kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第513回 2022.8/13

百人一首No.91 後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん):きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣片敷きひとりかも寝む

コオロギの鳴く、霜の降りる寒い夜、ムシロの上に衣の片方の袖を敷いて、私は独り寂しく寝るのであろうか。

N君:この時代のキリギリスは今のコオロギに当たります。

On a cold night with crickets chirping and frost falling, should I go to bed alone with one sleeve on a crude straw mat ?

S先生:付帯状況の with を2か所に使って簡潔に書こうとした工夫が見られます。

Shall I have to lie in bed alone, with one sleeve on a straw mat, on a frosty cold autumn night when crickets are chirping plaintively ?

MP氏:The crickets cry on this frosty night as I spread my robe for one on the cold straw mat.  Must I sleep alone ?

N君:crude「自然のままの」、plaintive「陰鬱な、悲しい」。MP氏の作品第1文で、spread my robe for one on ~ が「衣片敷き」の意味になるのでしょうか。この疑問について「原色小倉百人一首」で調べたところ、次のようなことが書かれていました。昔は共寝の場合は互いの衣の袖を敷き交わして寝たので、言はば spread two robes for two on ~ という状態になります。これが spread my robe for one on ~ になったということは「自分の衣を自分独り用に敷く」ということなので「衣片敷き」=「独り寝」という意味になるのでしょう。

K先輩:本歌作者は後京極摂政前太政大臣という長い肩書ですが本名は藤原良経(よしつね)。源九郎義経と同音なので紛らわしいですが、頼朝の京における理解者であった九条兼実の息子がこの良経さんです。九郎義経と良経は同年代でしょう。頼朝と親交のあった九条兼実は、鎌倉時代初期の京における「公家のおさえ」的な存在でしたから、その路線を引き継ぐ息子良経も「幕府のおぼえめでたい立場」だったでしょう。そのころの朝幕関係は対等というよりもむしろ朝廷のほうが上だったので、幕府のほうもあまり強気には出られない立場でしたが、世の中の雰囲気として「今後は武士の世の中にならざるをえない」という感じがありました。この空気を敏感に察知していたのが兼実・良経親子だったでしょう。兼実の弟つまり良経の叔父にあたるのがNo.95慈円でした。慈円比叡山延暦寺にあって天台座主を務めるとともにものの道理を著書「愚管抄」に記し、鎌倉執権政治に立ち向かおうとする後鳥羽院を諫めたのです。後鳥羽院から見れば「兄=安徳天皇を死に至らしめたのは源平であり、2代執権北条義時(2022NHK大河ドラマでは小栗旬)も武家政権の流れを汲んでいるという意味で倒さねばならぬ存在だった」のでしょう。しかしよく考えてみれば後鳥羽院がやろうとした事は、白河ー鳥羽ー後白河 の上皇たちがやりちらかしたデタラメな院政100年あまり(1086~1221)を再び蒸し返そうとした、ということだったのです。慈円の言う通りさすがにそれは無理でした。慈円愚管抄の中で「時代は流れている、昔のようにはいかない、武家の力なしではこの世はおさまらぬ」と主張しました。なのに後鳥羽院はその諫言を聞き入れることなく1221承久の乱に散って、隠岐の島に流されてしまいました。第470回で触れたように、隠岐に流された後も後鳥羽院の歌作に対する意欲は続いていました。和歌の才能あふれる後鳥羽院、祖父である大天狗=後白河院 ゆずりの権謀家であった後鳥羽院、頭脳明晰で信心も篤かった後鳥羽院、このような天才が何故負け戦なんかしてしまったのでしょうか。後鳥羽院は定家のように和歌の世界だけで生きていれば良かったのに、と私は思います。優秀すぎて色々なことができるのも困ったものです。さて本歌作者良経は政治的には鎌倉寄りだったわけですが、和歌という芸道の上では後鳥羽院に仕えようとしました。905古今集の仮名序を書いたのが紀貫之であったのに対して、1205新古今集の仮名序は後鳥羽院自身が書いた、ということになっています。しかし実際は後鳥羽院ではなくて良経が代筆したらしいです。良経代筆の新古今集仮名序をちょっと覗いてみましょう。【かの万葉集は歌の源なり。時移り事隔たりて今の人知ること難し。延喜の聖の御代(醍醐帝)には四人(貫之・友則・躬恒・忠岑)に勅して古今集を選ばしめ、天暦の賢き帝(村上帝)は五人(梨壺の五人)におほせて後撰集を集めしめ給へり。その後、拾遺・後拾遺・金葉・詩花・千載、などの集は皆一人これをうけたまはれる故に、聴き洩らし・見及ばざるところもあるべし。よりて、古今・後撰の跡を改めず(=古今・後撰という先例のままに)五人の輩(定家・家隆ら)を定めて記し奉らしむるなり】とのことでした。ここに出てきた古今・後撰・拾遺・後拾遺・金葉・詩花・千載・新古今の和歌集をまとめて八代集と呼んでいます。八代集のついでに覚えておいて欲しいのが皇朝十二銭です。これは律令制度のもとで政府が発行した12種類の穴あきコインであり、708和同開珎から963乾元大宝まであります。もしこれを令和の現在にセットで持っていたら1億円以上の価値があると思います。昔から我が国のお金の最初は708和同開珎だと思われてきたし私もそう思っていました。武蔵国(現在の埼玉県秩父市あたり)から自然銅が出土したのを祝って女帝元明が708に鋳造させた、と伝わっています。ところが最近の研究では683天武天皇の時代に富本銭(ふほんせん)という名の穴あきコインが鋳造されていたことが明らかになってきました。最古のコインは和同開珎ではなく富本銭だったのです。ただし、和同開珎が明らかに流通貨幣であった(711蓄銭叙位令)のに対して、富本銭は流通貨幣ではなく単なるまじない用のコインだった可能性が高い、とのことです。コインに穴があいているのは、ここに紐を通して束ねるためだったのでしょうね。最近のコインでは50円玉と5円玉に穴があいていますが、富本銭皇朝十二銭の名残りかもしれませんね。