kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第454回 2022.6/15

百人一首No.32. 春道列樹(はるみちのつらき):山川(やまがわ)に風のかけたるしがらみは  流れもあへぬ紅葉なりけり

谷川に風が掛けた柵とは、実は完全には流れ去ることができないでいる紅葉だったのだなあ。

N君:「あふ+打消し」は「完全には~しきれない」の意で第446回にも出ました。

The weir built in the mountain stream by an autumn gust was virtually the maple leaves which could not flow down away.

S先生:日本語では「バーチャル空間」などと言って virtual は「仮の、虚ろな」のような意味で使われることが多いですね。たしかに virtual にはそういう意味もあって vietual image「虚像」のように言いますが、むしろ圧倒的に「実際の、事実上の」の意味で使われることのほうが多く、研究社の辞書には The car was virtually sold as scrap.「事実上スクラップとして売られた」という例文が出ていました。actually に似ていますね。N君の作文でも virtually は正しく使われていると思います。この単語には今後とも注意を払っていって下さい。文末を flow down で終わらずに away をくっつけたことで「流れ去っていく」感じが出ました。

The rivulet weir built by the wind was no more than the fallen red leaves unable to flow away.

N君:no more than はもともと比較の構文で「~以上の何者でもない」の意なのでしょうが、ここでは「~以外はありえない、モロに~だ」のような強い肯定の意味になっているような気がします。

S先生:そういう理解で良いと思います。

MP氏:The weir the wind has flung across the mountain stream blocking the flow is made of autumn's richly colored leaves.

N君:fring-flung-flung「投げつける」。いつもの情感タップリの作品とはうって変わってこの作品はアッサリ味で締まっています。

K先輩:「山と川」ならヤマカワですが、「山の中を流れている川」だからヤマガワ、ということはつまり谷川です。「しがらみ」は柵。「けり」は単なる過去ではなく「今初めて気付いた」の意を含む詠嘆であって、歌の中で使われたときはだいたい詠嘆です。山中の紅葉に風が吹いて、紅葉がハラハラと谷川へ散っていく、その谷川の水の流れによって紅葉は下流へ流されていくが、ところどころに流されずに滞っている箇所があって、まるで人工的に柵を作っているかのようだ、でもそれは実のところ自然にできた紅葉の柵だったのだなあ、という歌です。美しく技巧的な歌ですね。しかし専門家に言わせると「まだ美が深化しておらず余情もなくて典型的な古今集時代の歌」とのことです。第426回で触れたように「905古今集の時代はまだ技巧に走る言葉遊びの時代であって美が深まっていない」ということ。美の深化とは? 余情とは? 幽玄とは? それを語るにはまだ時代が早過ぎる、ということらしいです。どういうことなのか私には解説する資格もありませんが、第426回にて「幽玄」について触れようとしてできなかったので、ここではもう一歩踏み込んで語ってみようと思います。まず幽玄を理解するためのヒントとして「日本文化を英語で紹介する事典」(杉浦洋一+John K. Gillespie共著)という本では幽玄を The subtle and profound「微(かす)かで深遠なもの」と英訳しています。幽玄とは何か、その英語説明文をまず読んでみましょう。What is neither apparent in the meanings of words nor clearly visible to the eyes is, for those very reasons, the aesthetic world that man can sense behind it all : This is yugen.  It is one of the emotions flowing in the depths of the Japanese feelings that value suggestiveness and encourage brevity.  This kind of emotion is related to the process of shaping a short poietic form that had to express everything using limited kinds and numbers of words.  That is to say, the beauty of yugen, which values suggestiveness, is a beauty that takes shape where only a few words can awake many thoughts.  Therefore, it can be called an aesthetic world made possible only in a community sharing a homogeneous culture, where people communicate without saying everything.  素晴らしい英文ですね。ではその和訳も紹介しておきます。「言葉の意味には現れなくても、あるいは目には定かに見えなくても、それ故にこそその奥に人間が感じることのできる美の世界、これが幽玄です。これは、余情を重んじ省略(簡素)を良しとする日本人の心情の根底に流れている情緒のひとつです。このような情緒は、用いる言葉の種類や数が限られた中ですべてを表現しなければならなかった短詞形(和歌)の成立過程にも関係があります。つまり余情を大事にする幽玄の美は、少しの言葉で多くのことを考えることの可能な世界において成立する美です。したがって全てを言わずとも相手に通じる、同質の文化を共有する共同体の中でこそ可能となった美の世界であるとも言えるでしょう。」 これはとてつもない名文です。そうか、だから外国人から見ると日本人は優柔不断に見えるんだ、と理解できました。このような幽玄の境地は和歌の世界においては1205新古今集の時代に完成した、とのことです。この基本の上に「華美を嫌い簡素を好む」「余白や間を大切にする」などの気分が積み重なって、世阿弥の能、利休の茶、芭蕉侘びさび、、、、が生まれたのでしょう。ちなみにこの本によると「侘びさび」の英語訳は subtle taste and elegant simplicity だそうです。ところでN君は能を見たことがあるでしょうか。「ほとんど動きがなくて、ナニ言ってるか分からないし、退屈な劇」くらいに思っているのではありませんか。男性用の能面の一つに邯鄲(かんたん)面があり、眉間の皺が「苦悩と悟り」を表しているそうです。なんか深い感じがするでしょう。邯鄲というのは中国の地名で故事成語「邯鄲の夢」で有名です。趙国の都邯鄲の道端で飯が炊けるまでの間に男がうたた寝をしながら見た立身出世の夢。覚めてみればいつもの自分。栄耀栄華も一瞬の夢。能でこの題目をやっているうちにその男の面を邯鄲面と呼ぶようになったのでしょう。南北朝~戦国~安土桃山時代には能が盛んになり、大和猿楽四座(観世座・宝生座・金剛座・金春座)が春日大社興福寺で能を奉納したり、戦国大名の中にはおかかえの能役者を持つ者も現れました。武士は能の「飾り気のなさ」を好んだのかもしれませんね。秀吉も金春安照を贔屓にしていました。彼は死ぬ前に醍醐の花見をしました(第453回)が、その前か後に邯鄲の能を見たでしょう。辞世の句は「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」でしたが、ひょっとすると金春安照の邯鄲面を思い出しながら詠んだかもしれませんね。第450回で触れた中世の無常観とも気脈を通じています。