kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第453回 2022.6/14

百人一首No.31. 坂上是則(さかのうえのこれのり):朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪

夜がほのかに明るくなり、有明の月かと思うくらいに、吉野の里に白々と降っている雪だなあ。

N君:本歌作者是則さんの5代前の御先祖が有名な坂上田村麻呂だそうです。

I have mistaken the white snow pilling up on the village of Yoshino for the dim light of the moon hanging in the western sky at dawn.

S先生:mistake A for B「AをBと見誤る」を使って上手に作文できています。Aが正しいものでBが間違ったもの、というのがこんがらがって分かり難い面もあるので、私の作文ではもうちょっと簡潔にしてみました。

The snow pilling up on the village of Yoshino is so white that it looks like an early moon at daybreak.

MP氏:The first light over Yoshino village ー The snow has piled so deep, so white I cannot tell it from the dawn's pale moonlight.

N君:もしかしたら so white の後に that が省略されていますか?

S先生:そうでしょうね。

K先輩:今回はN君から話の出た坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)から話を起こします。724多賀城が築かれて以降なかなか進展のなかった陸奥国の制圧でしたが、征夷大将軍坂上田村麻呂は802胆沢城(いさわじょう)を築いて多賀城鎮守府をここに移し、北上川を北へのぼっていったのです。田村麻呂のお墓は山科(やましな)にあります。京の五条通りをどんどん東へ行くと、清水寺のある東山を貫くトンネルがあって、これを抜けると小さな盆地に出ます。国道1号線です。京自体が盆地ですが、山科はその東隣りの小さな盆地ですね。この山科盆地の南方に田村麻呂の墓所があります。嵯峨天皇の命令によって田村麻呂の死骸には甲冑がつけられたまま立った姿で東方を向けて埋められたそうです。死してなお東国への備えとされたのですね。田村麻呂も本望だったでしょう。近くには第431回に登場した小野小町随心院や、秀吉が死ぬ前に花見に行った醍醐の山があります。桜の名所醍醐寺五重塔は奈良興福寺や東寺(教王護国寺)に比べて「古い!」という感じがします。その古さがいい味を出していて私は好きです。またこの近くには1703.12/15吉良邸に討ち入った赤穂四十七士を指揮した大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が幕府の目を欺くために放蕩したと伝えられる邸宅跡があります。内蔵助はこんな田舎から京の町まで遊びに行っていたのですね。醍醐寺を別にすると、山科には京に比べてあまり大きな神社仏閣はありません。しかしさすがに京に近いだけあって寺社にまつわる逸話は多いようです。私は友人から次のような話を聞いたことがあります。1536天文法華の乱の頃の話です。No more rule の中世戦国時代に、京の町を舞台にして法華宗日蓮宗 vs 一向宗浄土真宗 とが大戦争を繰り広げて京の町が半分くらい焼けました。元々日蓮宗というのは思い込みが激しくてスタンドプレーに走る傾向があります。宗祖日蓮がやや独りよがりの立正安国論を著して8代執権時宗から迫害されたり、日親は室町6代将軍義教から拷問を受けて「鍋かむり日親」と呼ばれたりしました。おまけに不受不施派などと称してお布施をもらわずエエカッコをします。1637島原の乱の後に江戸幕府キリスト教を禁じたことは皆さんよく御存知でしょうが、日蓮宗不受不施派も同時に禁じられたことを知ってますか? 体制側から見た時に日蓮宗とはそれほどに鼻持ちならぬ宗派なのです。よく言えば純粋なんでしょうね。こんな日蓮宗と、一般的な浄土真宗あるいはもっと古い密教(たとえば天台宗延暦寺)とが、仲良くやれるはずもありません。宗教団体どうしが殺し合うのだから全くアホだね。今でもイスラム圏では同様の諍いが頻発しているし、宗教とはいったい何なんだろうね。さてこの天文法華の乱では山科でも日蓮宗の寺が焼かれたり破却されたりしました。その時誰言うともなく「この寺の坊主は銭を壺に貯めこんで寺の下の土の中に埋めていたらしいぞ」という噂が流れました。皆は我先に土を掘り大きな穴ができました。もちろん壺など出て来ず、土砂が崩れて穴の中にいた人が生き埋めになってしまいました。皆で必死に掘り出したが時すでに遅く、死人が出てしまった、、、そういう話が、ここ山科の寺に伝わる古文書に書かれていたそうです。田村麻呂~山科~天文法華の乱 と来て、たどり着いた結論は「人間、噂に乗せられて欲をかいてはいけない」という至極まっとうな教えでした。

1536天文法華の乱:イチゴサロンでホッケを注文、そりゃもめるはず。

1637島原の乱:広さ7へーべー時貞の部屋

1703吉良邸討ち入り:居直れみんな四十七士