kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第483回 2022.7/14

百人一首No.61 伊勢大輔(いせのたいふ):いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重(ここのえ)ににほひぬるかな

古都奈良の八重桜が届いて今日はここ京都の宮中でひときわ美しく咲き誇っています。

N君:久し振りの分かりやすい歌です。

The double cherry blossoms in the ancient capital Nara, which were sent here Kyoto to celebrate the Emperor on his longevity, are in full bloom in the Imperial Palace today.

S先生:ちょっと長いですが概ね良いと思います。

Lo, the double cherry blossoms in Nara, the ancient capital, are at their best today.

MP氏:The eightfold cherry blossoms from Nara's ancient capital bloom afresh today in the new place of Kyoto with its nine splendid gates !

N君:MP氏の作品では「八重桜が九重の門と一緒に輝いている」となっていますが、この構成が凄いと思います。ところでS先生の Lo はどういう意味ですか?

S先生:See! とか Look! の意で「ほら見て!」という感じの古い言い方です。では日英ことわざ比べの続きをやります。

(11) 人の噂も七十五日→不思議なことは続いても9日だけ:A wonder lasts but nine days. なぜ9なのか、なぜ75なのか、それは誰に尋ねても分かりません。

(12) 君子は豹変す→賢人なら目的変更を恥じるべきではない:Wise men ought not to  be ashamed to change his purpose.

(13) 知らぬが仏→無知であることが尊い:Ignorance is bliss.

(14) 下司の後知恵→何か事が起こった後ならば阿呆でも賢くなれる:Even a fool can be wise after the event.

(15) 鶏口となるも牛後となるなかれ→大きな池の小さな魚でいるより、小さな池の大きな魚でいるほうがよい:Better to be a big fish in a small pond than a little fish in a big pond.

(16) 木に依りて魚を求む→羊毛を求めてヤギの所へ行くな:Don't go to a goat for wool.

(17) 天知る、地知る、人知る:昼には眼があり夜には耳がある:The day has eyes, and the night has ears.

(18) 毒を以って毒を制す→危険自体が危険の解決法だ:Danger itself is the remedy for danger.

(19) 郷に入っては郷に従え→隣人のようにふるまう人は愛されるだろう:He that does as his neighbors shall be loved.  同じ意味で Do in Rome as the Romans do. があります。

(20) 木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になる→皆、羊毛を求めて家を出るが、反対に毛を刈られて帰って来る:Many go out for wool and come home shorn.

K先輩:本歌作者の伊勢大輔一条天皇中宮彰子のサロンにいた才女で、No.59赤染衛門・No.57紫式部・No.56和泉式部 の後輩にあたり、奈良の都から届けられた八重桜を受け取るという大役を紫式部から譲られました。No.49大中臣能宣「みかきもり」の息子輔親=伊勢大輔父 が伊勢神宮の祭主をしていた関係で、彼女のことを伊勢大輔と呼んだのでしょう。だから彼女は、「昔男ありけり」の伊勢物語とは何の関係もないし、No.19伊勢「難波潟短き葦の節の間も」は150年くらい前の人であってこれも関係ありません。九重(ここのえ)というのは宮中の意。大昔中国の都城は9個の門で囲まれていたことから、九重といえば宮中を指すようになったそうです。九重と八重桜が響き合って美しいハーモニーを奏でています。飛鳥時代以前から大王(おおきみ、天武以降は天皇)の起居する場所を「~のみや」と呼んでいて、500年代前半の第26代継体天皇あたりからその具体的な名前が分かっています。それは大概は奈良盆地に置かれましたが時々時々外へ出ます。たとえば、645大化改新の年が明けた646正月に孝徳天皇=中大兄叔父 が改新の詔(みことのり)を高らかに読み上げたのは難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)でした。また、中大兄母=皇極重祚斉明天皇 が663白村江へ向かう足掛かりとしたのが今の福岡県朝倉郡の朝倉宮でした。朝倉宮といえば300年代後半に第14代仲哀天皇がここで亡くなりました。その死の真相は謎に包まれていてこれだけでも小説が1本書けるでしょう。朝倉宮は仮宮に過ぎませんが、九州にとっては大切な歴史の1ページです。663白村江大敗北の後、中大兄が即位して天智の大王となりましたが、唐・新羅連合軍の侵攻を恐れて近江大津宮に引っ込みました。これに続く天武・持統の時代は飛鳥に戻って浄御原宮(きよみはらのみや)が営まれました。ここまではあくまでも「~のみや」で、一言で言えば「掘っ立て小屋」だったのです。しかし持統天皇が飛鳥の地に696藤原京を築いたのです。日本初の本格的な都城です。「~のみや」という単発の掘っ立て小屋から、「~京」という整備された capital へと転換したのです。この後我が国は710平城京・784長岡京・794平安京 という本格的都城を経て、1869=明治2年 にたまたま東京にあった江戸城跡へ皇族だけが移って行ったのです。大久保利通が維新のどさくさに紛れてほぼ独断でやってのけました。まあとにかく、一般の人は平城京が都の始まりと思い込んでいるようですが、その前の藤原京を忘れてはいけません。文武天皇が701大宝律令を出したのは藤原京で、そこには官立の大きなお寺(薬師寺大官大寺)が建っていました。これらは平城京に移されて新薬師寺・大安寺となりました。飛鳥(奈良県の南方)にあった「~のみや」から平城京(奈良県の北方)へ移ったお寺もあります。それが元興寺(がんごうじ)です。もともと飛鳥で蘇我馬子が建てた我が国初の飛鳥寺法興寺平城京へ移って元興寺となりました。私は最近、京都から近鉄奈良線に乗って奈良市平城京 へ行きました。定番の興福寺東大寺へ詣でたあと、ちょっと南へ歩いて元興寺へ行きました。元興寺はもともと飛鳥の地に500年代から建っていたお寺ですから、その頃に使われていた屋根瓦が今でも使われているのです。ごく一部ではありましたが、色味がちょっと変わっている部分があって「おお、これが1500年前から雨風にさらされている瓦か」と驚きました。150年前でもすごいのに、1500年前の瓦が令和の現在も現役で使われているなんて信じられません。N君も奈良市へ行くことがあったら是非とも元興寺に立ち寄ってみて下さい。興福寺から南へ10分くらい歩きますがそれほど遠くないです。