百人一首No.83 皇太后宮大夫俊成:世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
この世にはもはや逃れる手立てなど無い。一途に思い詰めて出家遁世しようとして深い山に入ってみると、こんな所にも鹿の鳴く声が聞こえる。
N君:係り結びが上句にひとつ、下句にもひとつ、合計二つあるのは珍しいと思います。句末の「なる」は「伝聞推定なり連体形」と思われます。断定ではない。古文漢文ほぼ零点だった僕もこのあたりに気付けるようになりました。
I can find no place to flee from this troublesome life. Wanting to become a priest, I now live in this deep mountain, where deer's sad cries make me more grievous.
S先生:上出来です。I can find no place と不定詞との間に anywhere を入れてもよさそうですが、このままでも簡潔で良いと思います。
There is no way for me to flee from my agony. Though I live in the deep mountain to retire from this troublesome world, it is only deer's sad cries that I hear.
N君:retire と retire from の違いについて教えて下さい。
S先生:自動詞の場合は retire from A to B「AからBのほうへ引き下がる、隠居する」のような意味になり、He retired from the world losing all hope of life.「希望を失って身を引いた」のように使います。go away from とほぼ同じです。他動詞の場合は「解雇する、やめさせる、撤退させる」のような意味になり、They retired him because his big corruption was discovered.「大きな汚職が明るみになったので解雇した」のように使います。fire や dismiss に似ています。
MP氏:There is no way to escape the world. My mind made up I have entered deep in the mountains, but even here my pain is echoed in the plaintive belling of the stag.
N君:MP氏の作品第2文冒頭の My mind made up は独立分子構文で「意を決して」の意味だと思います。plaintive「悲しげな」、bell は鐘の音なのですがここでは鳴き声の意でしょうか、stag「雄シカ」。
S先生:belling については私も勉強不足で分かりません。crying と書きそうです。
K先輩:本歌作者藤原俊成は余情・幽玄を唱えて古今集時代の技巧から美を深化させ、それを息子定家が新古今集に大成したと言われています。第454回で「日本文化を英語で紹介する事典」の冒頭部分を紹介しましたが、再度味わってみましょう。What is neither apparent in the meanings of words nor clearly visible to the eyes is, for those very reasons, the aesthetic world that man can sense behind it all : This is Yuugen. It is one of the emotions flowing in the depth of the Japanese feelings that value suggestiveness and encourage brevity.「言葉に表せず目に見えないけれども、それ故にこそ、その奥に感じることのできる美の世界、それが幽玄です。この幽玄は、余情や省略(簡素)に重きを置く日本人の感覚の深いところを流れている感情の一つなのです」ということらしいが、難しすぎて分かったような分からぬような話です。鴨長明は「詮(せん、歌の最も大事なところ)は、ただ言葉に表れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし」と言いました。正徹(しょうてつ、室町期の歌人)は「幽玄といふものは心にありて詞(ことば)には言はれぬものなり」と言いました。どちらも難しくて私には分かりませんが、とにかく幽玄というのは読んで字の如く「幽(かす)かで玄妙なもの」なのでしょう。百人一首をここまで見てきて和歌の系譜が二つあるように思えます。一つは「三事兼ねたるNo.71源経信~髄脳で有名なNo.74俊頼~No.85俊恵法師~鴨長明」、もう一つは「No.83藤原俊成~No.97定家~為家~~為秀~今川了俊~正徹」です。これらの系譜に支えられて日本の美は、平安期の「もののあはれ」~鎌倉室町期の「幽玄」~室町期の世阿弥「秘すれば花」~安土桃山期の利休「わび」~江戸期の芭蕉「さび」 というふうに繋がっていったのでしょう。底に流れるのは一貫して「華美や技巧を嫌い簡素で奥深く、目に見えず言葉にも表せぬ微妙な美」ということなのでしょう。難し過ぎて頭が爆発しそうです。ところで今川了俊(りょうしゅん)は今川貞世(さだよ)と同一人物です。教科書には貞世で出ていると思います。1336室町幕府成立と同時に始まった南北朝の対立を解消する目的で、三代将軍義満は貞世を九州へ派遣しました。貞世の尽力によって、後醍醐帝皇子の征西大将軍懐良(かねなが)親王および菊池氏の勢力が平定されて1392南北朝合一につながりました。了俊は今の静岡県の守護で、1560桶狭間で死んだ今川義元のご先祖にあたります。武人にして優秀な歌詠みでもありました。正徹物語の中に「為秀の歌【あはれ知る友こそ難き世なりけれ 独り雨聞く秋の夜すがら】を見て貞世は為秀に弟子入りする決意をした」と書かれています。詩情の分かる友人もいないので語り明かすこともできずに一人寂しく秋夜の長雨の音を聞いています、というような意味でしょう。秋の夜の寂しさが迫ってきます。幽かで玄妙な味があるような気がしてきました。
後醍醐天皇の話が出たのでちょっと脱線して、最近行った吉野山の話をします。奈良県南方の山の中です。吉野山の、今は吉水神社になっているところが後醍醐天皇の御座所、つまり南朝の本拠地だった所です。この神社の入り口の右手に、桜の木を縦に割ったような長い看板のようなものがありその割面に「天莫空勾践 時非無范蠡」と墨書されています。「天(てん)勾践(こうせん)を空(むな)しうすること莫(なか)れ 時に范蠡(はんれい)無(な)きにしも非(あら)ず」と読みますが、太平記の知識や中国春秋時代の知識がないとこの意味がわからないのです。太平記というのは後醍醐天皇・楠木正成・足利尊氏・弟直義・息子義詮(よしあきら、室町幕府2代将軍)などの話を書いた読み物で、鎌倉幕府の終わり~建武の新政~室町幕府の始まり=南北朝時代のはじまり~南北朝時代の前半 あたりの権力争いが記録されています。西暦で言えば1300年代の初めから中盤過ぎまでの軍記物的な本です。作者は不明ですが小島法師≒児島高徳(こじまたかのり)が作者ではないかといわれています。児島高徳は今の岡山県にいたといわれる武士で、後醍醐天皇への尊王感情が篤い人だったとのこと。1332に鎌倉倒幕運動の咎で捕らえられ京から隠岐の島へ配流となった後醍醐天皇がいまの岡山県を通っていく際に、高徳は天皇を救い出そうとして夜独りで天皇の宿所へ忍び込もうとします。ところが警護の兵が多数いて手も足も出ません。仕方なく高徳は宿所の外に生えていた桜の幹の皮をはぎ、白い割面に墨で「天莫空勾践 時非無范蠡」と書いたのです。朝になって警護の兵たちがドヤドヤとやってきてこの十字詩を読もうとするのですが、インテリがいないので誰も意味が分かりません。騒ぎを聞きつけて天皇がやってきて十字詩を読むと、天皇にだけはその意味が分かったのでした。表面的には「ああ天の神様よ、越王勾践の命をなきものにしてはいけません、范蠡のような忠臣がいないとも限りませんから」という意味ですが、その真の意味は「後醍醐の帝よ、今は囚われの身となって一旦は隠岐へ流されるとしても、私児島高徳のような忠臣が存在している限り、必ず都へ還る日が来ますから、その日を期して希望を失わないで下さい」ということでしょう。天皇はおおいに励まされたことでしょうね。太平記の名場面です。この手の話に詳しい歴史学者M氏によれば「歴史の名場面はだいたい全部作り話」とのことでした。もしかすると作者児島高徳が自分のカッコイイところを見せるために、ありもしない話をでっち上げた可能性が高い、とのことです。そんなものかもしれませんね。
吉水神社の入り口前の広場や境内から東方の山を見渡すと一面が桜の木で埋め尽くされていて、春には花見客のおしくらまんじゅうになります。ここからの眺めを俗に「一目千本」と呼んでいます。北から南へ向かって、下千本・中千本・上千本 と呼ばれるほどに山全体が桜で覆われているのです。吉水神社から南へ歩いていくと金峯山蔵王堂(きんぷせんざおうどう)の青不動があり、その大きさに圧倒されます。青不動めあてにやってきた参拝者が、江戸時代の頃から記念に桜を植えていったそうでそれがブームになっていきました。もともと吉野山は桜で有名だったのですが、江戸時代の参拝記念桜植樹ブームによって、さらに凄いことになったらしいです。蔵王堂の近くにある蕎麦屋さんで一目千本を眺めながら山かけ蕎麦をいただき、わらび餅を買って帰りました。温泉宿もあり4~5日ゆっくり来たいものだと思いました。何もない山の上の田舎ですが夏は夜になると涼しそうです。ここからさらに南へ進むと、昔の山伏たちが修行のために歩いた道が続いていて、和歌山県の熊野古道や那智の滝へ繋がっているそうです。後鳥羽院も800年くらい前に吉野熊野詣でを繰り返していたらしいですが、相当な難路です。京都からここ吉野まではなんとかなるとしても、さらに熊野まで行くのは大変だったと思います。牛車・馬・駕籠のこともあったでしょうが徒歩で進んだ道もあったでしょう。信心というのはある意味恐ろしいものだと思いました。