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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第461回 2022.6/22

百人一首No.39. 参議等:浅芽生(あさじふ)の小野のしのぶれど あまりてなどか人の恋しき

浅芽の生えている小野の篠原のしののように、忍び続けて我慢してはきたけれども、どうしてあの人のことがこんなにも恋しいのだろうか。

N君:「篠原」までが序詞で次の「忍ぶれど」を導出しています。最近分かってきました。序詞を訳す時は「~のように」とか「~ではないが」とするとつながります。

I have managed to refrain from expressing my love for her as if slender bamboos growing in Asaji plants would put up with rustling in a slight autumn wind.  Why should I love her so eagerly ?

S先生:N君の作文では「秋風に揺れてカサコソ鳴るのを我慢する竹」と「彼女への告白をグッと我慢する作者」とを同じ性質のものとして考えているわけですが、これはなかなか凝った趣向でした。私の作文では逆に対立するものとして考えてみました。

I have been concealing my love for her unlike small bamboos easy to rustle even in a light wind.  What on earth makes me long for her like this ?

MP氏:Though I scarcely show my secret feelings like those few reeds sprouting unnoticed in low bamboo, they are too much for me to hide.  Why do I love you so ?

N君:MP氏の作品の第1文を解析してみます。主節の they は my secret feelings でしょう。「背の低い竹の野にひっそりと芽を出した数本の雑草にも似て、私は自分の気持ちをほとんど外に出すことはないのに、この気持ちは溢れすぎて隠せない」というふうになると思います。うまく作るものだと感心します。

K先輩:忍ぶ恋。ひたすら耐える。「ひたすら」を「只管」と書きます。只管打坐(しかんたざ)というのは「ひたすら座禅を組む」という意味で、禅宗の一つ曹洞宗における基本理念です。日本における仏教の流れをおおまかに整理しておきましょう。538に百済聖明王から欽明天皇へ仏像と経論が伝えられたのち、仏教受容に関して賛成の蘇我稲目と反対の物部尾輿(もののべのおこし)との間で論争がありましたが、結局は受容する方向となり、はじめのうちは飛鳥寺の大仏、法隆寺釈迦三尊像百済観音が作られていました。いづれも大陸風の風貌です。私も見に行きましたが3体ともに「こりゃあ日本のものではないな」と思いました。法隆寺釈迦三尊像のみ作者が鞍作鳥(くらつくりのとり)=止利仏師 とわかっています。その光背に銘文があって623年に止利仏師が作ったと記されています。飛鳥大仏や法隆寺百済観音はおそらく渡来人が作ったのでしょう。奈良時代に入って743東大寺盧舎那仏開眼供養が行われるほどに仏教は隆盛となり、平城京には南都六宗と呼ばれる6つの宗派が誕生します。後の世に京都から見て奈良が南にあったので南都、そこの6宗派だから南都六宗です。ひとつづつ覚えようとしてもすぐ忘れるのでこれ以上追及しませんが、とにかく「南都六宗は学問のための仏教」でした。内に籠ってお勉強するばかりで民衆の苦しみに応えることができず、700年代後半には道鏡のように政治に介入する者も現れました。南都六宗は「釈迦の教えを経典に基づいて学び修行して悟りの境地へ達しよう」としていたわけですが、このような教えを顕教といって「まともなやり方」みたいな意味です。794平安京に移ってから弘仁貞観期に台頭したのが「秘密の呪文を通して仏様と交流しよう」というやり方=密教 で、最澄天台宗空海真言宗 がこれに当たります。護摩(ごま)を焚いて経を唱える加持祈祷は密教の専売特許です。顕教に比べて密教は少しヤバイ感じもしますね。しかし顕教にしろ密教にしろ、苦労して経典を解読したり、呪文をマスターしたり、という「並々ならぬ修行」が必要で、そのような修行の果てに悟りの境地が待っている、という特徴がありました。しかし貴族も含めた一般庶民にはそんな修行は無理ですし、そうこうしているうちに1052末法の世 が近づいて来ます。900年代に入ってからは「どうやったら極楽往生できるのか」が人々の関心事となり、源信空也がそれに答えようとして浄土教という考え方を広めようとします。これをさらに進めたのが鎌倉新仏教(浄土宗・浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗)です。特に浄土宗・浄土真宗は民衆に対して「いろいろ難しい修行なんかしなくていいから唯々『南無阿弥陀仏』と唱えさえすればいいんだよ」と言いました。浄土真宗では肉食・女犯(にょぼん)もOKなのですから凄い。坊さんが嫁を貰うなどということは、それまでは考えられないことだったのです。浄土真宗の教科書「歎異抄(たんにしょう)」には「善人猶(なほ)もて往生す況(いはん)や悪人をや」=「善人が極楽に行くのだからなおさら悪人は極楽へ行ける(悪人正機説)」なんて書かれていて、ナンデモアリの様相を呈しています。つまり顕教密教を一生懸命やっていた人達から見れば、鎌倉新仏教は「なんでもアリのエエカゲンなもの」に見えたでしょう。当然そこには摩擦が生じます。鳥獣戯画で有名な洛北高山寺にいた顕教派の明恵上人(みょうえしょうにん)高弁は「催邪輪」を著して、浄土宗開祖法然の書いた「選択(せんじゃく)本願念仏集」に反論を唱えました。「仏教というのはそんな簡単なもんじゃないぞ、ちゃんと修行がいるんだぞ」という主張です。当然の主張だと思います。現代の我々は「オウム真理教は変だな」と感じますが、明恵上人も全く同様の思いを浄土宗・浄土真宗に対して持っていたでしょう。鎌倉時代から800年経過した現在は浄土宗・浄土真宗が普通になっているので、ひょっとすると西暦3000年ころにオウム真理教が普通になっているかもしれないですね。いずれにしても「人は面倒が嫌い」なので、一旦楽なことを覚えたらもう元には戻れません。令和の日本では空調もお風呂もスイッチひとつで済みますが、これを団扇(うちわ)や火鉢やマキに戻せと言われても絶対無理です。民衆にとっての宗教もこれと同じで、軽いもの・簡便なもの・耳障りの良いもの へと変わっていくのは仕方のないことなのでしょう。その大きな転換期が鎌倉時代初頭にやってきた、というわけです。催邪輪のほかにもうひとつ諍(いさか)いを挙げるとすれば「松虫鈴虫事件」でしょうか。1221承久の乱より少し前のこと。後鳥羽上皇が吉野熊野に詣でている間に二人の女御(にょご、側室みたいなもの)=松虫19歳+鈴虫17歳 が上皇に無断で「流行りの浄土宗に傾倒してしまい勝手に尼さんになってしまった」という大事件がありました。京都市の北東にある哲学の道のなかほどに安楽寺という小さなお寺がありますが、ここの坊主が松虫鈴虫をそそのかして出家させた、ということで上皇は烈火の如くお怒りになって、その坊主を死罪とし、その親方筋にあたる法然を土佐に追放しました。親鸞も越後へ追放されています。伝統的な仏教と新しい仏教とが激しくバトルを繰り広げています。その後の仏教は、各宗派ごとに偉い人 ー たとえば一休宗純蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)・蓮如(れんにょ)・良寛など ー が出たりしながら勢力を拡大していった、という構図です。江戸時代の初めに隠元黄檗宗という新しい禅を京都万福寺で始めました。万福寺に行ってみるとまるで中国に居るかのような錯覚を起こすくらい「日本ではない」感じがします。幕末の頃に天理教(中山ミキ)、黒住教(黒住宗忠)、金光教(川手文治郎)、が始まりましたが、これらは仏教ではなく、教派神道と呼ばれる神道の一種です。中山ミキは今の天理市出身ですが、黒住宗忠は備前川手文治郎は備中でいづれ岡山県というのは偶然でしょうか。令和の現在でも奈良県天理市に行くと天理教の施設・建物が林立していてビックリします。京都市北東の吉田山に黒住教のおおもとの立派な神社があって、春の早朝に散歩すると鶯の鳴き声がきれいです。金光教支部も日本中にありますよね。明治維新で王政復古したために神道の力が一時的に強くなり教派神道も勢力を拡大したので現在のような隆盛が見られるのでしょう。神と仏は平城京の昔から仲良く神仏習合してきたのに、明治に入って神仏分離令が出されて神をupさせ仏をdown させる風潮=廃仏毀釈によって、一時的にお寺の仏像が壊されたことがありましたが、浄土真宗西本願寺島地黙雷らの努力により仏教も立ち直りを見せ、令和の現在につながっている、という次第です。色々ありましたが「神様仏様関連は無税」というのがいいですよね。経済的に豊かなのでしょう。その証拠に、各教団の幹部連中はでっぷり肥えている人が多い、と私は思います。