kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第462回 2022.6/23

百人一首No.40. 平兼盛(たいらのかねもり):しのぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで

心の中にこらえてきたけれどついつい私の顔色に出てしまった。私の恋は「恋のもの思いでもしているのですか?」と他人が私に問いかけるほどになっていたのだった。

N君:良い歌ですよね。恋の切なさを上手に表現しているなあ、と思います。この歌と次のNo.41壬生忠見「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思いそめしか」はともに「忍ぶ恋の歌」ということで歌合せの会で優劣を競いました。どちらも良い歌で優劣つけ難かったのですが、村上天皇が兼盛の歌を取った、という話が残っているそうです。10世紀中ごろのことで、優雅な話です。

Although I have been trying to conceal my emotion so as not to be noticed, it has appeared so clearly on my countenance that people ask me if I am in love.

S先生:文法的には特に言うこともないのですが、全体的に硬い印象を受けます。特に emotion や countenance という単語が固い印象を与えるので、できれば使いたくないですね。

Though I have been trying to hide my love for her, my look reveals it, people asking me if I am deep in love.

MP氏:Though I try to keep it secret, my deep love shows in the blush on my face.  Others keep asking me ー Who are you thinking of ?

N君:うーん参りました。S先生~MP氏の作品が、僕の作文の数段上を行っていることが分かります。柔らかくて軽妙、とでも申しましょうか。

S先生:MP氏の作品は本当に素晴らしいですね。私も勉強になります。さて今回も第459回に引き続いて「日英のことわざ比較」をやって英語脳を磨きましょう。

(1) 蛇の道は蛇=泥棒を捕まえるには泥棒を使え:Set a thief to catch a thief.

(2) 柳の下にドジョウはいない=幸運は続かない:Good luck does not often repeat itself.

(3) 朝には紅顔、夕べには白骨=死の扉以外は全て閉じられている:Every door is shut but death's door.

N君:この but は接続詞ではなく前置詞で「~以外は、~を除いて」の意ですね。

S先生:そう。大修館の辞書から例文を引いておきましょう。I ate nothing but bread and butter. 「バターを塗ったパン以外は何も食べてません」

(4) 噂をすれば影=悪魔の事を話すと悪魔が現れる:Talk of the devil, and he will appear.

(5) 身から出た錆=穴を掘る奴はそこに落ちるだろう:Who digs a pit shall fall therein.

(6) 楽あれば苦あり=喜びはそのしっぽにトゲを持つ:Pleasure has a sting in its tail.

(7) 欲は失敗の元=たくさんの荷物を背負ったラクダの背を折るのは最後の藁一本:It is the last straw that breaks a camel's back.

(8) トンビに油揚げをさらわれる=バカ者が家を建て賢人がそれを買う:Fools build a house, and wise men buy it.

(9) 大山鳴動して鼠一匹=毛を刈られる時に羊はメエメエ大声で泣くが取れる羊毛は少しだけ:A great cry and little wool.

(10) 一を聞いて十を知る=賢人には一つの言葉で充分:A word is sufficient to the wise.

N君:(8)の「バカ者が家を建て賢人がそれを買う」は、マイホームのローンをコツコツ払っている日本人にはこたえるでしょうね。

S先生:そうだね。お金持ちは不動産を転がすだけだからね。

K先輩:そうなんですよね。一般庶民に比べて専門知識のある人がどうしても上になります。飛鳥時代にもそういうことはありました。文字です。倭国にはまだ文字というものがなく中国大陸や朝鮮半島からの渡来人が漢字の音を使って、4~5世紀の大和政権において出納や外交文書の作成にあたっていたと考えられます。現存する我が国初の漢字使用例として、471埼玉県稲荷山古墳の鉄剣銘文、およびほぼ同時期の熊本県江田船山古墳の鉄刀銘文があり、さらには 443 or 503 和歌山県隅田(すだ)八幡の人物画像鏡の縁に書かれた銘文、があります。私は稲荷山古墳や江田船山古墳にはまだ行ったことがないのですが、隅田八幡には偶然行きました。その日私は空海が開いた金剛峯寺のある高野山へ行ってみようと思って京都から南下して紀の川上流の橋本市まで来ました。あとは南方の山に分け入って登っていけば高野山で、その麓には1600関ケ原の後に真田昌幸・幸村父子が幽閉された九度山があることも分かっていたので「いろいろ楽しみ」と思っていたのです。橋本の駅で路線図を眺めていたら、橋本から紀の川に沿って東へふた駅行ったところに「隅田」という小さな駅があることに気づきました。「隅田ってもしかしてあの隅田八幡の隅田?」となって心臓がバクバクしてきました。serendipity「予期せぬ僥倖」とはこのこと。犬も歩けば棒に当たるものです。高野山は後回しにしてとにかく隅田の駅へ行ってみることにしました。そこはすごく鄙びた小さな駅で、すぐ近くにあった食堂のおばちゃんに尋ねたところ「なんか昔の字が書かれた鏡がある神社らしいけど」とのことで道を教えていただきました。歩いて1㎞ほどの山の南麓に隅田八幡神社はありました。石段を登って境内に入ると鉄製の大きな丸い鏡のレプリカが立っていて、銘文を読むことができました。その中にある「癸羊(みずのとひつじ)」が443なのか503なのかまだ分かっていません。5種類ある干の一つが癸、12種類ある支の一つが羊なので、5×12=60種類の組み合わせがあり、443+60=503 なる関係が成り立っています。銘文をかいつまんで読むと「癸羊の年、A王がB宮に居た時に、その健康長寿を祝ってC王が部下二人に命じて上等の銅を使ってこの鏡を作らせた」みたいなことが書かれています。A・B・Cともに詳細不明ですが特にAが気になります。もしも503とすればAは第26代継体天皇が有力で、そうなればかなり新しいし、分かっていることもたくさんあります。しかし443だとすると一気に霧が立ち込めて視界不良となります。400年代すなわち5世紀は「倭の五王の時代」「暗黒の5世紀」などと呼ばれていて、分からないことが多いが故に古代ロマンをかきたてるのです。我が国の5世紀に関しては宋書倭国伝に倭の五王「讃・珍・済・興・武」が出てきます。武=第21代雄略天皇 というのはだいたい分かっていますがあとは霧の中。日本書紀によると、雄略(21)の兄が安康(20)で、この二人の父が允恭(19、いんぎょう)、その次兄が反正(18、はんぜい)、長兄が履中(17、りちゅう)です。この三兄弟の父が仁徳(16、にんとく)、その父が応神(15)です。この15代応神天皇から21代雄略天皇のあたりが讃・珍・済・興・武に当たるのですが、正しく比定することはできていないのです。応神の母は古代史のスーパースター神功皇后熊襲征伐や三韓征伐で有名な勇ましい女性。応神が400前後の人だとすると神功皇后は300年代後半の人と考えられます。現在の北朝鮮にあたる高句麗の首都であった丸都(がんと)に好太王碑(広開土王碑)と呼ばれるおおきな石碑があってそれに「391年に倭が攻めて来た」みたいなことが書かれているので、もしかすると神功皇后が海を渡って朝鮮半島で戦争をしたのかもしれません。神功皇后の夫は仲哀天皇(14)で、この人は熊襲征伐のため九州に来ていて今の福岡県で亡くなったらしい。仲哀天皇の父は日本武尊(やまとたける)であって、このあたりから一気に神話の世界に入っていきます。いずれにしても仲哀天皇神功皇后の夫婦が300年代後半で応神天皇が400年頃でしょう。魏志倭人伝によると卑弥呼が魏に使いを出したのが239なので、もしも大和政権の御先祖が卑弥呼だとすると、卑弥呼は大和政権草創期の人ということになります。この頃は寿命が30~40歳くらいでしょうから、1代あたりの活躍期間を20年くらいと見積もると、370頃の仲哀天皇(14)から見て13代前の神武天皇(1)は370-20×13=110となって、初代神武帝は100年代前半の人、ということになります。239に登場する卑弥呼の立ち位置は不明ですが、「大和政権草創期の少し後に存在した女シャーマン」である可能性が高いと思います。シャーマンというのは神様と交信する能力を持った祈祷師です。大分県宇佐市にある宇佐神宮には拝殿が3つあって、向かって左が応神天皇(15)、向かって右がその母神功皇后、真ん中は比売大神(ひめおおかみ)という名の女神ですが誰だか分かっていません。古代史のスーパースターふたりを両脇に従えて真ん中に鎮座するこの女神はいったい誰なのか? 卑弥呼なのか? 壱与(いよ、卑弥呼の後継者)なのか? 興味は尽きません。

239卑弥呼が魏に遣使:卑弥呼のふみ来る倭人

391好太王碑:作為的な碑文、ホントに倭を追い返したのか?

443隅田八幡の鏡:シジミの味噌汁隅田八幡

471稲荷山鉄剣・江田船山鉄刀:竹刀じゃないぞ鉄剣だ

番外編として奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮につたわる七支刀の銘文があります。七支刀というのは先端が7つに分かれている炎のような形の刀です。百済の王から倭国の王へ送られたと考えられているので、我が国オリジナルの文字ではありません。錆びがひどくて年代ははっきりせず、268・369・468などの説があります。268なのか369なのか468なのかで話は全く変わってくるので軽々なことは言えませんが、いずれにしてもこの石上神宮物部氏の守り神であり、物部氏の伝統の凄さがうかがえますね。あまり大きなお宮ではありませんが古式ゆかしい雰囲気の漂う素晴らしいところです。私がお参りしたとき鶏がたくさんいたのでなんだろうな?と思っていたのですが、あとで尋ねたら、鶏は神様の使者、とのことで、石上神宮で飼育しているのだそうです。

埼玉県稲荷山古墳から出た鉄剣には「辛亥」の銘があって471に特定されています。それゆえ「辛亥銘鉄剣」とも呼ばれます。471から、60年=1サイクルをなんと24サイクル経過した1911=明治44年が中国における「辛亥革命」の年です。三民主義を掲げる孫文が清国を倒して中華民国を打ち立て、ようやく大陸においても西欧列強に伍していく体制が作られたのです。ところが袁世凱の邪魔が入ってふたたび中国はズブズブ状態へ逆戻りし、孫文は日本へ亡命します。日本国内では、孫文を援助して中国をまともな体制にしよう、という声も強かったのですが、前年1910に朝鮮半島を併合したばかりだったため、政府は中国に対しては不介入の立場をとりました。このころ日本は桂園時代といって桂太郎西園寺公望が交互に組閣する時代で、「朝鮮で手一杯だから中国には介入しない」という態度をとったのは正しい判断だったと私は思います。しかし令和の現在から見れば「朝鮮にさえも手出しするべきではなかった」と思います。民間が進出して起業するのは良いとしても、植民地にしてしまったのはどうだったでしょうか。そういう時代であったことは重々理解しますが、他民族に日本仕様を強いたのは大きな間違いであり、後々大きな代償を支払うはめとなりました。1909=明治43年伊藤博文がハルピン駅頭で安重根に暗殺された時点で、あっさり撤退しておくべきでした。