kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第431回 2022.5/23

百人一首No.9. 小野小町:花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに

花の色は虚しく色褪せてしまったなあ、春の長雨が降っていた間に。私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ、生きることや恋することの物思いをしていた間に。

N君:いよいよ小野小町の有名な歌が登場しましたね。本歌は掛詞(かけことば)をマスターするためにはもってこいの歌です。「降る長雨」および「経る眺め」です。「降る長雨」のほうは読んでそのままの内容ですから問題ありませんが、「経る眺め」のほうが問題です。とくに「ながめる」が問題となります。古語辞典を引くと「ながめる」には三種類あります。第1は「詠める(ながめる)」で、これは「声を出して謡う」の意であり本歌には関係ありません。第2は「眺める」で文字通り「遠くからじっと見る」の意であり、これも本歌とは少し違います。第3は同じく「眺める」ですが意味はもう少し深くて「じっと物思いに耽る」の意。これこそが本歌の意味でしょう。長い人生を経て、いろいろと思うところがあり、しとしと降る長雨を見ながら、じっと物思いに耽っているのでしょう。女性でしかも若いころは美人の誉れ高かった小町さんが老境に差し掛かった今、何を思うのでしょうか。それは男子高校生の僕には想像すらつきませんが、きっと深い悲しみをたたえた感慨があると思います。

Flower's vivid color is lost in a long spring rain.  My figure has also withered away, while I am worried about the affairs of my life.

S先生:上出来です。第2文前半部の withered away は、単に withered でも意味は通じますが away を加えたことでより一層「衰えてしまった」という感じがにじみ出ていますね。同じく第2文の後半では、am worried about ~ も worry about ~ もほとんど意味は同じで、am worried about の worried はほとんど形容詞化していると考えてよいでしょう。現在の英語ではこのタイプの過去分詞はほとんどが much よりも very によって強調されるので、過去分詞が形容詞化していることの証拠といえます。最後のところに affair をもってきたのは面白い趣向でした。単に「ゴタゴタ」というよりも「色恋沙汰のあれこれ」といった感じがよく出ています。

The hue of flowers is all gone in a long spring rain.  My figure has also been lost while I am in deep thought of my life.

MP氏:A life in vain.  My looks, talents faded like these cherry blossoms pailing in the endress rains that I gaze out upon, alone.

N君:第1文で短く「人生なんて虚ろなものよ」と言い切っているところが凄い。

S先生:第2文も締まっていて見事ですね。惚れ惚れします。

K先輩小野小町は850頃の人で物凄い美人だったらしい。京都駅から見て南東の方角に小野という土地があって、ここに随心院というお寺があります。宮中を退いた小野小町が30歳くらいから余生を送ったお寺と言われています。彼女に求愛する深草少将が100回も通ってきて、ついに思いを果たすことなくこと切れてしまったという話が伝わっています。小町が化粧に使った井戸やら、小町が受け取った幾千の恋文を納めたと伝わる文塚があって、派手さはないがゆっくり楽しめるお寺です。近くに勧修寺(かじゅうじ)という古いお寺もあるので、晴れた日にゆっくり散歩するのが良いでしょう。「山懐に抱かれた落ち着いた場所」です。東西線小野駅すぐそばに若狭湾活魚料理「大将」というお店があり昼前からやってます。私は海鮮丼をいただきました。1000円ちょっとで大満足でした。さて、美人といえば1000頃では紫式部和泉式部です。残念ながら清少納言は美人ではなかったようです。無名草子(むみょうぞうし、著者は藤原俊成女か? 1200頃の作品、無名抄は鴨長明なので混同せぬよう)によると、「つぎはぎだらけの粗末な服を着て菜っ葉を干していた」とか、古事談によると「壊れかけた家の簾越しに外をチラリと覗いた清少は鬼の形相をした女法師だった」などと書かれており、清少納言の晩年は散々です。さて小野小町ですが、この人は謎の女流歌人で細かいことは分かっていませんが、平安時代のはじめ仁明(にんみょう)天皇の時代に宮中にいたのだろう、と言われています。850頃のことですね。もしそうだとしたら、藤原良房の他氏排斥運動を目の当たりにしていたはず。842承和の変では伴健岑橘逸勢(たちばなのはやなり、三蹟のひとり)が追い落とされました。858清和天皇が9歳で即位した時に、良房は皇族以外では初の摂政になりました。866応天門の変では伴善男と紀豊城を配流しました。大伴家の血筋を引く善男が大納言の地位まで登ってきたのが気に入らなかったのかもしれません。良房は応天門炎上事件を善男のせいにしました。この顛末が国宝伴大納言絵巻に残されています。良房の息子基経も凄い。884光孝天皇が50過ぎに即位するにあたって関白に就任しました。天皇が子供なら補佐役は摂政だが、天皇が大人なら補佐役は関白、つまり「関り臼す(あづかりもうす)」というわけです。887光孝天皇が亡くなって宇多天皇が即位した時に事件が起こりました。宇多天皇の施政方針に基経が抗議して参内せず、皆困り果てたのです。宇多天皇が折れ、基経がやってきて、施政方針を起草した橘広相を処分したのですが、これは誰が見ても基経の横車です。この事件を888阿衡の紛議と呼んでいます。阿衡(あこう)というのは中国語で大臣のような意味です。基経大臣の横車事件ということですね。宇多天皇は顔には出さずとも心の中で「この野郎、いい気になりやがって」と思ったでしょうね。意趣返しとして、一介の漢学者を右大臣に取り立てました。菅原道真(すがわらのみちざね)です。

842:逸勢はん、はよ逃げなはれ。