kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第433回 2022.5/25

百人一首No.11. 参議篁(たかむら):わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人(あま)の釣舟

広い海原を沢山の島々目指して漕ぎ出してしまったと、都の人々に伝えておくれ、漁師の釣舟よ。

N君:ものすごく優秀だった小野篁(おののたかむら)が天皇の不興を買って隠岐の島へ島流しになり、さあ今から船出だというときに詠んだ歌です。ただし最終的には篁は許されて都へ戻っています。頭の良い篁はそこまで見通していたのかもしれません。

Oh, anglers on a small fishing boat, could you tell my friends in Kyoto that I have set out for hundreds of distant islands ?

S先生:最初の呼びかけ部分ですが、on a small fishing boat は不要でしょう。また anglers は音声的に汚い感じがするので fishermen くらいに変更しましょう。

Oh, fishermen, tell my folk in the capital that you have rowed out to banish me to one of hundreds of remote islands in a broad sea.

N君:capital には定冠詞なのに broad sea には不定冠詞となっています。この辺の区別がまだ分かりません。

S先生:冠詞の問題は一生解決できないでしょう。慣れていくしかありません。たとえば「彼は5年生です」と言いたい時、He is a fifth grader. という言い方と、He is in the fifth grade. という言い方があって、どちらも正しい。

MP氏:Fishing boats upon this sea !  Tell whoever asks I am being rowed away to exile out past the many islets to the vast ocean beyond.

N君:MP氏の作文では exile out に続く部分に色々な前置詞が配置されていて「動き」を感じます。動詞を使わずに前置詞や副詞で動きを出しているのがスゴイと感じました。さて、話のついでにちょっとした疑問について今ここで尋ねておきます。「僕のこの本」と言いたい時、my this book とか this my book とかの言い方はまずくて this book of mine と言うらしいのですが、これが何故なのか分かりません。

S先生:何故、とその理由を追求しようとするところが超理系のN君らしさだね。英語では、a, this, that, these, those などと人称代名詞所有格とは並列できないので、必ず this book of mine のように「of +所有代名詞」の形をとらなければなりません。したがって a my friend は誤りであり、a friend of mine が正しい。that her watch や her that watch は誤りであり、that watch of hers が正しい。

N君:ついでにもう一ついきます。小説か何かを読んでいた時に  He was born poor. と書かれていました。poor ではなくて poorly だと思うのですが、、、。

S先生:結論から申し上げますと poor でよいです。叙述が一応完成しているのに、追叙的になにかを添えることがあります。その添え物が、主格にかかわるものであれば「準主格補語」、目的格にかかわるものであれば「準目的格補語」と呼びます。He was born. で一応完成しているのに、それに「貧しい状態で」という添え物を付け加えたい時には「準主格補語」としての形容詞 poor を加えるので、He was born poor. となるわけです。日本語の「貧しく」に引っ張られてついつい副詞の poorly を使いたくなりますが、英語ではあくまでも形容詞でなければなりません。彼の意志とは関係なく生まれた時の状態が「貧しい」のであって、「貧しく」生まれてやろうと思って生まれたわけではないのだから。たとえば、She slept for a long time and woke languid.「長いこと眠り、物憂い顔をして目を覚ました」では、「物憂く目を覚ました」のではなくて、「起きた時の状態が物憂かった」のです。また、I'm glad to see you back safe and sound.では、「帰って来た時の状態が安全かつ壮健だった、それを見て嬉しい」という意味を表そうとしているのです。日本語的な感覚から一旦離れてみないと、この英語感覚が理解できないでしょう。N君の今回の質問は日英の違いを浮かび上がらせる良い質問でした。

K先輩小野篁(おののたかむら)は850頃の漢学者で非常に頭が良かった。数年前、六道珍皇寺の観光ポスターに「最京の頭脳」という文言が踊っていたのを見たことがあります。京の字は、強・狂・凶・恐などに読み替えることができそうです。篁については、昼間は朝廷に出仕し夜は井戸づたいに冥界へ下って閻魔大王の副官として仕事をしていた、という伝説が残っています。その井戸跡が洛東鳥辺野(とりべの)の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)にあります。私も見に行きましたが何の変哲もない井戸でした。京の南東部=鳥辺野、北西部=化野(あだしの)、の2か所は平安の昔は死体を捨てる場所で、六道珍皇寺のあたりは「この世とあの世の境」=六道の辻と呼ばれていました。六道というのは、天道・人間道・阿修羅道畜生道・餓鬼道・地獄道 のことで、死の直後にこの六道の辻においてどの道に進むかが決まるというわけです。そんな場所の井戸から出入りしている篁は相当怪しい人物ですよね。篁が生きた弘仁貞観期はのちの国風期に比べて唐風の厳しさが漂っており、まだ平仮名は発明されておらず、漢文学漢詩が盛んでした。教科書に必ず出ている著作物としては空海「性霊集(しょうりょうしゅう)」、菅原道真菅家文草(かんけもんぞう)」、良岑安世経国集」、小野岑守凌雲集」があります。三筆の一人空海最澄へ送った風信帖の漢字は厳しさに溢れています。僧景戒が著した日本最古の説話集「日本霊異記(にほんりょういき)」も漢文で書かれています。厳しい弘仁貞観期ではありますが、来るべき国風文化への芽生えもあります。ある時、嵯峨天皇が篁にクイズを出しました。「子子子子子子子子子子子子」を読んでみろ、というクイズです。子の字が12個並んでいます。子の字は音読みとしては「し」、訓読みとしては「こ」のほかに「ね」もあります。難しい漢文をどうしたら柔らかい和文に直すことができるか、という趣旨の出題です。篁は間髪入れずに読みました。「猫の子の子猫、獅子の子の小獅子」。これには嵯峨天皇もビックリしたでしょう。篁は頭が良過ぎたために「命を懸けてまで唐まで行く必要などない」と見抜いており、遣唐使に任命された自分がボロ船に乗せられるのを嫌ってブウブウ文句を言っていたら、それが嵯峨天皇の耳に入ってしまいました。嵯峨天皇は激怒して篁を隠岐島流しにしてしまいました。400年後に後鳥羽上皇も流される(1221承久の乱)ことになる島ですね。もっと言えばさらに100年くらいして1332に後醍醐天皇もこの島に流され1年で脱出しました。さて、この時に篁が詠んだのがこの歌ですが、実際篁の判断は正しかったのです。唐は既に盛りを過ぎていて、事実894に菅原道真遣唐使をやめました。630舒明天皇犬上御田鍬 以来の遣唐使を、宇多天皇のもとで道真がやめてしまったのです。第431回で紹介した888阿衡の紛議というゴタゴタの後、宇多天皇のバックアップのもとで道真はこのようなスタンドプレーをやってのけることができたのです。しかし897宇多天皇退位の後はさすがに風向きが変わってきました。世は既に国風文化への助走を始めており、弘仁貞観期の生き残りのような漢学者道真の堅物ぶりが目立つようになってきました。道真に「融通の利かないオッサン」というレッテルを貼ったのは、おそらく宮廷の女房どもでしょう。彼女たちは「より軽いもの、より柔らかいもの」を欲っしました。道真が大宰府に流されて非業の死を遂げたのは、なにも藤原時平が陰謀conspiracy をめぐらしたからではない、と私は思います。菅原道真という存在そのものがもはや時代にマッチしなくなってしまったから、という一面があったでしょう。

894:白紙に戻す遣唐使

1221:いちにィにィいち承久の乱