kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第432回 2022.5/24

百人一首No.10. 蝉丸(せみまる):これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

これがあの、これから旅立つ人も帰る人も、知っている人も知らない人も、別れてはまた逢うという、逢坂の関なのです。

N君:和訳を読んで初めて気付いたのですが、行く・帰る・知る・知らぬ は全て連体形で「人」が隠れていたのですね。これと同じようなことを源氏物語桐壺の冒頭部分でも経験しました。「いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり」の「時めき給ふ」が連体形で、あとに「人」とか「女性」とかが隠れていたのです。古文ではこういうことが時々あるので、意味が分からない時には一応疑ってみる必要があると思いました。

This is the very customs of Ohsaka, where people setting out for a journey or coming back home, and people knowing or not knowing each other, meet again by chance after they have parted.

S先生:customs「税関」は少し現代的過ぎるので barrier くらいにしましょう。know が出たのでここで know, know of, know about について考えておきましょう。know は「直接知っている」という意味で、I know him very well.「よく知ってます」のように使います。know of は「~のことを聞いて知っている」という感じで、I know of him.「うわさで聞いてます」のように使います。know about は「詳しい知識を持っている」という意味で、I know about English.「英語の文法知識がある」のような意味になります。each other のところは one another でもよいでしょう。

Oh, this is the barrier called 'Ohsaka,' where those leaving or coming home, and those knowing or not knowing one another, meet again after parting !

N君:作文とは関係ないのですが、最近見た英語で僕が違和感を持ったフレーズがあったので質問します。それは海外の恵まれない子供を支援しようとするNGOかなにかの広告でした。You are not only one !  We are ready to support you. とデカデカと書いてありました。この第1文が酷いと思います。「君は独りじゃない」と言いたいのでしょうが、このままだと「君はかけがいのない人じゃない、どうでもいい人だ」となってしまうと思います。

S先生:全く酷い和製英語ですね。You are not alone !  と書くべきでした。私も最近気になっている和製英単語があります。それは heartful です。看板にデカデカと「heartful 動物病院」と書かれているのを見て眩暈がしました。新聞の折り込みちらしなんかにも結構この和製英単語をみかけます。heartful という英単語は存在しません。これを言うなら warm とか warm-hearted とかになるでしょう。

MP氏:So this is the place !  The crowds, coming going meeting parting ; friends strangers, known unknown ー The Osaka Barrier.

N君:現在分詞や名詞の羅列で歌の雰囲気を出そうとしているのでしょうか。セミコロンの意味はなんとなく分かります。「すなはち」くらいの意味でしょう。カンマがあったりなかったりするところの意味が僕にはまだ分かりません。

K先輩山城国=山背国=京都 から 滋賀=近江国 へ越えていく境に逢坂の関があり、往来の収束点で「出会いと別れの地」でした。もうちょっと東へ行って滋賀と岐阜の境には不破の関がありました。今の関ケ原の付近です。地名を聞いただけであるイメージが湧いてくるような土地を歌枕と呼んでいます。逢坂の関も歌枕の一つで百人一首No.25 や No.62 にも登場します。他にも、須磨「わびしい流刑の地」→No.78、末の松山「恋人の心変わりを示唆する地」→No.42 などいろいろあります。歌枕といえば能因法師(No.69)です。歌枕研究で有名であり著書に「能因歌枕」があります。蝉丸は850頃の人で、喜撰法師小野小町と同年代でしょうが宮中に出仕するような貴族ではなく「盲目の琵琶の名手」と言われているようです。出自などは全く不明で謎の人物です。盲目の琵琶法師と言えば1180~1185源平合戦の頃の耳なし芳一を思い出しますが、蝉丸はそれより300年以上も前の人です。琵琶と言えば天平期740頃にシルクロードを渡ってペルシアから日本にもたらされた「螺鈿紫檀(らでんしたん)五弦の琵琶」があります。この琵琶にはラクダの絵が描かれており聖武天皇も弾いてみたでしょうね。749に聖武天皇が亡くなった後、彼の遺品を光明皇后東大寺正倉院に収めておいてくてたおかげで、現代まで伝えられていることは誠に喜ばしい。正倉院は校倉(あぜくら)造りになっていて風通しがよいのが良かった。正倉院には鳥毛立女の屏風もあります。別名は樹下美人図で、教科書には必ず出ています。この天平期の鳥毛立女にしても、少し前の白鳳期の高松塚古墳壁画に描かれた女性たちにしても、この頃の美人は皆「しもぶくれのおたふく」です。こういう顔が昔の美人顔だったのでしょうね。そう言えば縄文時代遮光器型土偶も同じような顔形をしています。さてこの光明皇后ですが、この人は子供の頃から光り輝くような美しさを持っていて、平城京の市場などでも評判だったということです。藤原四兄弟の妹であり家柄的にも文句のつけようがありません。臣下の身分から日本初の皇后となりました。孤児・貧民・病人を救済するために悲田院・施薬院を設けて慈善事業を行いました。第429回で紹介したように和気清麻呂姉=広虫法均尼 もその事業を手伝いました。ダイアナ妃やオードリーヘプバーンや黒柳徹子さんがユニセフに協力したのと同じです。孝謙重祚した称徳天皇も764恵美押勝の乱平定後に百万塔陀羅尼を法隆寺に納めています。陀羅尼で思い出しましたが、吉野熊野の山中に行くと今でも陀羅尼助(だらにすけ)という名の腹薬(薬草を煎じて作った丸薬)が売られています。山中で修行する山伏が一番恐れるのが食あたりなので、山伏は必ず陀羅尼助を携行しているそうです。話を戻しまして、男性の慈善事業家といえば、天平期の行基末法思想期の空也、鎌倉期の忍性(にんしょう、北山十八間戸)の三人が浮かびます。この三人について調べておくと、必ず試験の時に役に立つと思いますよ。最近の日本史の試験を見ていると「何らかのテーマに沿った出題」がよく見られます。たとえば「明治以降我が国で出された戒厳令」に関する作問などは出題者が飛びつきそうなテーマです。戒厳令curfew というのは権力者サイドから言えば「民衆の暴動に対して警察のみならず軍隊を投入して鎮圧すること」という定義ですが、暴動とは無関係な一般市民にとっては「単に夜間外出を禁止されるだけの制度」ということになります。どんな時に民衆が暴動を起こすか、といえばそれはもう決まってます。「税金高いぞ! 米よこせ! あの政治家の野郎! この条約クソやんか!」みたいなことです。21世紀の成熟した日本では考えられないことですが、途上国では今でもよく見られます。日本がまだ未成熟であった明治大正昭和の時代には時々見られました。思いつくままに挙げてみましょう。(1)1884=明治17年自由民権運動激化事件最大の秩父事件で困民党が松方正義大蔵卿のデフレ政策に反抗して動乱を起こし憲兵隊が出動した。(2)1905=明治38年日露戦争の講和を図った小村寿太郎外相のポーツマス条約の内容に不満を募らせ日比谷公園に集まった群衆が暴徒化した日比谷事件に対して軍隊が出動した。(3)1918=大正7年:第1次世界大戦後のシベリア出兵と同期した米価高騰に対する動乱が富山県の漁村から発生し全国に飛び火して軍隊が出動した。(4)1923=大正12年関東大震災の混乱のなか「朝鮮人が放火強盗を働いている」との流言飛語に反応した民衆の暴徒化に対して治安を維持するために軍隊が出動した。(5)1936=昭和11年:陸軍内の派閥抗争がクーデター化した二二六事件に対して軍隊が出動して鎮圧した。

1884=明治17年 秩父事件:困民党、一派野次馬大集合

1905=明治38年 日比谷事件:日暮れ後の日比谷公園足つった 

              足つった=こむら返り=小村寿太郎

1918=大正7年 米騒動:寺内さん、行くのはイヤよ富山には 寺内さん=寺内正毅首相

1923=大正12年 関東大震災:関東で、十九の兄さん揺れてます

1931=昭和6年 満州事変:いくさ一発柳条湖

1932=昭和7年 五一五事件:いくさになるぞ五一五

1936=昭和11年 二二六事件:ピンクサロンは二二六

1937=昭和12年 支那事変:一休さん7回転んだ盧溝橋