kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第473回 2022.7/4

百人一首No.51. 藤原実方朝臣:かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

せめて、私がこんなにも恋い慕っていることだけでもあなたに言いたいのですが、言うことができません。伊吹山のさしも草ではないが、それほどまでとは御存知ないでしょう。火のように燃えあがる私の思いを。

N君:さしも草ってなんだろう。

At least I would like to tell you my painful and unreciprocated love, but I am sorry I can't do so.  You would not know at all how enthusiastically I love you.

S先生:painful and unreciprocated love「痛々しいほどの片思い」のところがちょっと暑苦しい感じです。内容的には良いのですが「伊吹山のさしも草」について触れられていないのが減点対象になるでしょう。

How I wish I could confide my love to you !  Yet, to my great sorrow, you do not know my affection burning like the moxa of Mt. Ibuki.

MP氏:Can I let you know what consumes me ?   Unknown to you, my heart blazes like red hot moxa aflame with love for you.

N君:moxa =モグサ=さしも草 を初めて知りました。モグサなのだから燃えて熱を帯びるわけですね。この歌にピッタリです。

K先輩:私は最近伊吹山に行きました。滋賀県岐阜県の境にある山で、車で山頂まで行けますがカーブが多くて酔いそうでした。その道は伊吹山ドライブウエイと言って、入り口で3000円くらいとられます。標高は1300メートルくらいで景色は良いです。山頂ではソフトクリームをいただきました。伊吹山から下りてきて地元の道の駅に寄って休憩していたらモグサとか灸とかの看板を見ました。このあたりは今でもモグサの産地のようです。別の日に、岐阜県と長野県の境にある乗鞍岳にも行ってみました。名古屋から、窓がワイドビューになっている特急飛騨で高山駅まで行き、なにやら登山の服装をしている人たちが並んでいたので覗いてみると「明日が乗鞍の山開きの日で、標高3000メートルのターミナルまでバスで行く」とのことでした。次の朝、私も早起きしてそのバスに乗ってみました。その日は7月だったのにバスターミナル付近には赤とんぼが飛んでいて「完全に秋」でした。ターミナルでバスを降りると登山のいでたちをした皆さんは山頂目指して出発、私はターミナルの近くの「お花畑」と呼ばれる草原でウダウダしてました。半袖だったので寒いくらいでした。伊吹山乗鞍岳から見る風景がなんとなく似ていて、ああ同じ造山活動でできた山々なんだろうな、と思いました。乗鞍からは日本アルプスの山々、たとえば槍ヶ岳とか焼岳とか笠ガ岳などがズラリと見えます。伊吹山から西を見ると、秀吉が初めて城持ちになった長浜の町がありその向こうが琵琶湖北半になります。長浜は「鉄砲の国友村」で有名です。1543種子島に伝来して種子島時尭がわずか2丁買っただけの鉄砲を、あっという間に分解して仕組みを調査し、高性能の模造品を試作したのが国友衆と根来衆でした。日本人の「鵜の目鷹の目」「野次馬根性」は世界でも類を見ないほどスゴイと思います。長浜の少し北に木之本(きのもと)という古い街があり石畳がきれいです。そのすぐ西は琵琶湖の北端で、ここは山が迫っていてリアス式になっています。ここは南から北へ向かって琵琶湖北端~賤ケ岳(しずがたけ)~余呉湖 という並びになっています。琵琶湖の北端に小さな付属の湖=余呉湖 があったなんて意外でした。余呉湖畔には天女が舞い降りて衣を掛けた、という木も残っていました。琵琶湖側からリフトに乗って賤ケ岳に登ると、南に琵琶湖、北に余呉湖が一望できて、自分が今立っている賤ケ岳が屏風のテッペンのように感じます。おにぎりとお茶を持参して最高のピクニックを経験しました。賤ケ岳山頂には地元のボランティアの方が紙芝居をして語ってくれます。話題は当然「1583賤ケ岳の戦い」です。1582本能寺で信長が亡くなりその後継者争いが、新興の秀吉 vs 古参の柴田勝家 という形で繰り広げられたのです。この戦いの関連事項として、勝家と再婚していた信長妹お市の方が越前北庄城で自害した、とか、秀吉サイドの若武者7人が「賤ケ岳七本槍」として活躍した、とかの話が有名ですが、ここではあえて秀吉サイドで戦死した武将「中川清秀」について語ってみたいと思います。摂津(大阪府茨木市)生まれの気骨あふれる武将です。キリスト教を捨てなかったために秀吉によって領地を没収され家康・秀忠によってマニラに追放された高山右近は、清秀のいとこです。清秀の名をとどろかせたのは次の一件でしょう。1582本能寺の直後に秀吉が黒田官兵衛の助言のもとに中国大返しをして、明智光秀を討ち取った山崎天王山の戦い。秀吉サイドで最も骨を折ったのが中川清秀でしたが、清秀は別に秀吉に加勢するというよりも「信長様のご恩に報いよう」としていたのであって、気分としては独立独歩の戦いでした。戦い済んで日が暮れて「ヤレヤレやっと終わったか」とそのあたりに座り込んで家臣と話し込んでいた時に、秀吉が騎馬のまま通りかかり馬上から「瀬兵衛(せべえ)ご苦労!」と言い放ったのです。瀬兵衛というのは清秀の通名です。信長公のもとでは同僚と思っていた秀吉が、明智光秀がいなくなった途端に自分のことを下に見て無礼な態度をとったので、清秀はカンカンになって怒りました。「サル(=秀吉)、はや天下を取ったつもりか」と大声で言い返しましたが、秀吉は聞こえぬ風で行ってしまった、とのことです。中川家関ケ原では東軍に味方したので江戸時代を大分県竹田市の岡藩主として明治まで生き永らえたのです。岡城址を謳った滝廉太郎「荒城の月」はN君も一度は聞いたことがあると思います。山崎天王山の1年後に清秀が討ち死にした賤ケ岳近くの大岩砦には清秀の墓が建てられており、岡藩中川家の代々の藩主は参勤交代の途中に、ここ賤ケ岳に立ち寄り清秀の菩提を弔ったとのことです。おそらく、京から大津まで来て舟に乗り換えて琵琶湖を北上したでしょう。琵琶湖北端=賤ケ岳南麓 に塩津という町があって、ここらあたりに1泊して墓参りしたかもしれません。大昔から琵琶湖の水上交通というのは大変重要な役割を果たしていた、と考えられます。琵琶湖北端~福井県若狭湾 を水路でつなごうという計画が江戸時代からあったそうです。地図を眺めてみるとこの辺りは「日本列島のくびれたウエスト」みたいになっていて、水路開発は実現性も実効性も高いのではないでしょうか。少なくとも令和の現在ならば、技術的には問題なくイケると思います。

1582本能寺の変囲碁は二劫の本能寺

変の前夜、信長の御前で本因坊算砂 vs 林利玄 の対局があり滅多に出来ない三劫が発生し、これ以降「三劫は不気味」のいわくが付いた、と言われています。私もアマチュア5段の碁打ちですが、三劫は経験がありません。相当に珍しい現象だと思います。

伊吹山のすぐ南は関ケ原です。1600年に 家康 vs 石田三成 の一大決戦が行われた土地です。私も関ケ原へは3回くらい行きましたが、この話は長くなるのでまた別の日に。