kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第434回 2022.5/26

百人一首No.12. 僧正遍照(そうじょうへんじょう):天つ風雲の通ひ路吹き閉じよ をとめの姿しばしとどめむ

空吹く風よ、雲の通い路を閉ざしておくれ、天女の舞い姿をもうしばらくこの地上にとどめておこう。

Heaven's wind, close the way between this world and the heaven, for I am inclined to see heavenly maidens dancing beautifully for a while.

N君:「しばしとどめむ」の「む」は推量の助動詞ですが、主語の人称によって意味が色々変わります。第1に「我行かむ」のように主語が1人称なら「む」は意志を表しています。第2に「汝行かむ」のように主語が2人称なら「む」は適当・勧誘を表しています。「あなたは行くのが良い」というわけです。第3に「彼行かむ」のように主語が3人称なら「む」は推量を表しています。will が意志や推量を表していたのと似ています。第4に「吉田兼好徒然草の中でよく使う仮定婉曲の『む』」というのがあります。「思うは子を法師になしたらこそ心苦しけれ」は、「愛しいと思うような子がもしあったとして、その子をもしも出家させたとしたら、痛々しいことだ」という意味になります。これら4種類の使い方に共通する「む」の本態は「未来~これから先のこと」であって、これから先の事を、志したり、誘ったり、推し量ったり、仮定したり、、、それが「む」です。「けむ」が過去推量、「らむ」が現在推量、ですから「む」のことを未来推量と呼んでもよいのですが、派生した意味の幅が広すぎるために、推量助動詞「む」ということになっているにすぎません。同じようなことが「べし」にも言えます。意味が広すぎて呼称に困る、ということです。以上、「高校生の古典文法」という本に書いてありました。これを読んで「ハハー、『む』と『べし』は意味が広すぎて学者先生達も困っていたんだ」と分かりました。

S先生:「む」に似たものとして「むず」があります。「むとす」が短くなって「むず」になりました。もともと「むとす」の形だったのが、次第に乱れて「むず」に変化していくのを清少納言が嘆いています。「何事を言ひても『その事させむとす』『言はむとす』『何とせむとす』という『と』の字を失ひて、ただ『言はむずる』『里へ出でむずる』など言へば、やがていとわろし」という具合に枕草子「ふと心劣りとかするものは」の中で述べています。このような現象は、現代でも年寄りが若者言葉を嘆いて文句を言っている姿と重なりますね。要は、昔も今も同じ、ということです。それと、言葉は生きていてどんどん変わっていくものだ、ということが分かりますね。古文の話はこれくらいにして英作文に戻ります。because が直接的かつ客観的な理由を述べるための接続詞であるのに対して、for は付加的かつ主観的な理由を述べるための接続詞です。ここではN君の作文にある通り because よりも for の方が良いでしょう。例文を挙げましょう。All nuclear weapons must be abolished, because they are fatal to all humankind.  これに対して for は、It is morning, for the birds are singing.  鳥は朝にだけ鳴くとは限らないので、鳥がさえずっているからといって朝だと即断するのは客観的に見て誤りですが、まあだいたい朝だよね、という軽い感じで for を使っているわけです。もうひとつ意地の悪い指摘をしておきます。文末の for a while は see にかかるのか、それとも dancing にかかるのか、という問題です。N君は see にかかるつもりで作文したと思いますが、それを明確にするためには、声に出して読む時に dancing beautifully のあとにポーズを置くとよいでしょう。以下に示した私の作文では「弱い使役動詞have」に着目して下さい。have+O+原形不定詞「Oに~してもらう」です。

Oh, heaven's wind, close the way which clouds pass through, for I would like to have celestal maidens stay here to dance for a while.

MP氏:Breezes of Heaven !  Blow closed the pathway through the clouds, to keep a little longer these heavenly maiden dancers from returning home.

K先輩:4月にその一年の豊作を祈って祈年祭(きねんさい)をするのに対して、11月には豊作を感謝して新嘗祭(にいなめさい)をします。新嘗とはとれたばかりの新米のこと。天皇新米=新嘗を神に奉納して豊作を感謝するのです。その新嘗祭の余興として、貴族の娘5人によるダンス大会が催され、美しい舞い姿を一目見ようと皆が寄ってきます。遍照は今は坊さんですが、少し前までは良岑宗貞という名の貴族で、毎年このダンス大会を楽しみにしていました。踊る5人の娘たちは今で言えばAKB48ですね。彼女たちを天女に見立てて、その舞い姿をずっと見ていたいがために、天女の帰り道=雲の通い路 を閉ざしておいてくれ、と言っているのですから、天女にとっては迷惑な話です。さてさて皆さんは「祈年祭」「新嘗祭」なんて言われても、それがどうした試験には関係ねーだろ、と思うでしょう。ところがどっこい、日本史の試験に「新嘗祭」が出題されて、祈年祭新嘗祭の区別がアヤフヤだった私は悩んだ揚げ句に間違えたという苦い経験があるのです。同じことが江戸時代の琉球からの使節についても言える。朝鮮からやってくる通信使は有名ですが、琉球からも「琉球国王代替わりに際しての謝恩使」「将軍代替わりに際しての慶賀使」が来ていました。この謝恩使・慶賀使の区別がつかずに、悩みに悩んだ末に間違えたことがありました。琉球から見たときに、日本の新将軍就任に際して謝恩するはずもなく慶賀するに決まっているのですから、間違えようもないのですが、試験中というのは判断がおかしくなったりするものです。似たものが並列している時には間違い易いのです。江戸時代中頃に起きた宝暦事件明和事件もそう。いずれも幕府による尊王論者弾圧事件なのですが、1758宝暦事件~京都~公家~竹内式部~追放 と、1767明和事件~江戸~武家山県大弐「柳子新論」~死罪 とが、こんがらがって区別がつかなくなってしまいます。こういう例はいくらでもあります。鎌倉時代宝治合戦霜月騒動もそう。いずれも執権北条家 vs 有力御家人 の、鎌倉幕府内でのもめごとです。1247宝治合戦(ほうじがっせん)は、5代時頼 vs 三浦泰村元寇直後で8代時宗が亡くなった後の1285霜月騒動は、9代貞時(内管領平頼綱 ) vs 安達泰盛。執権と対峙した御家人はどちらも「泰」の字を持っていたうえに、ややこしいことに3代執権は泰時でした。こんがらがってどうしようもないですが、このあたりの区別が瞬時につくようになると、日本史も一皮むけて雲上の陽光を拝めるようになります。ちなみに、3代執権北条泰時は日本史上で最も優れた優れた為政者であったと言えるでしょう。卑弥呼聖徳太子天智天皇桓武天皇源頼朝後醍醐天皇足利義満織田信長豊臣秀吉徳川家康大久保利通吉田茂田中角栄岸田文雄、、、と数々の立派な為政者がいましたが、最も優れた人は北条泰時であったと思います。彼が1232に制定した御成敗式目(貞永式目)は、室町~戦国~安土桃山~江戸 の各時代において、子供が読み書きを学習するための教科書となり日本人の徳と合理的精神を醸成し続けて、それが現代日本人の価値観にも繋がっているのですからたいしたものです。御成敗式目の価値観は1890=明治23年 のフランス人法学者ボアソナードによる新民法まで続きました。東京帝国大学法学部教授穂積八束(ほずみやつか)はボアソナードの新民法を「民法出でて忠孝亡ぶ」と非難しましたが、それほどに北条泰時の精神が今日まで継承されているということでしょう。泰時については京都国立博物館上席研究員宮川禎一氏から次のような逸話をうかがったことがあります。1221承久の乱において、父である2代執権義時の命を受けた泰時が京へ攻め上った時に、後鳥羽上皇サイドの僧兵が鳥獣戯画で有名な洛北高山寺へ逃げ込み、高山寺明恵上人(みょうえしょうにん)がこの僧兵どもをかくまったことがありました。明恵上人は「それが僧兵であろうが鳥であろうが獣であろうが、生あるものを助けるのは仏道に携わる者として当然の行動である」と述べました。泰時の部下たちが明恵上人を裁きの白洲へ引っ立てた時に、泰時はそれが名高い明恵上人と気付き、縄を解いて上座へ座らせ、自分は下座にひれ伏して、無礼を詫びたうえに、今後の施政方針について明恵上人の教えを乞うた、ということです。なかなかできることではないと思います。

1274:火になしつぶて、文永の役

1281:火に刃、弘安の役

日本軍の竹崎季長(たけざきすえなが)が騎馬+鎧兜+剣+弓矢で「やあやあ我こそは、、、」と名乗りを上げているところへ、元軍はそんなものを聞く耳も持たず突然「てつはう(鉄砲)」という火力を使って攻撃してきたので、季長もビックリ仰天したでしょう。蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)の有名な場面です。ちなみにこの時の「てつはう」は、1543種子島に伝来した火縄銃とは異なり、おそらく原始的な小型のバズーカ砲のようなものであったと考えられます。

1543:囲碁読み書きの時堯くん  時堯=種子島時堯(たねがしまときたか)

1549:以後よく来る宣教師  フランシスコザビエルが鹿児島に上陸