kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第428回 2022.5/20

百人一首No.6. 中納言家持(やかもち):かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける

七夕伝説の中でカラスが翼を連ねて渡したという天の川の橋、その橋にも似た御階(みはし)に降りている霜の白いのを見ると、ああ夜も更けたなあ、と思う。

N君:歌としては分かり易く、古典特有の難しさはありません。

When I saw white frost on the Palace's corridor, I comfirmed definitely that the night got far advanced.

S先生:まずは全体を過去形ではなく現在形にしましょう。その上で、confirm definitely は硬すぎるのでもっとやわらかく notice くらいに変え、gets far advanced も「いま更けている状態」を表現するために is far advanced にするのが良いでしょう。また white frost には不定冠詞を置きましょう。以上をまとめると、When I see a white frost on the Palace's corridor, I notice that the night is far advanced. となります。Palace's corridor のところがちょっとコテコテしていて気になりますが、、、。

On a bridge the magpies built spreading their wings, I see a white frost.  Oh, how far the night is advanced !

MP氏:How the night deepens.  As lovers part a white ribbon of frost is stretched along the Bridge of Magpie Wings.

N君:MP氏の作文を訳してみると「ああ、夜も更けたなあ。恋人たちの別れに際して、カラスの羽で作った橋に沿って霜の白いリボンが伸びている」となっていて、原文からはかなりかけ離れた作文になっています。それと第1文は感嘆文ですが、How のあとに副詞がないですね。

S先生:感嘆文なのに how のあとに形容詞や副詞がなくて直接 SV につながるということはたまにあります。ここでは far があってもよいですが、なくても分かるので省略してもOKです。作文する時の意訳の件ですが、もしこれが英作文の試験ならN君の作品は立派なものです。しかし、アイルランド人なのに日本の古典を極めたMP氏の意訳にはそれなりの含蓄があると考えられ、おおいに参考にして勉強させてもらいましょう。

K先輩:大伴の家は名門で早くから歴史に現れています。倭の五王が生きた西暦400年代を経過した後、500頃の第25代武烈天皇に跡継ぎがなく、北陸地方から突然第26代継体天皇が即位したのですが、古来この継体朝というのは血筋的に相当怪しいとされています。この継体朝にて権力をふるったのが大伴金村でした。しかし金村は「510頃に百済新羅任那などの朝鮮半島諸国との外交で何らかの失敗をしでかして政界を追われた」ということになっています。一説には賄賂事件 a bribe scandal だったらしい。その後の歴史を追ってみますと、527筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の反乱、538仏教公伝、562伽耶(任那)滅亡、592馬子による崇峻天皇暗殺、607小野妹子遣隋使、630犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)遣唐使、645大化の改新、663白村江の戦い、672壬申の乱、などいろいろあったのですが、大伴の名はほとんど出てきません。700以降になってようやく大伴旅人・家持父子が歌詠みとして万葉集に登場してきます。家持の歌「我が宿のいささむら竹吹く風の 音のかそけきこの夕べかも」はマイホーム賛歌のような風情で私は好きです。家持が活躍した740頃は、聖武天皇がたびたび遷都しています。740平城京 → 恭仁(くに)京 → 難波宮 → 紫香楽(しがらき)宮 → 745平城京 という具合に5年間あちこち動いて結局もとに戻った、という次第でした。私も恭仁京跡と紫香楽宮跡へ行ってみました。恭仁京跡は京都の南、奈良県との境を流れる木津川の北側の山のふもとにある田園地帯にありました。小学校の脇に小さな資料館みたいな建物があり閑散としていました。紫香楽宮跡滋賀県南部の山中にありましたが、ここには資料館すらなくて石碑が立っているだけでした。「夏草や兵どもが夢の跡」といいますが将にそんな感じで、1300年前にほんの一瞬この土地が光を放っのだろうなあ、と思いました。聖武天皇は色々あって悩んでいたのでしょう。ノイローゼだったのかもしれません。自身および光明皇后(藤原四兄弟妹)の健康問題、男児に恵まれず女児ただ一人(孝謙、のち重祚して称徳天皇)だったこと、740藤原広嗣が僧玄昉や吉備真備の栄達に焼きもちを焼いて九州大宰府で兵を挙げたこと、などなど、原因はいろいろあったと思います。741国分寺建立の詔、743大仏造立の詔、をたて続けに出して仏教にすがろうとしたり、743橘諸兄(たちばなのもろえ)発案の墾田永年私財法をあっさり許可して、律令の根幹たる公地公民制に大穴をあけてしまったり。聖武天皇が亡くなったのが749で、東大寺盧舎那仏開眼供養が752であったから、彼はさぞ心残りだったろうなあと思います。静謐さをたたえた本歌もそのような喧噪の中で詠まれたのです。ところで仏教公伝には538と552の二つの説があります。元興寺(飛鳥寺)縁起は538、日本書紀は552と言っています。もしかして、東大寺の752大仏開眼供養が「仏教公伝200周年記念行事」だったとしたらオモロイですよね。百済聖明王から欽明天皇へ経典が渡った仏教公伝が538あるいは552なのですが、「私伝」はもっと早いのです。法隆寺釈迦三尊像を作った鞍作鳥(くらつくりのとり、止利仏師)のおじいさん司馬達人(しばたっと)が522頃から勝手にやっていたらしいです。

527:いつになく怖い顔した磐井さん。

538:百済から仏教公伝御参拝。

562:任那ゴロニャンつぶされた。

592:ごく普通に殺された崇峻天皇

607:群れなす妹子、隋の船。

630:むさ男御田鍬は除名!  舒明天皇が御田鍬を初めて唐へ派遣した。

舒明天皇天智天皇(中大兄皇子)のお父さんであり、したがって皇極天皇(重祚して斉明天皇)の夫です。「舒」という字は「仏様の舌のことで広く伸びやかな様子を表している」と、あるお坊さんから聞いたことがあります。その時はなんとも思わなかったのですが、あとになって「舒明天皇の舒」と気付いてなんとなく納得しました。御田鍬は、もとから隋に渡っていた僧旻と一緒に632頃に帰国し、少し遅れて640頃に南淵請安(みなみぶちしょうあん)・高向玄理(たかむこのくろまろ)も帰国しました。少年時代の中大兄皇子は請安の私塾に通って海外の進んだ情報を得ていたようです。