kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第430回 2022.5/22

百人一首No.8. 喜撰法師(きせんほうし):わが庵(いほ)は都の辰巳(たつみ)しかぞ住む 世をうじ山と人はいふなり

私の庵は都の東南にあってこのようにのどかに暮らしている。だのに、私がこの世を辛いと思って逃れ住んでいる宇治山だと、世間の人は言っているようだ。

N君:辰巳=東南 とのことですが、十二支が時刻や方角に関係しているようなので本歌をきっかけとしてこの場でまとめておきたいと思います。

0   1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11   12   13   14   15   16   17   18   19   20   21   22  23

子      丑      寅      卯       辰       巳          午           未          申          酉    戌           亥

ね     うし とら  う     たつ      み   うま  ひつじ     さる       とり  いぬ    い

北       東          南                                       西

出発点の子(ねずみ)は北で0時。卯はウサギで、卯の花は春で温かいイメージだから東で朝。芭蕉と供に旅をした曾良も「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」という春の一句を残しています。午はうまで、午前と午後を分ける正午だから太陽は南中している。酉は字が似ている西で、西日がさすのは夕刻です。上の表から見ると辰巳は東南になります。巳(み)は蛇の意。已は「すでに」の意。すでに確定した状態を已然形といって、いまだ定まらぬ未然形とは区別します。己は「おのれ」の意。巳・已・己 の違いに気をつけなければなりません。

I have secluded myself in a calm hermitage in the southeast from the capital.  People say that I have fled from there to this suburb, for I am pessimistic about life.

S先生:全体的に良い出来ですが from は of にしたほうが格調高い気がします。

Though leading tranquil days at a cot in the southeast of the capital, people say, I am living there melancholilly, escaping from the noisy society.

N君:分子構文に接続詞をくっつけるのはどのような場合ですか?

S先生:分子構文の意味をはっきりさせたい場合です。

N君:先生の作文で、分子構文の主語と主節主語が不一致です。

S先生:分子構文のかくれている主語は I です。それなのに主節主語は people で確かに不一致です。私はそれを隠そうとして、people say that I am ~ とせずに、あえてpeople say をカンマで囲んでみました。許されるのかどうかわかりませんが、まあ大丈夫でしょう。

N君:live はもともと状態動詞なので進行形にはしないと思います。

S先生:確かにおっしゃる通りですが、強調のために進行形にすることがあり、その場合には am に強勢が置かれます。

MP氏:My dwelling is a hut in the southeast of the capital.  People talk of me as the one who fled the sorrows of the world only to end up on the Hill of Sorrow.

S先生:MP氏の作品では、know of +人 と同じような感じで talk of +人 を使っていますね。また、only to do という徒労感のある結果の不定詞を使って「悲しみから逃げて結局憂いの丘に来てしまった」というふうに仕上げています。本当にお見事ですね。勉強になります。

K先輩:本歌の「しかぞ住む」の「しか」は鹿ではありません。「かくかくしかじか」の「しか」です。名詞ではなくて副詞なのです。こういう例はほかにもあります。徒然草の第何段だったか忘れましたが「つゆ訪(おとな)ふ人もなくて」という一節がありました。この「つゆ」は露ではありません。「そんなことはつゆ知らず」の「つゆ」です。この副詞「つゆ」は「ず」という否定語と呼び合っています。こういうのを「副詞の呼応」と呼んでいます。「うじ」は「宇治」と「憂し」を掛けた掛詞(かけことば)というやつで、一種のシャレです。短いフレーズの中に複数の意味を持たせて歌の意味を重層的に響かせようとしているわけです。京の都から見て東南約15kmの位置にある宇治は、政治の一線を退いた貴族たちの隠棲の地でしたが、結構近いので、何か用事があれば牛車に乗って1日で都へ入れます。近くて便利な隠棲地です。風光明媚ですし、なんといっても夏が涼しい。蒸し風呂のような京都市とは違います。私はつい最近、宇治橋の両サイドにある平等院鳳凰堂源氏物語ミュージアムに行ってきたのですが、とても良い所で、年をとったらこういうところで過ごしたいなあ、と思いました。宇治橋のたもとに函館市場という名の回転寿司屋さんがあっておすすめですよ。「いふなり」は、終止形+伝聞推定なり であって、N君が前回詳しく調べましたね。さて905紀貫之古今集を編集するより少し前、歌詠みの上手が6人いました。喜撰法師小野小町在原業平文屋康秀僧正遍照大伴黒主 の6人を六歌仙と呼んでいます。貫之は古今集の前文とも言うべき「仮名序」の中で六歌仙の歌にダメ出しをしています。一見、6人をけなしているように見えるのですがそうではなく、「この6人以外はコメントする価値もない」という趣旨のようです。貫之が仮名序の中で批評したからこそ、後世の人々がこの6人を「六歌仙」と呼ぶようになったのです。