kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第458回 2022.6/19

百人一首No.36. 清原深養父(きよはらのふかやぶ):夏の世はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月やどるらむ

夏の夜はまだ宵の口と思っている間に明けてしまったので、いったい雲のどのあたりに月は宿をとっているのだろうか。

N君:あまりにも短い夏の夜を月はどこで過ごすのかしら、という微笑ましい歌ですね。

Summer night is so short that the dawn has already come though it seems to be still early in the evening.  Where should the moon stay in the clouds ?

S先生:ドイツ語の月は der Mond で男性名詞ですが、私の作文では herself と受けて女性扱いにしました。そのほうが粋だと思ったのです。

In summer the day soon breaks though I think it is still early in the evening.  I wonder where the moon hides herself in the clouds.

MP氏:Summer night !  Though it still seems early evening, dawn has already come.  Even the moon could not make it to her setting.  Where in the clouds will she rest ?

N君:make it to ~「うまくやって~に辿り着く」。MP氏も月を女性として扱っていますね。

K先輩:本歌の深養父(清少の曽祖父)も No.42 元輔(清少の祖父) も歌の上手なのに、当のNo.62 清少納言 は歌が苦手で、そのことを枕草子の中で告白しています。ある歌会合わせの場でなかなか歌を詠もうとしない清少をからかって中宮定子が「元輔が後と言はるる君しもや 今宵の歌にはづれてはをる」とメモ書きを投げてよこしました。上司である定子から「あなたともあろう者がどうしてそんな端のほうで縮こまっているの?」と言われたのです。それに答えて清少は「その人の後と言はれ身なりせば 今宵の歌をまづぞ詠ままし」と返しました。「ぬ」は「打消助動詞ず連体形ぬ」で、「完了助動詞ぬ終止形ぬ」との異同が問題とされるところです。清少は「ご先祖のプレッシャーさえなければ真っ先に詠むのですが、、、」と答えたのです。定子と清少は微笑みを交わしながらこのようなやり取りをしていたのでしょう。そこには女どうしの理想的な主従関係が見てとれます。清少は定子のことを尊敬していたし好きだったと思います。こんな話もあります。定子の長兄伊周(これちか)=儀同三司 と次兄隆家が、道長との政争に敗れて配流された時、定子周辺の女房たちが清少を道長サイドの人間だと疑ったことがあり、身の置き場を失った清少が里へ引っ込んでしまう、という事件がありました。これに心を痛めた定子は清少に手紙を出します。清少がその手紙をあけてみると中から出てきたのは山吹の花びら一枚。その花びらにはただ一言「いはで思うぞ(何も言わないけど心の中であなたのことを思っているわよ)」と書かれていたのです。これは部下にとっては殺し文句ですね。清少は人知れず嬉し泣きしたでしょう。さて、手紙をもらって久し振りに伺候した清少でしたが、さすがにきまりが悪いので几帳の影に隠れてモジモジしています。その姿をチラリと見た定子は「あれは新参(いままいり)か?」と言っておどけたそうです。誠に微笑ましい光景で、清少ならずとも「定子様、一生ついていきます!」となるでしょう。隆家が壱岐対馬を襲った女真族(刀伊、とい)を撃退したのが1019なので、定子・清少の山吹の話はその少し後でしょう。その頃の日本はどんな感じだったのでしょうか。中央政界では道長 vs 伊周・隆家 の主導権争い、サロン化した中宮たち周辺での宴、売位売官の風を増す国司任命の除目(じもく)、横行する成功(じょうごう)と重任(ちょうにん)、そして遙任(ようにん)、脱税を狙った権威者への荘園寄進、、、。熟れて腐敗していく都の貴族たちを眺めながら、地方では「新しい秩序」を生み出そうという動きが見え始めています。難しいことではなくて「俺たちのことは俺たちで決めたい」というシンプルな要求なのです。早くも936平将門が下総の猿島(さしま)で、藤原純友が伊予の日振島(ひぶりじま)で、ドカンドカンと反乱を起こし都人の心胆を寒からしめた後、1028平忠常が房総半島で、1108源義親が出雲で兵を挙げました。1051前九年の役(清原武則)、1083後三年の役(源義家八幡太郎義家=頼朝から見て祖父の祖父)のような大きな戦いが出羽・陸奥でありました。武家の代表たる源平が土着の豪族どもをまとめながら、単なる「公家の番犬」から一歩外へ踏み出していこうとしています。

1019刀伊の入寇:刀伊来る対馬、さがなもの。  

        さがなもの=元気が良くておちゃめで少々乱暴な男=隆家