kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第443回 2022.6/4

百人一首No.21. 素性法師(そせいほうし):今来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな

今すぐに来ようとあの人が言ってきたばっかりに、九月の夜長を待ち続けているうちに、有明の月が出てしまったわねえ。

N君:「有明の月」は「夜明け時になってもまだ空に残っている白い月」のことです。No.18でも学んだようにこの歌は代詠、つまり男性作者が女性の立場で詠んだ歌です。代詠の知識なしにこの歌の意味を想像することは難しいと思います。

Just because he told me to come to meet me soon, I stayed awake on a long September night, waiting for him only to see a morning moon hanging low in the western sky.

S先生:冒頭の Just because はきつい響きなので Since くらいに変えると良いでしょう。あとはだいたいよいと思います。後半に出てくる hanging low の low は副詞ですね。

Believing that he would soon come to see me, I have been waiting for him a long time on a September night.  Oh, a morning moon has already out in the west.

MP氏:Just because you said, 'I'm coming right away,' I waited for you all through the late autumn night, but only the moon came to greet me at the cold light of dawn !

S先生:N君の作文の Just because は響きが強すぎると指摘したばかりなのに、MP氏の作品では Just because が使われていましたね。失礼しました。

N君:MP氏の作品では「私が待っていたのはあなただったのに代わりに有明の月が来た」というとらえ方をしていて、とても新鮮でした。

S先生:行間を読む力こそが、文学者たる所以なのかもしれないですね。

K先輩六歌仙のひとりNo.12僧正遍照=良岑宗貞の息子が、本歌作者のNo.21素性法師=良岑玄利(よしみねのはるとし)です。百人一首にはこのように親子兄弟の取り合わせがたくさんあります。思いつくままにそのようなペアを挙げてみましょう。No.13陽成院の息子がNo.20元良親王。No.16在原行平が兄で、No.17在原業平が弟。これも六歌仙のひとりNo.22文屋康秀の息子がNo.37文屋朝康。No.23大江千里は行平業平の甥にあたり、No.73権中納言大江匡房(まさふさ)の御先祖です。その匡房の曾祖母がNo.59赤染衛門。No.27中納言藤原兼輔の曽孫がNo.57紫式部、そしてその娘がNo.58大弐三位(だいにのさんみ)。No.15光孝天皇の孫がNo.28源宗干(むねゆき)朝臣。No.30壬生忠岑(みぶのただみね)の息子がNo.41壬生忠見。No.33紀友則とNo.35紀貫之は従兄弟どうしです。No.36清原深養父(ふかやぶ)の孫がNo.42清原元輔で、その娘がNo.62清少納言です。左大臣時平の息子No.43権中納言藤原敦忠から見てNo.26貞信公=忠平は叔父にあたります。No.25三条右大臣定方の息子がNo.44中納言朝忠。No.49大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の孫娘がNo.61伊勢大輔(いせのたいふ)。この人はNo.19伊勢とは別人なので注意。No.45謙徳公伊尹(これまさ)の息子がNo.50藤原義孝。ちなみにその息子は三蹟の一人行成で、この行成とNo.51藤原実方(さねかた)は清少納言の数少ない男友達です。藤原兼家の第二夫人がNo.53右大将道綱母で、兼家の息子道隆の妻がNo.54儀同三司母なので、一応両者は姑と嫁の関係にあるのですが、右大将道綱母は夫兼家の浮気調査=蜻蛉日記のほうに忙しくて、儀同三司母とゆっくり話す暇もなかったでしょうね。道長との出世争いに敗れたのが儀同三司(ぎどうさんし)=伊周(これちか)で、その息子がNo.63左京大夫道雅。No.56和泉式部の娘がNo.60小式部内侍(こしきぶのないし)。その小式部内侍をからかって痛い目に遭ったNo.64権中納言藤原定頼の父は、名古曾(なこそ)の滝で有名なNo.55大納言公任(きんとう)。公任と同じく「三事(和歌・管弦・漢詩)兼ねたる人」として有名なNo.71大納言経信の息子がNo.74源俊頼で、その息子がNo.85俊恵法師。俊恵法師は鴨長明に和歌を教えました。No.76関白忠通(ただみち)の息子が、天台座主(ざす)で「愚管抄」著者のNo.95慈円慈円の兄九条兼実は京都における頼朝の協力者でした。ちなみに忠通は1156保元の乱の勝者であり、父忠実や弟頼長と対立しました。兄弟というものはよく対立するものです。No.83俊成の息子がNo.97定家です。和歌において、俊成は「幽玄」、定家は「艶・有心」の境地に達したと言われています。その定家の義弟がNo.96藤原公経(きんつね)です。ほかにも繋がりがあると思いますが、ザッと見ただけでもこれだけの関係性があり、一流の人々というのはどこかでつながっているものだなあ、と感じます。このようなことは案外現代にも当てはまるのではないでしょうか。

1156保元の乱:兄弟(崇徳と後白河)は喧嘩してもいい頃。

1159平治の乱:ピンピン御苦労平治の乱。(平家No.1 =清盛 vs 義朝=源氏o.1)