kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第427回 2022.5/19

百人一首No.5. 猿丸太夫(さるまるだゆう):奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき

人里離れた奥山で、散り敷いた紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時にこそ、ああ秋は悲しいものだなあ、と感じられる。

N君:紅葉を踏み分けたのは作者なのか鹿なのか、という論争が古来あるらしく、ビックリしました。僕なんかは「そりゃ鹿でしょ」と思います。

When I hear deer crying in a deserted and deep forest, treading on the fallen red leaves, I feel that autumn brings me the subtle sense of quiet sadness.

S先生:とても良い流れだったのですが最後のところで the subtle sense of quiet sadness の quiet がいけません。quiet を入れると too explanatory になるので除外しましょう。

In the deep forest I hear deer crying mournfully, treading on the fallen red leaves.  How dreary autumn seems !

N君:morning「朝」に対して mourning「悲嘆」ということを初めて知りました。ところでS先生、最近テレビかなにかで聞いたのですが、日本のおむすびを英語では rice ball と呼ぶそうです。これはあまりに薄っぺらい言い換えだと感じました。

S先生:そうだね。単に米を丸めて塊にしただけではなくて、そこにはお母さんの愛情みたいなものが一緒に結ばれているわけですから、英語ももうすこしその線で考えてみたいものですね。といって非才の私には良い考えが浮かびませんでした。「rice ballではいけない」というN君のその語感を大切にして下さい。

K先輩:猿丸太夫は9世紀初め頃というから800年頃、つまり794平安遷都して間もない頃の人で謎の歌人です。平城京南都六宗は内に籠って学問をやるばかりで民衆の苦しみには何ら答えず、あまつさえ道鏡などは皇位を望んで政界を混乱させました。769宇佐神宮神託事件です。大分県宇佐市宇佐神宮に行くと付属の資料館みたいな施設があって、大きな絵を用いた事件の顛末記が展示されており、無料で見ることができます。和気清麻呂道鏡の野望を打ち砕き、前々回紹介した天智系の光仁天皇が即位してから少し落ち着きました。その息子桓武天皇はこのような平城京の騒がしさ(=坊主が政治に介入してくることの煩わしさ) との決別を意図して、784長岡京へ遷都しました。奈良盆地を出て難波の北東へ移ったのです。ところがここでも、造営司藤原種継暗殺事件やそれに伴う早良親王(さわらしんのう=桓武弟)怪死事件などが相次いで世情落ち着かず、794になってようやく平安京へ移ることができたのです。平安京の南は難波の平野に向かって開けていますが、西・北・東にはそれぞれ山が連なっており、南方へ開いたコの字型の箱に収まっている感じになっています。春と秋は良い所なのですが盆地なので夏暑く冬寒い。細かいことを言うと完全な水平面ではなくて西(右京)が低くて東(左京)が高い。「王は南面す」の原則に従って内裏を北端中央に置くと、どうしても湿気が多いために、次第に、内裏を同じ北端でも東に平行移動させるようになりました。といっても、新たに内裏を作り替えたわけではなくて、水難に遭った天皇が東方にあった嫁はんの実家(藤原氏邸)へ避難していたら、そっちのほうが居心地がよくなってそのまま居ついてしまって、なんとなくそこが御所になってもうた、というような次第です。したがって今の御所に中高生の皆さんが修学旅行でおいでになったとしても、そこはもともとの御所ではなくて、嫁はんの実家だったというわけです。北端の内裏からまっすぐ南へ伸びた朱雀大路の南端に羅生門があるわけですが、羅生門跡へ行くと、現在の御所から見てかなり西にずれているのに気づくでしょう。なんといっても東寺(教王護国寺)の位置がおかしい。この寺は平安時代のはじめの頃に嵯峨天皇空海に与えた修行用の寺でしたが、もともとは羅生門の東にあったのに、いまは御所が東方へ動いたために、今の御所から見てむしろ西のほうに位置しています。山陽新幹線で西から京都へ入ろうとする時に右手に立派な東寺五重塔が見えますが、「東寺なのになんで西にあるん?」と思った人はいませんか。こういう疑問がとても大切です。さて、もともとの内裏は今の二条城の西側一帯にあったわけですが、上述の理由により天皇が東へ移ったために、人の住まない野原になってしまい、タヌキやキツネが跋扈するようになり、百鬼夜行の巣窟と化してしまいました。今でいうところの肝試しスポットのようになりました。ここを内野(うちの、内裏の野原)と呼んで、皆が近づきたくない場所になってしまったのです。平安時代の中頃、西暦では1000年頃に活躍した藤原道長をヨイショした大鏡という本がありますが、この中に若き道長の肝試しの話が出ています。皆がしり込みする中で道長が夜独りで内野に出かけて、そこにある建物の柱に刀の跡を付ける、という話です。政治の中心に躍り出る人というのはやはり剛毅なものですね。これに似た話はほかにもあるのでまたいつかどこかで話す機会もあるでしょう。話が大きく脱線してしまいましたが、猿丸太夫に戻ります。猿丸太夫はどんな身分の人だったのでしょうか。農民ではないでしょう。農民なら収穫の秋を喜びこそすれ「悲しい」なんてカッコつけたようなことは言わないでしょう。秋を寂しいと感じることのできる人は高尚な知識人だと考えられます。するとやはり貴族ということになりますね。平安時代の初期に清原夏野という貴族がいました。天武天皇からみて3~4代あとの人で、律令の条文についての注釈書「令義解(りょうぎのげ)」を書き、いまは京都市北西部にある法金剛院というお寺におまつりされています。こういう人がペンネームとして猿丸太夫という名を使っていた、ということも考えられるのではないでしょうか。いずれにしても猿丸太夫は、弘仁貞観期に都周辺に生きた非生産階級の男、というのが私の予想です。古来猿丸太夫の出自については色々言われているので、私もこの場を借りて個人的な妄想を述べてみました。

藤原京10年 ~ 710平城京 ~ 長岡京10年 ~ 794平安京