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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第498回 2022.7/29

百人一首No.76 法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのだじょうだいじん):わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波

大海原に舟を漕ぎだして見渡すと、雲とみまごうばかりに沖に白い波が立っている。

N君:とても長い名前ですがこの人は藤原忠通、つまり前回のNo.75基俊から息子の昇進を頼まれた関白殿、というわけです。

Riding on a boat and viewing all around the sea, I see white waves breaking off shore above the horizen, which looks like clouds.

S先生:冒頭部分の Riding on a boat ですが Getting on board a boat に変えましょう。ride on の場合は a horse, bycycle, bus, train などが来ます。また ride in の場合は a car, taxi などが来ます。船に乗る場合は on board のような副詞句や aboard のような副詞を使います。この board というのは多義語で、a bulletin board「掲示板」、Bed and Board「賄い付き下宿」、a board of directors「理事会」などいろいろあります。順に、板・食事・委員会の意です。多義語はまとめて書き抜いておいて例文と共に常に見るようにしましょう。

Having rowed out for a boundless sea, I see white waves breaking at the offing as though they were clouds.

MP氏:When I row out into the vast ocean and look all around ー I cannot tell white billows in the offing from the far-off clouds.

N君:offing「沖」、billow「大波、うねり」、tell A from B「Bの中からAを識別する」。雄大・簡潔で力強い構成でした。

K先輩:N君も言っているように No.75 基俊が息子の昇進promotion を依頼した相手が本歌作者忠通です。前回少し触れましたが1156保元の乱において、兄の関白忠通は、弟の悪左府頼長や父忠実と反目しました。たしかに忠通は藤原摂関家嫡流で「氏の長者」であることは間違いないけれども、道長から見れば曽孫のレベルでした。時代は道長の生きた国風期をとうに過ぎて院政期の後半にさしかかっており、もうすぐそこに鎌倉幕府の成立が迫っていました。645大化の改新で始まった律令の基本たる土地制度がどうしようもないところまで来ていました。班田収授崩壊→墾田地系荘園寄進地系荘園→不輸不入→院分国・知行国 というふうに変化しながら崩壊してきたのです。そもそも既に弘仁貞観期の桓武天皇からして勅旨田(ちょくしでん)を持ち、取り巻きの皇族貴族=院宮王臣家 は賜田を受け取っていて、このこと自体班田収授を蔑ろにしています。823大宰府に公営田(くえいでん)が生まれ、879畿内に官田が生まれました。要は直営の田からの収穫を貴族が生活の糧にしていたのです。それが国風期=摂関期 になると加速します。荘園は荘園で墾田~寄進~不輸不入 というふうにどんどん非輸租田化していきます。公領は公領で受領が搾取するための田と化していきました。藤原氏の勢力が衰えた後三条天皇以降=院政期 には結局は藤原摂関家とやや疎遠な関係にあった貴族たち=院近臣(いんのきんしん)が上皇を取り巻いて勝手な貪りをやっていただけです。それがあんまり酷かったので「武家のくせに貴族化して院近臣に加わった平氏」が台頭し、最終的には本格的な武家源頼朝 が1192に東国限定の支配を始めたのです。1221承久の乱の後は武家の支配が西国にも及び、全国的な守護地頭の体制が敷かれ、徴税や警察権の行使が始まりました。ただしこの時鎌倉にはもはや源家の将軍は存在せず、頼朝の婚家であった北条氏が執権として幕政を引き継ぐことになりました。公家は乱れ過ぎたと思います。節操を失い左うちわで甘い汁だけ吸っていた公家、そういうものが日本の中心からたたき出された、と言ってもいでしょう。本歌作者忠通は、叩き出される直前の公家の最後の晴れ姿をこの歌に残した、とも言えるでしょう。「追放された公家」で思い出すのが江戸時代初期の猪熊教利(いのくまのりとし)です。第444回で「日本史上のハンサム8人衆」みたいな話をしましたが、教利はそこにも出てきました。ハンサムで傾奇者(かぶきもの→第500回)の教利は、帯の結び方一つ取ってみても洒落ていて世の評判になるような男でした。女癖が悪く、1609宮中で密通事件を起こし後陽成天皇の勅勘を蒙りました。要するに怒られたのです。最終的に死罪となりました。この猪熊事件は1615禁中並公家諸法度の内容にも影響を及ぼしたと言われています。京都市四条大宮嵐電の駅があって、その付近を縦に走る細い通りがあり猪熊通りの名が付いています。猪熊教利の屋敷がこのあたりにあったのでしょうか。私は詳しいことは知りませんが、ここへ来ると猪熊教利のことを思い出してしまいます。