帚木315・316・317・318・319・320:鶏も鳴きぬ。人々起き出でて「いといぎたなかりける夜かな。御車引き出でよ」など、言ふなり。守も出で来て「女などの御方違(かたたが)えこそ。夜深く急がせ給ふべきかは」など言ふもあり。君は又かやうのついであらむ事もいと難く、さしはへてはいかでか、御文などもかよはむ事のいとわりなきをおぼすに、いと胸いたし。
鶏が鳴いた。源氏の供人どもが起きてきて「あーあ、まったくひどい寝坊をしてしまった。急いで車を引き出せ」などと言っている声が聞こえる。紀伊守も起きてきて「女房衆の方違えならともかく、源氏殿であるから、なにも暗いうちからお帰りになる必要もありませんな」などと言っている。源氏はそうそうこんな機会があるとも思えず、用もないのにわざわざこんな所へやってくるのも難しいし、相手が人妻であってみれば手紙などもそう気安く往来させ難いのも道理だと思うと、グッと胸が痛んだ。
N君:源氏の思いは遂げられないまま夜が明けてしまいました。「寝汚し=いぎたなし」は寝坊の意です。眠っている姿がみっともないことからこのような形容詞が発生したらしいです。伝聞推定「なり」がここでも出ました。
A hen cried to tell the dawn. Genji's subordinates woke up, went out from the eaves and said aloud with each other, "Oh, no ! We got up too late ! Let's hurry to draw out the ox carriage." Kii-no-kami also came and said, "Unlike women, it will be unnecessary for Lord Genji to leave the tentative lodging place according to the 'Katatagae' tradition before the day breaks." Genji thought that he might not have such a good chance to see her any more. But it seemed more difficult to come here again to see her without any special reason. It would be also hard to exchange letters readily with her because she was not single. Worried about these kinds of inconvenience, he felt a pain inwardly.
S先生:だいたい良いのですが、第1文冒頭でつまずきました。hen は雌の鶏なのでここでは普通の鶏 cock の方が良いでしょう。鶏が鳴くのは cry ではなくて crow です。ここからが少しややこしいのですが、カラス crow が鳴くのは caw あるいは croak です。ちなみに cow は牛で cloak は外套です。ホテルなどのクロークは外套をはじめとする上着などを預かるところ。また ox は去勢した雄牛で、牛車をひっぱるのは ox ですね。cow はどちらかというと飼っている雌牛、cattle も同じように畜牛の意になります。bull は雄の牛。いろいろとややこしいですね。第6文ですが、これは紀伊守が源氏に直接呼びかけているとも考えられ、その場合は Lord Genji の部分が、you, Lord Genji となります。
The first cock crowed. Genji's men awoke, saying in a panic, "Oh, no ! We have overslept ourselves. We must draw out the carriage right now." Kii-no-kami, who got up about the same time, came and said, "Since you are not a lady who must avoid taboo, I don't think that you have to leave here in this utter darkness." Genji was displeased. Could he have such a good chance again ? Could he come to see her with nothing to do in particular ? Could he write to another person's wife easily ? His heart was wrung.
N君:先生の第3文で oversleep onself が出ましたが、この動詞 oversleep は他動詞なのですか ?
S先生:他動詞も自動詞もどちらもあるので、この oneself は除外してもOKです。ただし慣用的に oversleep oneself「寝坊する」が好まれていることも事実です。研究社の辞書には Tom overslept (himself) and was late for school.「寝坊して遅刻した」という例文が出ていました。
N君:先生の第6文に出た utter darkness「真っ暗闇」には驚きました。
S先生:utter は動詞として「言葉を発する」の意ですが、形容詞として「全くの、純然たる」のような意味を持っています。そういうわけで utter darkness「まっくら」となります。同じような単語に pitch「球を投げる」があります。この pitch には名詞として「松脂(まつやに)」の意があって、まつやには放っておくと黒くなるので pitch-dark「まっくろな」という形容詞が発生しました。普通の黒ではなくて、正真正銘の真っ黒け というような意味です。また「純然たる」と聞いて今思い出した単語に net「網」があります。net には形容詞として「掛け値なしの、正味の」の意があって、経済新聞などによく a net profit「純益」とか a net price「正価」のような用語が出ています。
N君:先生の第8,9,10文の三つの疑問文はいずれも、源氏の心中を、作者紫式部が源氏に成り代わって吐露しているので、いわゆる描出話法というやつですね。
S先生:その通りです。分かってきたね。