kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第500回 2022.7/31

百人一首No.78 源兼昌(みなもとのかねまさ):淡路島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜寝覚め須磨の関守(せきもり)

淡路島から通って来る千鳥の鳴く声のために幾夜目を覚ましたことか、須磨の関守は。

N君:「いく夜寝覚めぬ」の「ぬ」が完了なのか打消なのか考えます。もし完了だとすると「終止形ぬ」「連体形ぬる」なので、この句では「完了ぬ終止形ぬ」となり四句切れとなります。「いく夜」というのが疑問詞なので訳としては「幾夜目を覚ましてしまったのだろうか、須磨の関守は」となるでしょう。一方もし打消だとすると「終止形ず」「連体形ぬ」なので、この句では「打消ず連体形ぬ」となって句末の体言を修飾するから四句切れではなく、「幾晩も目が覚めない須磨の関守」という訳になります。打消の訳は明らかに変なので、完了が正解だと思います。

How often did a guard of Suma Barrier wake up hearing the heart-breaking cries of the plovers coming here frequently from  the Awaji Island ?

S先生:作文の構成としてはこれで良いですがまたもや冠詞に問題ありです。文末の the Awaji Island では定冠詞は不要です。たとえば Kyushu Island や the Island of Kyushu はよいのですが the Kyushu Island はいけません。ただし the Bahama Islands はOKです。ややこしいですが少しずつ慣れていきましょう。

Hearing the sad cries of the plovers coming from Awaji Island, how often was a barrier-keeper of Suma awoken at midnight ?

MP氏:Barrier guard of Suma:How many nights have you been wakened by their sad lament ー the keening plovers returning from Awaji ?

S先生:「これまで何度起こされてきたのか」という味を出すには過去形ではなくて現在完了形のほうが良いですね。一般に keen は形容詞「~に熱心で、鋭い」として、たとえば She is keen for him to pass the examination.「彼が合格することを切望している」のような用例に出会うことが多いですが、MP氏の作品に使われた keen は「人の死を嘆き悲しむ」の意の動詞で、その現在分詞形が plovers を修飾する形容詞のように使われているのでしょう。

K先輩:第498回に傾奇者(かぶきもの)の話がちょっと出たので今回はその続きを書いてみます。傾奇者というのは、安土桃山時代終盤から江戸時代初頭のころに流行った「異様な風体をした目立ちたがり屋の男達」とでも申しましょうか。彼らの風体は現在の歌舞伎につながっています。信長・前田利家前田慶次などは若い頃は皆傾奇者でした。現在で言うところの暴走族みたいなものでしょう。リーゼント・鉢巻・学ラン・特攻服・金ぴかラメ、、、などが必須アイテムであるのと同様に、1600頃の若者たちも異様な風体をしてのし歩き、乱暴沙汰を引き起こしていたのです。戦国時代の荒っぽい気性を引き継ぎつつも、世の中が次第に武力統一されてある程度落ち着いてきたからこそ、こういうファッションが流行ったのでしょう。信長・秀吉の時代=戦国の世 が終わりを告げたとは言え、1592文禄の役(壬辰倭乱)、1597慶長の役(丁酉倭乱)、1600関ヶ原、1614大阪冬の陣、1615夏の陣、1637天草四郎時貞の反乱、の頃までは、世の中になお硝煙の残り香が濃厚に漂っており、若者たちはそのエネルギーを乱暴な方向へ昇華しようとしていました。このような気分が傾奇者を出現させたのだと思います。江戸時代に入って大名の国割りなども決まりましたが、ちょっとした違反があるとただちに改易(かいえき、おとりつぶし)ですからたまりません。安芸広島の福島正則などがよい例です。大名が取り潰されれば浪人が発生して世相は険しくなり、傾奇者も出ます。違反がなくても、跡取りがないまま大名が亡くなれば改易同然となり、またまた浪人発生です。大名が亡くなると主だった家臣が腹を切る「殉死」の習慣も残っていて、物騒この上ない世の中です。殉死でなくても、ことあるごとに切腹が行われていて、世相が悪いのです。3代将軍家光が武家諸法度を厳しく運用したせいもあったでしょう。家光は厳しい男で、治世に問題のあった実弟駿河大納言忠長を切腹させています。4代家綱と補佐役保科正之の頃に、忠長切腹の遺恨を晴らそうとした1651由比正雪の乱が起こって、これを鎮圧したころから世相が変わってきました。武断政治から文治政治への転換、ひらたく言えば、厳しい時代から優しい時代へと変わっていったのです。むやみやたらな改易をやめ、末期養子を認めました。大名が死の床で跡継ぎを指名すれば取り潰されなくて済むのが末期養子の制度です。殉死も禁止されました。こうして世の中から浪人が消えていき世相が優しくなると、傾奇者もいなくなったのです。こうなると、将軍の子は将軍、大名の子は大名、家臣の子は家臣、であって、それぞれが生涯かけて安心して主人に仕えていく、という風土が生まれて、昔あったような「下剋上」のような考え方は影を潜めてしまったのです。今回は傾奇者の盛衰についてお話しました。

1592文禄の役、1597慶長の役、を朝鮮の側から順に、壬辰倭乱、丁酉倭乱、と呼んでいます。日本史をやる者として文禄慶長には馴染みが深いのですが、壬辰丁酉には馴染みが薄い。ところがこれがセンター試験日本史Bに出題されたのはやや疑問が残ると私は思います。壬辰丁酉を知らなければ解答できない出題だったのです。出題者は「奇を衒った」のではないでしょうか。