gates, my fire of love glows aflame at night and goes out in the daytime, making me bleakly distressed.

MP氏:The watch fires of the palace guards blaze by the gates at night become embers in the day like my love which wanes by day and burns by night.

N君:ember「燃え残り、燃えさし」

K先輩:防人(さきもり)を知っていても衛士(えじ)を知らない人が多いと思います。律令制のもとで正丁=成年男性 の3人に1人が軍団で訓練を受けたあとに、防人として九州へ行ったり衛士として京へ登ったりしました。ただしこの3人に1人という比率はおそらく当初の663白村江の戦い前後のことではなかったか、と私は思います。平安時代の記録では防人の総数は2000~3000人くらいですから、衛士を加えてもせいぜい総数5000人というところでしょう。すると正丁総数15000人という計算となってこれはいくらなんでも少な過ぎる。おそらく危機感が薄れるにつれて1/3という率は1/10とか1/30とかに下がっていったものと考えられます。防人は鎌倉時代で言えば異国警固番役と同じで屈強性を要し、衛士は近衛兵として見た目の良さと従順性を要したと考えられます。防人でも衛士でも兵役についている間は租庸調や雑徭(ぞうよう)が免除exemption されていたものの、往復は手弁当であったから大変で、病気や飢餓のために道端で倒れてそのまま死んでしまうことも稀ではありませんでした。どの天皇だったか忘れましたが、このような兵役行路での死亡事例に心を痛めて「篤く葬ってやれ」と詔(みことのり)した天皇もいました。中四国九州出身者が防人をやって近畿東国出身者が衛士をやるのが良いだろう、と誰でも思いますよね。でも実際はそうならなかった。東国出身者が防人になったのです。どうしてこんな非効率な事をやったのでしょうか。答えは「東国の民が気質的に勇敢だったから」です。飛鳥時代いやもっと前の古墳時代から、東国の民は「額に矢立つとも背中に矢立たず」と言われてきました。これは、敵に向かって進むことはあっても逃げることは決してない、という意味です。日本史をつぶさに見てきた私は「日本は東と西とで気質が全然違い、あたかも2か国なるが如し」という感慨を持っています。第436回にも言いましたが、突然やってきた律令制度に対して、東国の民は叛乱という直接行動に訴えたのに対して、西国の民は浮浪逃散・偽籍・私度僧で対抗しました。東国の民は潔く勇敢で嘘がないのです。このような人達には防人が適任だと考えられていたのでしょう。悪だくみがものをいう下剋上~戦国時代は主に西国で繰り広げられました。幕末における会津藩の真っ正直な動きに対して、薩摩藩の寝業師的な動きにはビックリします。明治維新は西国雄藩の手によって遂行され、逆に倒幕に反対した東北諸藩は奥羽列藩同盟を結成し新政府に対抗しました。西国は機を見るに敏で権謀術数が渦巻いており油断なりません。その流れのまま政治的には西国出身者優位で大正昭和を経過してしまったわけですが、そこに東国の純粋さや潔さや優しさが加味されていたら、日本の近現代史もまた一味違ったものになっていたかもしれません。東と西は別の国。令和の現在、秋~冬にあたりが暗くなった夕方5時ころに東京で飛行機に乗り、6時過ぎに長崎に着くとまだ明るかったりして、「違う国やん」と思ったりしたことがありました。

さて衛士といえば伊東甲子太郎(いとうかしたろう)の禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ)です。荒くれ者の多い新撰組の中にあって、伊東は武のみならず文にも秀でた人格者で、自然と一派を形成していました。近藤勇土方歳三の佐幕に対して、伊東はどちらかというと尊王に重点を置いていたため、両者の間にはイデオロギー上の微妙なズレが発生し、ついに伊東一派は新撰組を離れ「禁裏御陵衛士」となりました。1867に急死した孝明天皇の御陵を守るという名目のもとに尊王活動をしていたのです。洛東の高台寺=ねね(秀吉正室)の寺 の西沿いに「ねねの道」と呼ばれる石畳の通りがありますが、ここに禁裏御陵衛士の屯所がありました。今もあります。1867.11/15に坂本龍馬中岡慎太郎京都市河原町蛸薬師の近江屋の2階で暗殺され下手人は不明、この事件は有名ですが、その陰に隠れるように2週間後に伊東は新撰組が放った刺客によって七条油小路にて暗殺されました。明治になる直前に日本を代表するような傑物が3人も相次いで亡くなってしまいました。皆若く30歳前後でした。坂本龍馬は官には何の興味もなかったようですが、中岡や伊東は明治新政府の屋台骨を背負うことのできる人物でした。