kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第514回 2022.8/14

百人一首No.92 二条院讃岐:わが袖は潮干(しほひ)に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし

私の袖は、引き潮の時にも海中に隠れて見えない沖の石のように、人は知らないだろうが、涙に濡れて乾く暇もないのです。

N君:斬新な構成の歌だと思います。

People are unaware that my sleeves are always too wet with tears to be dried.  They are like the rocks deeply sunk in the sea offshore and unable to be seen even at ebb tide.

S先生:文末の at ebb tide には不定冠詞を加えて at an ebb tide にして下さい。全体的にはよく書けていて、私の作文も似たような構成になりました。

Nobody knows my sleeves are always wet with tears like the rocks hidden in the sea offshore even at a low tide.

MP氏:My sleeves are like rocks far out into the sea.  Even at low tide they cannot be seen by anyone, nor will they ever dry.

N君:MP氏の作品第1文の far out into the sea という表現にグッときます。副詞と前置詞で動きのある句になっていると思いました。low tide に不定冠詞が付いておらずS先生の見解とは異なっています。微妙な問題なのでしょうか。第2文後半では nor という否定語つまり副詞を強調する目的で助動詞 will が飛び出してきたので一見疑問文のように見えますが、このパターンはこれまで何回か経験したので慣れてきました。

S先生:low tide に不定冠詞を付けるのか付けないのか、という問題ですね。実際の英文では付けていることが多い印象です。MP氏が不定冠詞を付けなかったのは何かの理由があるのでしょうが私には分かりません。

K先輩:清盛は1177鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀を暴き1179後白河院を幽閉しましたが、このような平氏一辺倒の状況下で、1180源三位(げんさんみ)頼政以仁王(もちひとおう=後白河院息子)を押し立てて挙兵しました。結局は宇治平等院で自害する羽目になった頼政でしたが、その挙兵に至る過程が平家物語に詳しく記載されています。頼政の息子仲綱が鹿毛(かげ)の名馬木下(このした)を所有していたのですが、清盛の息子宗盛が「木下を見せてくれ」としきりに所望し、無理やり自分の屋敷に引っ張り込んで馬の尻に「仲綱」の焼き印を押した、というのです。いかに平家の専横がまかり通っていたとはいえ、この話は少々大げさではないか、と私は思います。清盛には息子や孫が大勢いましたが、その中にあって宗盛は唯一と言っていいくらいに男らしい豪傑で、仲綱に対してこのような仕打ちをしたとは考えにくいのです。もしこれが事実としても、宗盛周辺の跳ね上がりどもがやったことでしょう。頼政はこの時すでに76歳であったというからアッパレです。金も地位も名誉も捨てて源氏の一員としての誇りを胸に、死に花を咲かせようとしたのでしょう。頼政といえば鵺(ぬえ)退治が有名です。宮中で宿直をしていた時に現れた怪物鵺を頼政が弓矢で仕留めた、という言い伝えがあります。滝口に詰めている宿直の武士は、夜間見回りの際に弓弦を鳴らして魔を払う所作をすることになっていて、源氏物語「夕顔」にもこの慣習についての記載があります。さて本歌作者二条院讃岐はそんな頼政の娘で、後鳥羽上皇中宮に仕えた女性。「潮干に見えぬ沖の石の」という例えが斬新ですね。N君もちょっと書いていましたが新機軸 novelty です。後世の人は彼女のことを「沖の石の讃岐」と呼んで称讃したそうです。私は数年前福井県小浜市をドライブしていたとき「沖の石トンネル」という名のトンネルを通ったことがあり、もしかしたら二条院讃岐と何か関係があるのかもしれないがまあただの偶然だろう、と思っていました。しかしこの件がどうも心に引っ掛かって最近調べてみました。するとやはりこのトンネルの名は二条院讃岐と関係があったことが分かりました。平安時代末期のこの頃、源三位頼政の所領が福井県小浜市のあたりにあって、おそらく少女時代の二条院讃岐は、日本海若狭湾の海をこの小浜市で眺めた可能性が高いのです。あの何の変哲もないトンネルの名前にはものすごく雅な時代背景があったのです。福井県小浜市といえば、幕末に四賢候の一人として14第将軍徳川家茂の後見役を務めた松平慶永(よしなが)、通称「春嶽(しゅんがく)公」の本拠地です。京都市二条駅のそばに越前小浜藩邸の跡を示す石碑が残っています。春嶽公は若いころから性格温厚・頭脳明晰・謙譲の心を持った素晴らしい殿様で、中根雪江・橋本佐内・横井小楠・三岡八郎(由利公正)のような人材を登用しました。百姓とおなじものを食べて倹約に努めたり、坂本龍馬のようなどこの馬の骨かも分からないような人物とも気軽に話をしました。龍馬は感激したでしょう。彼は大政奉還後の新政府のトップに春嶽公を考えていたようです。しかし春嶽公は慎み深い性格なのでトップに推されても固辞するでしょうけど。とにかく日本にこんな素晴らしい殿様がいたのか、というくらいに素晴らしい殿様でした。四賢候の筆頭が春嶽公として、あとは、薩摩の島津斉彬宇和島伊達宗城(むねなり)・土佐の山内容堂 です。この3人はそれぞれクセがありますが、人格的な面も加えると春嶽公が人気No.1 だと思います。この他に幕末の藩主として有名な人を挙げてみましょう。水戸の徳川斉昭(15代将軍慶喜の実父)は性格が激し過ぎて烈公と呼ばれており、尊王攘夷の気持ちが強すぎて後の天狗党事件の遠因にもなりました。彦根井伊直弼(いいなおすけ)も1858安政の大獄でやり過ぎて1860桜田門外で死にました。このようにたとえ優秀ではあってもアクの強い藩主の藩は結果としてうまくいっていないのです。ちょっと抜けたところのある藩主のほうがよい、という好例が長州藩毛利敬親(もうりたかちか)でしょう。性格温厚で、家臣の言うことに対してなんでもOKを出していたので「そうせい候」と呼ばれていました。このあだ名には、敬親をバカにするというニュアンスは全くなくて「敬愛すべき殿様」という気持ちがこもっていました。敬親が話題にのぼる時は皆笑顔になったといいます。私がもし幕末の武士だとしたら、越前小浜藩長州藩がいいです。

今回は与太話が過ぎたので、最後にちょっとだけ勉強の話をします。本歌を「文の構造」という面から検討してみましょう。基本的には「わが袖は=S」「乾く間もなし=V」であって残りは全て飾りです。「人こそ知らね」の「ね」は「打消ず已然ね」であって、係り結びがそこで終わらずに続いていく時には逆接を表すのであり「人は知らないだろうが」の意になります。よってこの部分は譲歩節になっていると考えればよいでしょう。「潮干に見えぬ沖の石の」は言わば挿入句であり、意味上はあってもなくてもいいのですから、カッコでくくって考えればよいのです。以上より本歌は「S+挿入句+譲歩節+V」という構造になっていることが分かりました。訳す時の幹はS+Vのみであってあとはすべて枝葉です。でもその枝葉に色々な技巧が隠されている、ということでした。