kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第449回 2022.6/10

百人一首No.27. 中納言兼輔(かねすけ):みかの原わきて流るる川 いつ見きとてか恋しかるらむ

みかの原を二分するように湧いて出てくるように流れる泉川、その泉川ではないが、いったい何時見たというのでこんなにもあの人のことが恋しいのだろうか。

N君:「泉川」のイヅミと、「いつ見きとてか」のイツミとが、シャレになっていたとは分かりませんでした。「みかの原 分きて流るる泉川」を序詞(じょことば)と呼ぶそうで、この序詞が次の「いつ見」を引っ張り出しているそうです。一種の言葉遊びのようなものでしょう。

The water from the Mika Plateaus becomes the Izumi River.  I wonder when I met her.  Why on earth do I miss her so much ?

S先生:難しい歌を上手に作文していると思います。特に miss 「~がいなくて寂しい」を使うことで「恋しかるらむ」の気持ちを伝えようとしていて好感が持てます。When I met her ? とするよりも I wonder when I met her. とすることで「~かしら?」という感じだよく出ていると思います。N君の作文を読んだ後で作文すると、自分の考えがどんどんN君の方向に引っ張られている気がします。

Why do I miss her so much though I don't remember when I met her by the side of the River Izumi which flows through the Mika Plains ?

N君:S先生の作文によると、作者が彼女に逢ったのは泉川の川岸だったのですね。なるほどこうすると、話がつながりますね。

S先生:序詞を生かすために無理やりこのように作文してみました。by the side of というあまり雅でない句でつなぎましたが、自分としてはやや不満です。

MP氏:When was it I got my first glimpse ?  Like the Moor of Jars divided by the Izumi river, I am split in two ー so deep my longing for you.

N君:the Moor of Jars「広口瓶の荒野」ってどういう意味?

S先生:私にも分かりません。みかの原がちょうど広口瓶みたいな地形だったのでしょうか。MP氏に手紙を書いて質問してみるといいですね。そのことは別にして「自分も二つに割れている」という発想がスゴイ。

N先輩京都府の南、奈良県との境を東から西へゆったりと流れるのが木津川で、昔は泉川と呼ばれていました。その泉川の両サイドは盆地ふうの地形になっていて、奈良平城京の「まほろば」にも似た牧歌的な雰囲気が漂っており、このあたりを「みかのはら」といいます。ここは平安の昔、都で一線を退いた貴族たちの隠棲の場でした。第430回に出てきた宇治も隠棲の地でしたが、宇治は都に近くて1日あれば都へ行ける。しかし「みかのはら」はちょっと遠くて2~3日かかります。ここには海住山寺(かいじゅうせんじ)、浄瑠璃寺のような古いお寺がたくさんあります。そこにある仏像はどれもびっくりするくらいでかい。2014に京都国立博物館で「南山城(みなみやましろ)の仏たち」という特別展がありましたが、まずびっくりしたのは、展示場の入り口にこの中納言兼輔の歌がドドーンと掲示されていたことです。実際の展示では仏像たちの大きさに圧倒されました。兼輔が生きた930頃は末法思想が広まり始める頃でした。釈迦が生まれてはじめの500年間は「正法(しょうほう)の世」で、仏の教えがキチンと行われる世の中なのですが、次の1000年は「像法の世」、さらにその後は「末法の世」で、世の中は滅茶苦茶になると信じられており、それが1052から始まる予定でした。よって皆の関心は「どうやったら極楽浄土へ行けるのか」でした。年老いた貴族たちは「みかの原」に隠棲しつつも、寺々に立派な仏像を寄進して自らを極楽往生させようとしたのでしょう。仏像の大きさは彼らの極楽往生を願う心の現れなのでしょう。このような世情に沿って恵心僧都源信「往生要集」、慶滋保胤(よししげのやすたね)「日本往生極楽記」が書かれたのです。日本一の大天狗と言われた後白河法皇源平合戦の裏で権謀術数を働かせたことで有名ですが、彼の趣味は双六と今様でした。今様というのは流行歌みたいなもので、それを集めた本「梁塵秘抄」を編集するくらい好きでした。若い頃は朝から晩まで歌っていたそうです。1180頃のことです。その梁塵秘抄の中にも極楽往生を願う今様があります。それは「極楽浄土のめでたさは ひとつも虚(あだ)なることぞなき 吹く風立つ波鳥も皆 妙(たえ)なる法(のり)をぞ唱ふなる」という五七調の歌でした。誰も皆この10~11~12世紀の頃は極楽往生を心底望んでいたのです。恵心僧都源信空也が説いて回ったのは結局「現世ではなく来世で幸せになりましょう」という教え、すなわち浄土教でした。市聖(いちのひじり)空也醍醐天皇の御落胤で、梅干しの壺を乗せたリアカーを引いて京の辻々を回り、病人に梅干しを配って歩いたそうです。第433回に出てきた六道珍皇寺のすぐ近くに六波羅蜜寺という赤いお寺があって、ここへ行くと空也像を拝むことができます。その口からは六体の小さな仏が流れ出しています。南・無・阿・弥・陀・仏 というわけです。鎌倉時代の仏師康勝の作ですが、その発想が凄いと思います。この寺には空也像のほかにもう一つ目玉があってそれが「相国入道清盛の像」です。相国(しょうこく)というのは大臣くらいの意味です。頭は禿げ上がり体は老いさらばえて、うっすら見上げたその目は、その昔自分の母親(池禅尼)の説得に負けて命を助け伊豆へ流した頼朝を恨んでいるのでしょうか。国宝とか重要文化財というのはやっぱり迫力が違いますね。ちなみに我が国の国宝第1号は洛西にある広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像です。口元に僅かな微笑を湛えていて、これをアルカイックスマイルというのでしょうか、見ていると引き込まれそうになります。何かのことで心が荒れてしまった時に拝むことをお勧めします。奈良の中宮寺にもまったく同じ仏様がいらっしゃいますが、こちらは幾分大陸風で、和風が好きな方は広隆寺が良いでしょう。私が中宮寺に行った時に案内ボランティアの方に尋ねたところ、「弥勒菩薩半跏思惟像は中宮寺広隆寺ともに飛鳥時代の同時期に作られたが、中宮寺のほうは渡来人主導、広隆寺のほうは和人主導で作られたのでしょう」とおっしゃっていました。どちらも素晴らしいですが、私はどちらかというと広隆寺のほうが好きです。