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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第459回 2022.6/20

百人一首No.37. 文屋朝康(ふんやのあさやす):白露に風の吹き頻(し)く秋の野は 貫き止め玉ぞ散りける

白露に風がしきりに吹き付ける秋の野は、緒で貫き止めていない玉が散り乱れているようであったなあ。

N君:第458回で出てきた「打消助動詞ず連体形ぬ」がここにも出ました。「完了助動詞ぬ終止形ぬ」との異同が問題になるところです。しかし「完了助動詞ぬ」の連体形は「ぬる」ですから、本歌で使われた「ぬ」は「完了ではなくて打消」という結論に至ります。助動詞活用表とにらめっこしながら確認しました。

The wind is blowing continually on white dewdrops in an autumn field.  They have scattered away as if the string of pearls were cut off.

S先生:an autumn field だと「どこかにある秋の野原」の意となってしまいます。ここでは、今自分が立っている野原ですから定冠詞にしましょう。作文全体としてはよく書けていると思います。玉を pearl と解釈したのは良かったね。

In the autumn field the wind is blowing incessantly on white drops of dew, which have scattered away like unstinged pearls.

MP氏:When the wind gusts over the autumn fields the glistening white dewdrops lie strewn about like scattered pearls.

N君:glisten「ピカピカ光る」、strew-strewed-strewn「ばらまく」。lie strewn about はほぼ are strewn around と同じだと考えられます。「そこらじゅうにばらまかれた状態で」の意でしょう。

S先生百人一首シリーズに入ってからはK先輩の歴史放談が主体となっていますので、このあたりで英語脳を取り戻しましょう。「日本のことわざを英語ではどう言うのか」という問題をやってみましょう。

(1) 鬼のいぬ間の洗濯=猫がいないと鼠が遊ぶ:While the cat is away, the mice will play.

(2) 二度あることは三度=不幸は重なる=降れば土砂降り:It never rains but it pours.

(3) 能ある鷹は爪を隠す=深慮の人はもの静か=静かな川は深い:Still waters run deep.

(4) 驕る平家は久しからず=堕落する前に自惚れあり:Pride goes before a fall.

(5) 弘法筆を選ばず=良い職人は道具に文句を言わない:Good workmen never quarrel with their tools.

(6) 実るほど頭を垂れる稲穂かな=実をたくさんつけた枝は垂れ下がる:The boughs that bear most hang low.

(7) 羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く=やけどを負った子供は火を恐れる:A burnt child dreads the fire.

(8) 船頭多くして舟山に登る=料理人が多過ぎるとスープがダメになる:Too many cooks spoil the broth.

(9) 虎穴に入らずんば虎子を得ず=何事も挑戦しなければ何も得られない:Nothing ventured, nothing gained.

(10) 地獄の沙汰も金次第=金があればしぶとい雌馬でも行かせることができる:Money makes the mare (to) go.

N君:(10)の mare を僕は nightmare「悪夢≒地獄」と考えて「金があれば地獄をどかせることができる」と思っていたら、mare「雌馬」を知ってびっくりしました。

S先生:ことわざ proberb の勉強は「日英の文化比較」という意味で面白い、という一面がありますが、「英語の締まった表現に触れる」という一面もあり、非常に有益です。あと10個の例を示しておくので声に出して読んでみて下さい。

(11) 隴(りゅう)を得て蜀を望む=軒を貸して母屋をとられる=あいつに1インチあげたらそのうち1エル(45インチ)もっていくだろう:Give him an inch, and he will take an ell.

N君:エルって何ですか?

S先生:布地の長さの単位をエルと言います。

(12) 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い:ピーターが嫌いな人はピーターの犬を傷つける:He who hates Peter harms his dog.

N君:なんで Peter なんですか?

S先生:Peter は日本語の「太郎」にあたります。

(13) 禍福は糾える縄の如し=神と悪魔は隣どうし:God and evil are next-door neibors.

(14) 甲の損は乙の得=誰の得にもならない風は吹かない=もし誰のためにもならないような風があるとしたらそれは悪い風だ:It is an all ill wind that blows nobody good.

(15) 紺屋の白袴=鍛冶屋の馬と靴屋の嫁はんが裸足で歩く:The blacksmith's horse and the shoemaker's wife go barefoot.

(16) 虎口をのがれて龍穴に入る=フライパンを出て炎に飛び込む:Out of the frying pan into the fire.

(17) 喉元過ぎれば熱さを忘れる=危険が去ると神のことは忘れ去られる:Danger past, God forgotten.

N君:be動詞が省略されて過去分詞が残っているパターンが多いことに気づきました。(17)では Danger is past, God is forgotten. ですね。

S先生:そうですね。それと第2文型SVC と 第5文型SVOC が多い気がします。この文型だと文章全体が締まった感じになるからだと思います。

(18) 朱に交われば赤くなる=狼と仲良くしている人はいづれ吠えるようになる:Who keeps company with a wolf will learn to howl.

(19) 過保護は人の命取り=構いすぎると元気な猫も死んでしまう:Care killed a cat.

N君:何故 killed なのか? kills が正しいと思います。

S先生:その通り。私も同じ疑問をもっていますがいまだ解けておりません。

(20) 後の祭り=終わってから気付く=事前に賢い奴はいない=誰しも何か事があると賢くなる:Everybody is wise after the event.

N君:この企画は「日英の考え方を比較する」という意味でとても面白かったです。特に (15)「鍛冶屋の馬と靴屋の嫁が裸足で歩く」が僕のお気に入りとなりました。

K先輩:本歌作者朝康の父は No.22 康秀「むべ山風を嵐といふらむ」であり、父子ともに秋・野・風をテーマにしているところが面白いですね。おそらく六歌仙に入った父康秀を尊敬する朝康が、父の歌にリンクさせてこの歌を作ったのでしょう。さて第444回で触れた「康秀が小野小町を旅に誘った話」や、第439回で触れた「業平が東国へ出奔した話」というのは、少し時代が下がるともはや公然の有名話となっていて、いろいろな著作物に顔を出します。1274文永・1281弘安の元寇の頃に書かれた阿仏尼(あふつに)の十六夜日記(いざよいにっき)にも「さりとて、文屋の康秀が誘ふにもあらず、住むべき国求むるにもあらず、、、」という記述があります。「歳を取った女の身で京からわざわざ鎌倉まで行くその理由は、文屋康秀小野小町を誘ったような色恋沙汰の旅ではないし、在原業平が東国へ下ったような哲学的な旅でもない、歌学の本流藤原定家の息子為家の後妻に入った自分が、為家の死後、実子為相と先妻の子為氏との間に起こった領地争いに関して、鎌倉幕府に訴訟を受け付けてもらうためです」というわけです。今も昔も領地の争いごとは絶えないんですね。歌学の家系ですから「こっちが本家だ」とか「イヤこっちが元祖やん」という争い事も絶えなかったでしょう。阿仏尼は訴訟suit を目的として京から鎌倉まで旅をして紀行文「十六夜日記」を著した、というわけです。阿仏尼が訴訟を訴え出た機関は引付衆であったと思われます。開幕の頃は頼朝が京から三善康信(みよしやすのぶ)を連れてきて問注所初代長官に抜擢して争いごとの調停をさせていたわけですが、13世紀中頃の3代執権泰時の頃に評定衆が置かれ、さらに5代時頼の頃に引付衆が置かれて、裁判の迅速化が図られています。阿仏尼が鎌倉に来たのは元寇の頃ですから13世紀後半で8代時宗の時代であり、彼女は引付衆に訴え出たものと考えられます。ただしこの頃は元との戦争で大忙しだったから、彼女の思案通りに事が迅速に進んだかどうかは疑わしいですけどね。以前第434回で、我が国最高の内閣総理大臣は1232御成敗式目を定めた3代執権北条泰時だったろう、という話をしましたが、5代時頼も人格者だったようです。それを示す有名な話が「鉢の木」でしょう。旅の僧に身をやつした時頼が、群馬県の山中で雪に降り込められて一軒のあばら家の戸をたたきます。家の主人は佐野源左衛門常世。自らが食うにも事欠く有様なのに、旅僧に粟飯を出し、大切にしていた盆栽(鉢の木)を薪にして暖をとらせました。聞けば佐野常世は「領地相続の争いに敗れて以来、貧しい暮らしをしてはいるものの、いざ鎌倉のときにはヤセ馬にまたがって馳せ参じる覚悟です」と言うではありませんか。これに感激した時頼は後日鎌倉にのぼった佐野常世を召し出しました。 「ああ、あなたはいつぞやの旅の御坊!!」となって happy end です。阿仏尼にしても佐野常世にしても、この時代は領地をめぐる争い事が頻発していたのですね。

1232御成敗式目:筆算に効あり貞永式目

        寺子屋での読み書きそろばんの教科書として使われました。

        1221承久の乱が終わって10年位して世の中落ち着いたのでしょう。

オリジナル勉強風呂Gu 第458回 2022.6/19

百人一首No.36. 清原深養父(きよはらのふかやぶ):夏の世はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月やどるらむ

夏の夜はまだ宵の口と思っている間に明けてしまったので、いったい雲のどのあたりに月は宿をとっているのだろうか。

N君:あまりにも短い夏の夜を月はどこで過ごすのかしら、という微笑ましい歌ですね。

Summer night is so short that the dawn has already come though it seems to be still early in the evening.  Where should the moon stay in the clouds ?

S先生:ドイツ語の月は der Mond で男性名詞ですが、私の作文では herself と受けて女性扱いにしました。そのほうが粋だと思ったのです。

In summer the day soon breaks though I think it is still early in the evening.  I wonder where the moon hides herself in the clouds.

MP氏:Summer night !  Though it still seems early evening, dawn has already come.  Even the moon could not make it to her setting.  Where in the clouds will she rest ?

N君:make it to ~「うまくやって~に辿り着く」。MP氏も月を女性として扱っていますね。

K先輩:本歌の深養父(清少の曽祖父)も No.42 元輔(清少の祖父) も歌の上手なのに、当のNo.62 清少納言 は歌が苦手で、そのことを枕草子の中で告白しています。ある歌会合わせの場でなかなか歌を詠もうとしない清少をからかって中宮定子が「元輔が後と言はるる君しもや 今宵の歌にはづれてはをる」とメモ書きを投げてよこしました。上司である定子から「あなたともあろう者がどうしてそんな端のほうで縮こまっているの?」と言われたのです。それに答えて清少は「その人の後と言はれ身なりせば 今宵の歌をまづぞ詠ままし」と返しました。「ぬ」は「打消助動詞ず連体形ぬ」で、「完了助動詞ぬ終止形ぬ」との異同が問題とされるところです。清少は「ご先祖のプレッシャーさえなければ真っ先に詠むのですが、、、」と答えたのです。定子と清少は微笑みを交わしながらこのようなやり取りをしていたのでしょう。そこには女どうしの理想的な主従関係が見てとれます。清少は定子のことを尊敬していたし好きだったと思います。こんな話もあります。定子の長兄伊周(これちか)=儀同三司 と次兄隆家が、道長との政争に敗れて配流された時、定子周辺の女房たちが清少を道長サイドの人間だと疑ったことがあり、身の置き場を失った清少が里へ引っ込んでしまう、という事件がありました。これに心を痛めた定子は清少に手紙を出します。清少がその手紙をあけてみると中から出てきたのは山吹の花びら一枚。その花びらにはただ一言「いはで思うぞ(何も言わないけど心の中であなたのことを思っているわよ)」と書かれていたのです。これは部下にとっては殺し文句ですね。清少は人知れず嬉し泣きしたでしょう。さて、手紙をもらって久し振りに伺候した清少でしたが、さすがにきまりが悪いので几帳の影に隠れてモジモジしています。その姿をチラリと見た定子は「あれは新参(いままいり)か?」と言っておどけたそうです。誠に微笑ましい光景で、清少ならずとも「定子様、一生ついていきます!」となるでしょう。隆家が壱岐対馬を襲った女真族(刀伊、とい)を撃退したのが1019なので、定子・清少の山吹の話はその少し後でしょう。その頃の日本はどんな感じだったのでしょうか。中央政界では道長 vs 伊周・隆家 の主導権争い、サロン化した中宮たち周辺での宴、売位売官の風を増す国司任命の除目(じもく)、横行する成功(じょうごう)と重任(ちょうにん)、そして遙任(ようにん)、脱税を狙った権威者への荘園寄進、、、。熟れて腐敗していく都の貴族たちを眺めながら、地方では「新しい秩序」を生み出そうという動きが見え始めています。難しいことではなくて「俺たちのことは俺たちで決めたい」というシンプルな要求なのです。早くも936平将門が下総の猿島(さしま)で、藤原純友が伊予の日振島(ひぶりじま)で、ドカンドカンと反乱を起こし都人の心胆を寒からしめた後、1028平忠常が房総半島で、1108源義親が出雲で兵を挙げました。1051前九年の役(清原武則)、1083後三年の役(源義家八幡太郎義家=頼朝から見て祖父の祖父)のような大きな戦いが出羽・陸奥でありました。武家の代表たる源平が土着の豪族どもをまとめながら、単なる「公家の番犬」から一歩外へ踏み出していこうとしています。

1019刀伊の入寇:刀伊来る対馬、さがなもの。  

        さがなもの=元気が良くておちゃめで少々乱暴な男=隆家

オリジナル勉強風呂Gu 第457回 2022.6/18

百人一首No.35. 紀貫之:人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける

人というものはねえ、さあ、心なんかわかりゃしませんよ。昔馴染みの土地(長谷寺)では梅の花だけが変わらず同じ香りで匂うのですけれどねえ。

N君:ニヒルな男紀貫之の登場です。深そうな歌です。

I cannot comprehend fluctuating human minds changeable as seasons.  Only plum blossoms at Hase Temple greet me as they did in my young days.

S先生:第1文で既に fluctuating human minds と言ってあるところへ再び changeable as seasons と説明しているので重複感があります。fluctuating を除外するのも一法でしょう。comprehend「理解する」は主として否定文でよく使われますのでここの用法は良いと思います。第2文は「私が若い時分にここ長谷寺の梅が私に挨拶してくれたのと同じように今も梅だけが私に挨拶してくれる」という風に作文してあり、良いと思います。

I do not know other's feelings though you may.  The plum blossoms in my home village are fragrant as they were.  

N君:第1文は文末に know が省略されていて「他人の気持ちというものは、あなたには分かるかもしれないが私にはわからない」という意味でしょうか。

S先生:そうです。though you may (know) は「人はいさ」のつもりで作りました。

MP氏:Have you changed ?  I cannot read your heart.  But at least I know that here in my old home as always the plum blossom blooms with fragrance of the past.

N君:MP氏の作品で貫之は「人は変わる、でも自然は変わらない」と述べています。僕の作文では字面を追うだけだったのがS先生~MP氏を経て深まって行く気がします。

K先輩奈良盆地の北方に東大寺興福寺平城京などがあり、南方に橿原(かしはら)神宮もっと行くと飛鳥があり吉野へつながります。真ん中あたりのやや西に法隆寺中宮寺唐招提寺薬師寺などがあります。真ん中から東方へ進むと山に入るところが長谷寺、そのままどんどん東へ行くと三重県伊勢神宮へつながります。長谷寺は真ん中の少し東、ということで、ある春の晴れた日に京都から電車で向かいました。長谷寺の駅はスゴイ田舎にありました。低いところを通る国道まで一旦下ってから国道を渡り反対側の斜面をズラズラと登っていきます。駅から2~3km歩いてようやく長谷寺の入り口です。牡丹が咲き乱れて美しい季節でした。こういう日を a vernal day というのでしょう。屋根付きの長い回廊をどんどん登っていくと途中にこの歌の歌碑がありました。貫之も1100年以上前にここに来たのかと思うと感慨深いものがありました。芭蕉の句碑もありました。登っていった最後の本堂にひかえているのは御本尊の十一面観音像です。デカイ。お百度参りのように観音様の周りをまわっているご婦人がいました。なにか大切な願い事があるのでしょう。1000円払うと観音様の足元の小部屋に通されて、観音様の足先に直接触れながら願い事ができるという特典があります。私は宝くじの大当たりを祈りましたが下世話すぎてまだ聞き入れてもらっておりません。観音様の前方には清水の舞台にも似た張り出し部分があってここから見る新緑が目に痛いほどでした。さて本歌ですが、梅の季節に大和国初瀬の長谷寺を訪れた貫之に対して宿の主人が疎遠の恨み言を言ったのでこの歌を返した、という経緯があります。MP氏の作品にも表れたように「人は変わる、でも自然は変わらない」と謳っているのです。変わらないものは尊いですね。逆にコロコロ変わるものは軽い。コロコロ変わる、といえば法律です。日本の朝令暮改に相当する諺が英国にもあって The law is not the same in the morning and in the evening. となっています(←第467回)。日本史をつぶさに見てきた私は「法律などというものは時代時代によっていとも簡単に変わるし、たとえ条文が変わらずとも運用次第でどうにでもなる、だから法学は人の営みに似て軽い」と思っています。司法試験は難しいらしいので、普通ならチャレンジ精神が沸いて「いっちょやったろか」となるものですが、私の場合は全然そうなりませんでした。軽くて魅力がないように思えたからです。逆に数学や物理には底知れぬ魅力を感じました。数物化は古代エジプト(5000年前)、もっと言えば地球誕生(45億年前)いや宇宙誕生(139億年前)の頃から何も変わってなくて、ただ人間が法則性を少しづつ発見してきているに過ぎない。そこには第456回にも触れた幽玄なる真実が変わることなく横たわっており、法律などというコロコロ変わるものに比べて尊いと感じます。私がこのように感じる契機となった話をします。あれは小学校3年生の道徳の授業でした。1891=明治24年に訪日して琵琶湖を遊覧していた帝政ロシア皇太子ニコライ二世に津田三蔵巡査が切り付けてケガをさせた大津事件の話が教科書に出ていました。松方正義首相・青木周三外相はじめ政界は津田を即刻死刑にしろと迫ったが、大審院長児島惟謙(こじまこれかた)は司法の独立を守って津田に無期徒刑を言い渡します。当時まだ三等国であった日本において児島が三権分立を守ったことは立派であったと思いますが、そのことをあたかも「法曹界の手柄」であるかのように喧伝する姿勢が鼻についたのです。9歳の私は「そんなん普通やん」と思いました。TVなどで重要な判決が下りるたびに関係者が結果を大書した紙を掲げて裁判所から走り出てくる絵がよく見られるのですが、「それほど大事なことか ?」といつも思います。判決は判事の性格やその日の気分次第で容易に変化するし、主婦が数人で井戸端会議して決めた結論とそれほど違わないのになあ、と思います。また判決は時代が変われば容易に変わります。国が違えばもっと変わります。法に普遍性はないのです。そんなものを有難がる意味や、逆にそんなもので傷ついたりする意味は、まったくないと私は思います。判事が黒い色をした法衣を着て厳粛にみせているのにも違和感があり、普通のスーツでええやん、と思います。夏はアロハシャツでもいいと思います。ここ10年くらいやっている裁判員制度も「法曹界が税金を使いながら責任回避の活動をしている」としか見えません。裁判というのは「社会生活を避けて通れない人間の下世話な必要悪」というふうに私はとらえています。幸いこれまで私は人を訴えたことも人から訴えられたこともないので、これからもできるだけ裁判とはかかわりなく人生を歩いていきたいと願っています。裁判は人生の大切な時間を無駄にすると思います。

1891大津事件:いわく言い難し津田三蔵

オリジナル勉強風呂Gu 第456回 2022.6/17

百人一首No.34. 藤原興風(ふじわらおきかぜ):誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに

いったい誰を親しい友人にしようか、長寿の高砂の松も昔の友ではないのだから。

N君:「ならなくに」は「~ではないのに」という言い訳めいた言い方で、No.14 河原左大臣「乱れそめにし われならなくに」にも出てきました。

Whom should I ask to become a close friend ?  Even a pine tree at Takasago, a symbol of a long life, is not an old friend of mine.

S先生:my old friend とせずに an old friend of mine にしたところに進歩が見られます。should のところに少し感情が表れていますが、全体的には逐語訳word-for-word translation の感があってemotion が足りないと思います。

Alas, all my friends are gone !  Who could be a friend of mine ?  The old pines at Takasago are as deaf tone as they were.

N君:第2文は「昔のまま知らん顔」という意味でしょうか。

S先生:その通りです。ここは私も骨折ったところです。

MP氏:What dear friends do I have to confide in now ?  Only the aged pine of Takasago has my years, I think.  But, alas, he is not an old friend of mine.

N君:MP氏の作品を訳してみます。「打ち明け話ができるようないったいどんな親友を今私が持っているというのか。高砂の松も長く生きた私と同年齢だが旧友とはいえない」というくいらいでしょうか。MP氏の作品に触れて初めて、この歌が老境に達して親しい友人もない男の嘆きを謳った歌であったことを理解しました。しかしこれを情感豊かに英訳するのは相当に難しいと思いました。

K先輩:N君が言っていたように「ならなくに」は奈良時代以前の万葉集の歌に出てくる古い言い方で、この種の言い方を擬古的表現と呼んでいます。昔の言い方をカッコイイと感じる感性は少し分かる気がします。江戸時代にも平安調の文章が擬古趣味として好まれたことがあります。明治以降も昭和戦前期まではコテコテの漢文調の表現が、特に軍事関連の書類上で好まれました。私の知り合いのM氏は1926つまり昭和元年の生まれで現在96歳、太平洋戦争における神風特攻隊の生き残りで、彼が私に託してくれた書類があるのでここに書き留めておきたいと思います。その書類には「軍機」のハンコが押されていました。軍事機密の意でしょう。1941=昭和16年、12/8の真珠湾奇襲攻撃に先立って北海道の西に浮かぶ択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結した帝国海軍機動部隊に対する、指揮官南雲忠一中将の檄文「布哇(ハワイ)作戦の首途にあたり飛行機搭乗員に告ぐ」です。首途(しゅと)という厳めしい表現からして既に漢文の世界に浸りそうな勢いですね。では始めます。暴慢不遜なる宿敵米国に対し愈々(いよいよ)十二月八日を期して開戦せられんとし、茲(ここ)に第一航空艦隊を基幹とする機動部隊は、開戦劈頭(へきとう)敵艦隊を布哇に急襲し一挙に之を撃滅し轉瞬(てんしゅん)にして米海軍の死命を制せんとす。是れ実に有史以来未曾有(みぞう)の大航空作戦にして皇国の興廃は将に此の一挙に存す。本壮挙に参加し護国の重責を双肩に儋(にな)ふ諸子に於いては誠に一世の光栄にして武人の本懐何ものか之に過ぐるものあらむや。将に勇躍挺身君国に奉ずる絶好の機会にして、此の感激今日を措(お)きてまたいずれの日にか求めむ。さはあれ本作戦は前途多難寒風強烈怒涛狂乱する北太平洋を突破し、長駆(ちょうく)敵の牙城に迫りて乾坤一擲(けんこんいってき)の決戦を敢行するものにして、其の辛酸労苦固(もと)より尋常の業(わざ)にあらず。之を克服し能(よ)く勝利の栄冠を得るもの一(いつ)に死中活を求むる強靭敢為の精神に外(ほか)ならず。顧(かへり)みれば諸子多年の演練に依り必勝の実力は既に練成せられたり。今や君国の大事に際会する諸子十年兵を養ふは只一日(ただいちじつ)之を用いんが為なるを想起し、以て此の重責に応えざるべからず。茲に征戦の首途にあたり、戦陣一日の長を以て些(いささ)か寸言を呈せむとす。一、戦の道は、未(いま)だ闘はずして気魂先ず敵を圧し勇猛果敢なる攻撃を敢行して速(すみ)やかに敵の戦意を挫折せしむるにあり。二、如何なる難局に際会するも、常に必勝を確信し沈着冷静事に処し不撓不屈の意気を益々振起すべし。三、準備は飽く迄周到にして事に当たり、些かの遺漏なきを期すべし。今や国家存亡の関頭に立つ。其(そ)れ身命は軽く責務は重し。如何なる難関も之を貫くに尽忠報国の赤誠と果断決行の勇猛心を以てせば、天下何事か成らざらむ。願はくば忠勇の士同心協力、以て皇恩の萬分の一に報い奉らんことを期すべし。以上。全体的に見て厳めしい漢文調ですね。はじめのほうに「皇国の興廃は将に此の一挙に存す」という文言がありますが、これは1905=明治38年日露戦争の後半に対馬海峡で帝国海軍 vs 露バルチック艦隊 が激突した時に旗艦三笠で東郷平八郎大将が発した「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」から取っています。この日本海海戦では東郷の作戦参謀として傍らにあった秋山真之(あきやまさねゆき)少将が大本営に打電した「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに之を撃滅せんとす、本日天気晴朗なれども波高し」も有名です。5/27朝、極東の小国がこれからバルチック艦隊と一戦交える高揚感と勝利への嗅覚を感じさせる名文です。真ん中あたりに「応(こた)えざるべからず」とありますがこれは「応えなければならない」つまり have to do の意で、漢文では頻出です。最後のほうに「其れ身命は軽く責務は重し」とありますが「其れ」や「夫れ」が文頭にくっついて文全体を強調しながら結論めいたことを述べるのも漢文ではよく見ます。孔子の時代からこの言い方はずっとあります。今回は、擬古的表現~昭和前期の檄文~漢文慣用句 についてお話しました。

オリジナル勉強風呂Gu 第455回 2022.6/16

百人一首No.33. 紀友則(きのとものり):ひさかたの光のどけき春の日に 静心(しずこころ)なく花の散るらむ

陽がのどかにさす春の日だというのに、桜の花は落ち着いた心がないから次々と散っているのだろう。

N君:枕詞「ひさかたの」が「光」にかかっています。最後のところの「らむ」は現在推量の助動詞です。全体的な歌意は分かり易い。

Why are cherry blossoms scattering even in this warm spring day filled with sunshine ?  I wish they would appreciate this vernal atmosphere carmly.

S先生:やや冗長な面もありますが、よく書けていると思います。

On a calm sunlit vernal day, why are the cherry blossoms falling on so restlessly ?

N君:falling on の on はどういう意味合いですか。

S先生:これは継続の意を表す on です。

MP氏:Cherry blossoms, on this quiet lambent day of spring, why do you scatter with such unquiet hearts ?

N君:lambent「ゆらめく、淡く光る」。桜に対してまず呼びかけをして、後で you で受けると親近感がありますね。それと quiet vs unquiet の対比が印象的でした。

K先輩:今回はN君も触れていた現在推量助動詞「らむ」に関してその文法的な諸問題について考えてみましょう。ここは古典文法のヤマ中のヤマなので受験生諸君にとっては得るところ大でしょう。はじめに言いたいことは「現在推量助動詞の【らむ】ではない『らむ』がたくさんあってややこしい」ということです。例を挙げていきましょう。第1例目は伊勢物語の筒井筒から取ります。筒井筒というのは幼馴染の男女に次第に恋心が芽生えて二人は結婚しその後男が浮気をするけれども最終的には元の鞘に収まる、という happy end のお話です。世阿弥が能「井筒」の題材にしました。そういえばデパートに「井筒屋」というのがありますが何か関係があるのでしょうか。さて筒井筒ですが、浮気をしている自分に対してあまりにも優しい妻を訝しく思った男の心中を描写している場面です。「男、異心(ことごころ)ありてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽(せんざい)の中に隠れゐて、、、」。もしかして自分が不在の間に変な男が通ってきているのではなかろうか、と疑った夫が物陰から女房の行動を監視しようとしています。ここの「あらむ」は「四段動詞あり未然形あら語尾ら+推量助動詞む終止形む」です。推量助動詞「む」は未然形接続なので、助動詞活用表の右のほうにあります。理系の諸君はメンデレーエフの元素表と同じイメージでとらえましょう。第2例目は枕草子です。中宮定子が清少納言に謎をかける場面で「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と問いかけます。定子・清少の心には白居易(白楽天)の詩の一節「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き 香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る」が響き合っていて、定子のこの言葉を聞いた清少は黙って簾を上げます。江戸時代の初めころに活躍した絵師土佐光起(とさみつおき)がこの場面を描いているのでネットで探してみて下さい。さてこの部分の「ならむ」ですが、「形容動詞いかなり未然形いかなら語尾ら+推量助動詞む終止形む」です。第1例目と似ていますね。第3例目は徒然草から。「生けらむほどは武に誇るべからず」は「生きているうちは武力に頼るな」の意味です。「ほど」の訳し方が難しいですね。ここの「生けらむ」は「四段動詞生く命令形生け+完了存続助動詞り未然形ら+推量助動詞む連体形む」であって、基本的な構造は第1・2例目と変わりないが、「完了存続助動詞り」が命令形接続であるという特殊な事情に気付く必要があります。この接続様式はかなり特殊であって、助動詞活用表の左端にあるので注意して確認してみて下さい。以上3例ともにいはば偽物の「らむ」だったわけですが、本歌に出てくる「散るらむ」の「らむ」こそが本物の現在推量助動詞「らむ」です。目の前の事実に対してその原因理由を推量していています。眼前に散りゆく桜、何故? どうして? なぜそんなに急いで散っていくの? という気持ちがあって、落ち着いた心がないから散っていくのでだろう、と推量しているのです。結局4種類の「らむ」を示したわけですが、こういうことを言われても皆さんすぐに忘れてしまうでしょう。私もすぐ忘れます。このことに関して明治大正昭和を生きた文学者内田百閒(うちだひゃっけん)は次のように述べています。「知らないという事と忘れたという事は違う、忘れるためには学問をしなければならない、何もかも忘れた後に本当の学問の効果が残るのだ」と。とても良い言葉ですね。東大文学部史学科の磯田道史先生が朝日新聞で紹介していました。我々は、勉強した内容を忘れてしまうことをあまり心配する必要はないのです。一旦覚えてその後に忘れた事は、ずっと後々になって必ずその人に効いてくるのであるから、心配せずに勉強すれば宜しい、こうして教養が身についていく。百閒先生は我々にそう語りかけてくれていると思います。

オリジナル勉強風呂Gu 第454回 2022.6/15

百人一首No.32. 春道列樹(はるみちのつらき):山川(やまがわ)に風のかけたるしがらみは  流れもあへぬ紅葉なりけり

谷川に風が掛けた柵とは、実は完全には流れ去ることができないでいる紅葉だったのだなあ。

N君:「あふ+打消し」は「完全には~しきれない」の意で第446回にも出ました。

The weir built in the mountain stream by an autumn gust was virtually the maple leaves which could not flow down away.

S先生:日本語では「バーチャル空間」などと言って virtual は「仮の、虚ろな」のような意味で使われることが多いですね。たしかに virtual にはそういう意味もあって vietual image「虚像」のように言いますが、むしろ圧倒的に「実際の、事実上の」の意味で使われることのほうが多く、研究社の辞書には The car was virtually sold as scrap.「事実上スクラップとして売られた」という例文が出ていました。actually に似ていますね。N君の作文でも virtually は正しく使われていると思います。この単語には今後とも注意を払っていって下さい。文末を flow down で終わらずに away をくっつけたことで「流れ去っていく」感じが出ました。

The rivulet weir built by the wind was no more than the fallen red leaves unable to flow away.

N君:no more than はもともと比較の構文で「~以上の何者でもない」の意なのでしょうが、ここでは「~以外はありえない、モロに~だ」のような強い肯定の意味になっているような気がします。

S先生:そういう理解で良いと思います。

MP氏:The weir the wind has flung across the mountain stream blocking the flow is made of autumn's richly colored leaves.

N君:fring-flung-flung「投げつける」。いつもの情感タップリの作品とはうって変わってこの作品はアッサリ味で締まっています。

K先輩:「山と川」ならヤマカワですが、「山の中を流れている川」だからヤマガワ、ということはつまり谷川です。「しがらみ」は柵。「けり」は単なる過去ではなく「今初めて気付いた」の意を含む詠嘆であって、歌の中で使われたときはだいたい詠嘆です。山中の紅葉に風が吹いて、紅葉がハラハラと谷川へ散っていく、その谷川の水の流れによって紅葉は下流へ流されていくが、ところどころに流されずに滞っている箇所があって、まるで人工的に柵を作っているかのようだ、でもそれは実のところ自然にできた紅葉の柵だったのだなあ、という歌です。美しく技巧的な歌ですね。しかし専門家に言わせると「まだ美が深化しておらず余情もなくて典型的な古今集時代の歌」とのことです。第426回で触れたように「905古今集の時代はまだ技巧に走る言葉遊びの時代であって美が深まっていない」ということ。美の深化とは? 余情とは? 幽玄とは? それを語るにはまだ時代が早過ぎる、ということらしいです。どういうことなのか私には解説する資格もありませんが、第426回にて「幽玄」について触れようとしてできなかったので、ここではもう一歩踏み込んで語ってみようと思います。まず幽玄を理解するためのヒントとして「日本文化を英語で紹介する事典」(杉浦洋一+John K. Gillespie共著)という本では幽玄を The subtle and profound「微(かす)かで深遠なもの」と英訳しています。幽玄とは何か、その英語説明文をまず読んでみましょう。What is neither apparent in the meanings of words nor clearly visible to the eyes is, for those very reasons, the aesthetic world that man can sense behind it all : This is yugen.  It is one of the emotions flowing in the depths of the Japanese feelings that value suggestiveness and encourage brevity.  This kind of emotion is related to the process of shaping a short poietic form that had to express everything using limited kinds and numbers of words.  That is to say, the beauty of yugen, which values suggestiveness, is a beauty that takes shape where only a few words can awake many thoughts.  Therefore, it can be called an aesthetic world made possible only in a community sharing a homogeneous culture, where people communicate without saying everything.  素晴らしい英文ですね。ではその和訳も紹介しておきます。「言葉の意味には現れなくても、あるいは目には定かに見えなくても、それ故にこそその奥に人間が感じることのできる美の世界、これが幽玄です。これは、余情を重んじ省略(簡素)を良しとする日本人の心情の根底に流れている情緒のひとつです。このような情緒は、用いる言葉の種類や数が限られた中ですべてを表現しなければならなかった短詞形(和歌)の成立過程にも関係があります。つまり余情を大事にする幽玄の美は、少しの言葉で多くのことを考えることの可能な世界において成立する美です。したがって全てを言わずとも相手に通じる、同質の文化を共有する共同体の中でこそ可能となった美の世界であるとも言えるでしょう。」 これはとてつもない名文です。そうか、だから外国人から見ると日本人は優柔不断に見えるんだ、と理解できました。このような幽玄の境地は和歌の世界においては1205新古今集の時代に完成した、とのことです。この基本の上に「華美を嫌い簡素を好む」「余白や間を大切にする」などの気分が積み重なって、世阿弥の能、利休の茶、芭蕉侘びさび、、、、が生まれたのでしょう。ちなみにこの本によると「侘びさび」の英語訳は subtle taste and elegant simplicity だそうです。ところでN君は能を見たことがあるでしょうか。「ほとんど動きがなくて、ナニ言ってるか分からないし、退屈な劇」くらいに思っているのではありませんか。男性用の能面の一つに邯鄲(かんたん)面があり、眉間の皺が「苦悩と悟り」を表しているそうです。なんか深い感じがするでしょう。邯鄲というのは中国の地名で故事成語「邯鄲の夢」で有名です。趙国の都邯鄲の道端で飯が炊けるまでの間に男がうたた寝をしながら見た立身出世の夢。覚めてみればいつもの自分。栄耀栄華も一瞬の夢。能でこの題目をやっているうちにその男の面を邯鄲面と呼ぶようになったのでしょう。南北朝~戦国~安土桃山時代には能が盛んになり、大和猿楽四座(観世座・宝生座・金剛座・金春座)が春日大社興福寺で能を奉納したり、戦国大名の中にはおかかえの能役者を持つ者も現れました。武士は能の「飾り気のなさ」を好んだのかもしれませんね。秀吉も金春安照を贔屓にしていました。彼は死ぬ前に醍醐の花見をしました(第453回)が、その前か後に邯鄲の能を見たでしょう。辞世の句は「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」でしたが、ひょっとすると金春安照の邯鄲面を思い出しながら詠んだかもしれませんね。第450回で触れた中世の無常観とも気脈を通じています。

 

オリジナル勉強風呂Gu 第453回 2022.6/14

百人一首No.31. 坂上是則(さかのうえのこれのり):朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪

夜がほのかに明るくなり、有明の月かと思うくらいに、吉野の里に白々と降っている雪だなあ。

N君:本歌作者是則さんの5代前の御先祖が有名な坂上田村麻呂だそうです。

I have mistaken the white snow pilling up on the village of Yoshino for the dim light of the moon hanging in the western sky at dawn.

S先生:mistake A for B「AをBと見誤る」を使って上手に作文できています。Aが正しいものでBが間違ったもの、というのがこんがらがって分かり難い面もあるので、私の作文ではもうちょっと簡潔にしてみました。

The snow pilling up on the village of Yoshino is so white that it looks like an early moon at daybreak.

MP氏:The first light over Yoshino village ー The snow has piled so deep, so white I cannot tell it from the dawn's pale moonlight.

N君:もしかしたら so white の後に that が省略されていますか?

S先生:そうでしょうね。

K先輩:今回はN君から話の出た坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)から話を起こします。724多賀城が築かれて以降なかなか進展のなかった陸奥国の制圧でしたが、征夷大将軍坂上田村麻呂は802胆沢城(いさわじょう)を築いて多賀城鎮守府をここに移し、北上川を北へのぼっていったのです。田村麻呂のお墓は山科(やましな)にあります。京の五条通りをどんどん東へ行くと、清水寺のある東山を貫くトンネルがあって、これを抜けると小さな盆地に出ます。国道1号線です。京自体が盆地ですが、山科はその東隣りの小さな盆地ですね。この山科盆地の南方に田村麻呂の墓所があります。嵯峨天皇の命令によって田村麻呂の死骸には甲冑がつけられたまま立った姿で東方を向けて埋められたそうです。死してなお東国への備えとされたのですね。田村麻呂も本望だったでしょう。近くには第431回に登場した小野小町随心院や、秀吉が死ぬ前に花見に行った醍醐の山があります。桜の名所醍醐寺五重塔は奈良興福寺や東寺(教王護国寺)に比べて「古い!」という感じがします。その古さがいい味を出していて私は好きです。またこの近くには1703.12/15吉良邸に討ち入った赤穂四十七士を指揮した大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が幕府の目を欺くために放蕩したと伝えられる邸宅跡があります。内蔵助はこんな田舎から京の町まで遊びに行っていたのですね。醍醐寺を別にすると、山科には京に比べてあまり大きな神社仏閣はありません。しかしさすがに京に近いだけあって寺社にまつわる逸話は多いようです。私は友人から次のような話を聞いたことがあります。1536天文法華の乱の頃の話です。No more rule の中世戦国時代に、京の町を舞台にして法華宗日蓮宗 vs 一向宗浄土真宗 とが大戦争を繰り広げて京の町が半分くらい焼けました。元々日蓮宗というのは思い込みが激しくてスタンドプレーに走る傾向があります。宗祖日蓮がやや独りよがりの立正安国論を著して8代執権時宗から迫害されたり、日親は室町6代将軍義教から拷問を受けて「鍋かむり日親」と呼ばれたりしました。おまけに不受不施派などと称してお布施をもらわずエエカッコをします。1637島原の乱の後に江戸幕府キリスト教を禁じたことは皆さんよく御存知でしょうが、日蓮宗不受不施派も同時に禁じられたことを知ってますか? 体制側から見た時に日蓮宗とはそれほどに鼻持ちならぬ宗派なのです。よく言えば純粋なんでしょうね。こんな日蓮宗と、一般的な浄土真宗あるいはもっと古い密教(たとえば天台宗延暦寺)とが、仲良くやれるはずもありません。宗教団体どうしが殺し合うのだから全くアホだね。今でもイスラム圏では同様の諍いが頻発しているし、宗教とはいったい何なんだろうね。さてこの天文法華の乱では山科でも日蓮宗の寺が焼かれたり破却されたりしました。その時誰言うともなく「この寺の坊主は銭を壺に貯めこんで寺の下の土の中に埋めていたらしいぞ」という噂が流れました。皆は我先に土を掘り大きな穴ができました。もちろん壺など出て来ず、土砂が崩れて穴の中にいた人が生き埋めになってしまいました。皆で必死に掘り出したが時すでに遅く、死人が出てしまった、、、そういう話が、ここ山科の寺に伝わる古文書に書かれていたそうです。田村麻呂~山科~天文法華の乱 と来て、たどり着いた結論は「人間、噂に乗せられて欲をかいてはいけない」という至極まっとうな教えでした。

1536天文法華の乱:イチゴサロンでホッケを注文、そりゃもめるはず。

1637島原の乱:広さ7へーべー時貞の部屋

1703吉良邸討ち入り:居直れみんな四十七士