kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第682回 2023.1/28

古文研究法86-2 本居宣長 玉あられ より:まづ「だに」はたとえば俗言に「これはならずともせめてこれなりとも」言ふやうの意、「さへ」は「此の事のある上にまた此の事も添ひ加わる」やうの意、「すら」は「やはり」「猶(なほ)」と言ふに近し。然(しか)るに古今集よりこなたは「すら」の意をも「だに」と言へり。されば「すら」の意を「だに」と言ふはこともなし、「さへ」の意を「だに」と言ふは誤りなり。

まず「だに」はたとえば口語で「これはできなくてもせめてこれだけでも」というような意。「さへ」は「このことがある上にさらにもうひとつのことが添い加わる」といったような意。「すら」は「やはり」「なお」と口語で言うのに近い。ところが古今集以降は「すら」で表すべき意味をも一緒に「だに」と言ってしまっている。だから「すら」の意を「だに」で言い表しても差支えないけれど、「さへ」の意味を「だに」で表すのは誤りです。

N君:「だに」「すら」「さへ」の区別が出来なかった僕に宣長先生が一つの解決策を与えてくれました。【添加の「さへ」だけ区別すれば後はだいたい「だに」でOK】ということだろう、と思います。「こともなし」は「差支えない」「たいした問題ではない」の意味で、この直後に”しかしながら”の意味がにじんでいるので、合わせて「差支えないけれど」と訳します。

First, we use "dani" in colloquial language when we want to say, "No matter how unable we are to do this, I want to do that at least."  Second, "sae" is used when one thing is added to another which has already existed.  Finally, "sura" is like the spoken words of "yahari" or "nao."  However, since The Kokinshu was compiled in 905, people has used "dani" also in the situation where they should use "sura."  Therefore we have no choice but to accept the way "sura" is used in place of "dani."  But it is wrong to use "dani" for "sae."

S先生:全体的な構成はまずまずですが怪しい所があります。第1文の No matter how unable we are to do this「それをやることがどんなにできなさそうでも」は相当違和感があります。No matter how の後に来る形容詞として we are unable to do this の unable を持って来た、という恰好なのですが、これは見たことがありません。さらに従属節の主語が we なのに主節の主語が I になっているのはいただけませんから、揃えましょう。ここは簡潔に Even if I am unable to do this, I want to do that at least. というふうに作文するのがより良いと思います。第4文の since 節に違和感があります。一般に「~以来」という意味の since 節は後置します。たとえば He has moved house five times since he came here.「こっちへ来て以来5回も引っ越しをした」というふうに後置です。また理由「~だから」という意味の since 節は前置します。たとえば Since he says so, it must be true.「あいつがそう言うのだから間違いないよ」というふうに前置です。本文は「古今集以来」と言っているのですから後置すべきであり、However, people has used "dani" (also in the situation) where they should use "sura" since the Kokinshu was compiled in 905. と書くのが良いでしょう。このように後置する「~以来」の場合はカンマで区切られていないことにも注意しましょう。意味がつながっている感じがしますね。反対に前置する「~なので」では意味を一旦区切る感じでカンマを置きます。このあたりのニュアンスにも気付いてほしいところです。さて以下に示した私の作文ではかなり意訳して簡略化していますので、注意して読んでみて下さい。

First, "dani" colloquially means that this should be done even if that cannot.  Second, "sae" means that this ought to be done in addition to that.  And "sura" is similar in its meaning to colloquial words "yahari" and "nao."  But "dani" has been used where "sura" should have since the compilation of "Kokinshu" in 905.  Therefore it is allowed to use "dani" instead of "sura," but it is wrong to try to mean "sae" by "dani."

N君:動詞の反復使用が省略されている所があります。2か所あると思います。

S先生:その通り。第1文末の that cannot は that cannot be done であり、第4文の "sura" should have は "sura" should have been used です。省略部分を補っていく作業というのは文法的にも大切なことです。さて前回と今回は「だに」「すら」「さえ」の区別について本居宣長の解説があったわけですが、私にはいっこうに理解できませんでした。令和の現代でも「一顧だにしない」「子供ですら知っている」「悪意をさえ感じる」という具合に無意識に使い分けているわけで、それにいちいち理屈をつけなくても用例の中で慣れていけば充分だと私は思います。