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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第488回 2022.7/19

百人一首No.66 前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん):もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし

私と一緒にお前もしみじみとした思いを持っておくれ、山桜よ。この山中には花(山桜)よりほかに、あはれを共感できる人もいないのだから

N君:山の中で独り厳しい修行を続ける僧が桜の花を見て、ふと人恋しくなったのでしょうか。桜に語り掛けています。

I, a lonely Buddhist monk, feel a strong sympathy with you, wild cherry blossoms.  So I would like you, too, to have a compassion on me, for it is nobody but you who can appreciate my heart.

S先生:やや冗長ですが良く書けています。第2文の too, to は、前に強勢を置いて後は弱く読みます。そのあとの compassion on me の前置詞on は本来 for なのですが、直後の接続詞for と重なってしまう関係で、on で良いでしょう。appreciate はちょっと違う気もしますがまあよいでしょう。

Oh, wild cherry blossoms, I take a deep pity on you !  I pray that you will think of me with the same kind feeling, for it is only you who know my mind.

MP氏:Mountain cherry, let us have compassion for each other.  Of all those I know no one understands me the way your blossoms do.

N君:MP氏の作品第2文が難しいです。おそらく「私の知っている全てのものの中で、山桜くん君の花が私を理解してくれるようには、誰も私を理解してくれない」という意味なのでしょう。これは結局「私のことをわかってくれるのは君だけだ」と言っているのと同じです。

K先輩平安時代の初め、官製エリート最澄は国費留学生として、在野の才人空海は私費留学生として唐に渡りましたが、帰国すると空海のほうがもてはやされたようです。空海は今の和歌山県にある高野山金剛峰寺に入って真言宗(東蜜)を始めたのですが、嵯峨天皇が「都の近くにも修行のための道場が必要だろう」と言って東寺=教王護国寺 を下賜してくれました。現在は東寺に付属する格好で京都府有数の進学校洛南高校が建っています。ここは文武両道の素晴らしい高校です。空海満濃池綜芸種智院を開きましたし、三筆の一人でもありました。最澄へ宛てた手紙=風信帖 が唐風の厳しい筆致を伝えるものとして教科書などにも載っています。比叡山延暦寺に入った最澄天台宗(台蜜)は、はじめは顕教、つまり、学び修行して悟りへ達する普通の仏教、だったのですが、次第に密教化していきました。つまり、加持祈祷を通して秘密の呪法によって仏と交信する、という仏教です。顕教密教ともに厳しい修行の果てに悟りを開こうとするのですが、修行の性質が異なるというわけです。最澄亡き後の天台宗は、円仁の延暦寺山門派と、円珍園城寺(おんじょうじ)寺門派に分かれました。この園城寺三井寺(みいでら)とも呼ばれています。第479回に紹介した京阪電車坂本石山線の真ん中にあるびわ浜大津から、北の坂本方面に向かうとすぐに三井寺の駅があります。三井寺は大きくて立派なお寺です。1571信長が比叡山を焼き討ちした時の信長本陣は三井寺に置かれました。山門派・寺門派に分かれた天台宗ですが、一門の中の優秀な者が天台座主(てんだいざす)として各方面に大きな影響力を持ちました。円仁・円珍天台座主を務めましたし、本歌作者行尊も1100頃、さらにはNo.95慈円も1200頃に天台座主を務めています。慈円の兄は藤原摂関家から分かれた九条家の当主兼実(かねざね)。彼の残した日記「玉葉」には源平合戦~鎌倉政権樹立の頃の記録が多くあり、彼が京における頼朝の良き理解者であったことが伺われます。兼実は、鎌倉幕府成立に対応して公家が取るべき道を見据えていたでしょう。弟慈円も「もはや院政の時代ではない、武士なしでは世の中は成り立たぬ、それが道理だ」と愚管抄に書いて、後鳥羽上皇を諫めたのです。後鳥羽上皇はこの指摘を無視して1221承久の乱へ走ってしまいました。こうして見てくると、天台座主の要職を務めた人々というのは、その時代時代で大切な精神的役割を果たしていたことが分かります。真言宗のほうは空海があまりのも偉大であったため、その後があまり目立たないような気がします。いずれにしても、台密比叡山延暦寺東密高野山金剛峰寺、というように、密教が山の中での修行を重視したので、もともと山中修行をやっていた修験道密教と密接に結びついた、と考えられます。もともと修験道では吉野大峰山・北陸白山・豊前国英彦山での山岳信仰が盛んでしたが、本歌作者の天台座主行尊もこの歌を吉野大峰山の山中で詠んでいます。山中で唯独り何百日も修行するやり方は、もとはと言えば飛鳥時代役小角(えんのおづぬ)が始めた修験道の修行方法で、後の山伏の系譜に繋がっていきます。山伏というのは表向きは修験道の修行者ですが、その後の日本史の長きに渡って各地の有力者を結ぶ連絡係を務めた存在であった、と私は考えております。役小角はその山伏の始祖であり、藤原鎌足に憑りついた悪霊を調伏したとも伝えられています。阿部清明の大先輩という立ち位置ですね。