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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第452回 2022.6/13

百人一首No.30. 壬生忠岑(みぶのただみね)有明のつれなく見えし別れより あかつきばかり憂きものはなし

明け方の月が素っ気なく見えた、その素っ気ない別れ以降、私は「(宵闇よりも)明け方こそが最も辛い」と思うようになった。

N君:「つれなく見えし別れより」の「より」が、比較ではなくて時間の起点を表していることを知るのに時間を要しました。

A morning moon seemed to be indifferent to me when I was forced to part from her.  I have come to feel the most mournful at dawn since then.

S先生:いやいや別れた、という気持ちを be forced to part from ~ で表したのでしょうが、ちょっと無理があるような気がします。ギリギリセーフとしておきましょう。

A morning moon looked so heartless to me when I was forced to part from my sweetheart.  Nothing is so dismal as an early morning.

N君:dismal「憂鬱な」、dismay「狼狽」、dismiss「解雇する」。研究社の辞書によると the dismal science「陰気な学問」というのは経済学の異称だそうです。実社会ではどうやっても最後は不景気に終わるからでしょうか。

MP氏:Nothing is so miserable as the hour before dawn since I parted from you ー The look on your face then cold as the morning moon.

N君:なるほど、さっき夜明けに訪ねて行ったら拒絶してきた彼女の顔が有明の月にも似て素っ気なかった、というわけですね。この想像力には脱帽です。

K先輩:今回は壬生つながりで壬生寺について語ります。京都駅から北西に20~30分くらい歩くと住宅街の真ん中に壬生寺(みぶでら)があります。それほど大きな寺ではなくまずまず中くらいでしょう。壬生寺といえば新撰組です。1863に14代将軍家茂が孝明天皇に対して「攘夷の誓い」を立てるために上洛した際、将軍警護および洛中治安維持の目的で「関東の荒くれ者ども」=浪士隊 を引き連れて行きました。その中心は清河八郎山岡鉄舟らでしたが、中味は、水戸の脱藩浪士あり、日野の豪農あり、一旗揚げようと目論む浮浪者あり、で、まとまりを欠いていました。元々京都には京都所司代所轄の見回り隊があったのですが戦闘力不足ゆえ、この荒くれ者どもを加えたというわけです。ちなみに将軍が上洛するのは2代秀忠以来ということですから200年をゆうに越えています。1853ペリー来航以来幕府の権威低下は明らかで、この時も将軍の行列が洛中を進む時に、雑踏の中にいた高杉晋作が大声で「イヨッ、大将軍!」と声を掛けましたが結局お咎めなしで済んでいます。10年前なら即座に斬り捨てられていたでしょう。さて浪士隊ですがその身分は「佐幕派会津藩の預かり」すなはち武士として遇したのです。荒くれ者どもにとって武士の身分は魅力的でした。誘蛾灯に集う夏虫の如くたちまち200名が参加しました。当時「京は長州の京か」というくらいに長州の尊王攘夷論が公家を巻き込んで喧伝されており、その勢いを背景にした朝廷は幕府に具体的な攘夷決行を迫っていたのです。幕府は「攘夷など無理」と分かっていたものの、勅を下された手前「5月10日をもって外国船を打ち払います」と朝廷に対して約束してしまい、その確認のために家茂が上洛したというわけです。このあたりの本音と建前の構造が昔も今も日本では変わりなく続いていますね。さて幕府としても朝廷の背後で長州が糸を引いていることは先刻承知であって、「ここは長州の手に乗って将軍上洛を受け入れるが、同時に浪士隊を準軍事警察集団として京都に送り込んで、逆に主導権を握ってやろう」という意図を持っていたのです。浪士隊はすったもんだの内紛を繰り返しながら「新撰組」と改名して、壬生寺にて軍事調練をしつつ次第に純化していきます。最大の内紛は「芹沢鴨(せりざわかも)暗殺事件」でしょう。新撰組筆頭局長芹沢鴨の一派は、ゆすり・たかり・喧嘩・かどわかし・放火 などなどヤクザも真っ青の不埒な奴らであったため、一般の隊士たちの怒りは沸点に達していました。ある晩酔って壬生寺傍らの八木邸で眠り込んでいた芹沢は情婦お梅ともども切り殺されました。下手人は実ははっきりしないが鬼の副長土方歳三が加わっていたことは間違いないでしょう。局長近藤勇は直接には手を下していないが暗殺計画を把握していたでしょう。私は八木邸に行って芹沢が暗殺された部屋を見せてもらいましたが、頭上の障子の桟(さん)に芹沢の刀痕がはっきりと残っていました。新撰組にしろ日本赤軍にしろオウム真理教にしろ、思想的に尖った暴力的組織というものの内部では、必ず「粛清」という名の内部抗争が常態化してくるものです。同じことは共産党社会主義の国々の成立過程でもさんざん起きました。あまり一つのことに拘泥するのは考えものですね。当時の京都の民衆や、現代人の中でも、「キャー、新撰組カッコイイ」なんて言う人もいますが、実際はどうだったのでしょうか。研究者から聞いた話では「当時の京都の民衆は新選組を怖がっており、迷惑な存在として捉える者も多かった」とのことです。確かに近藤・土方に率いられた新撰組は純粋に国のことを思って活動したとは思いますが、その佐幕的な活動は結果からみて誤っており、また明治日本を率いていくはずだった有能な人々をあまりにも多く殺してしまった、と私は思います。特に1864池田屋事件では、肥後藩宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州藩吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐藩望月亀弥太(もちづきかめやた) らが亡くなっています。この事件の直前に土方は捕縛した長州藩士古高俊太郎を八木邸近くの前田邸の蔵に逆さ吊りにして拷問し、祇園祭の晩に三条木屋町池田屋で密談が行われる情報を仕入れたと言われています。私はその蔵を見に行ったのですが、暗くて湿気の多いイヤーな所でした。なお長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)は本来参加するはずだった池田屋の会合に不穏な空気を感じて参加せずに難を逃れています。のちに芸妓幾松と城崎(きのさき)温泉へ逃避行したなどの行動とも合わせて「逃げの小五郎」と揶揄される嗅覚の鋭さでした。池田屋は令和の現在、流行りの居酒屋になっていて、そのあまりの軽さに歴史ファンの私は唖然とするほかありません。試しに私も友人と二人で入ってみたのですが「女子受けするオシャレな居酒屋」でした。まあ街中ですからどうしてもこういうふうになるんですかね。

1853ペリー来航

1858日米修好通商条約

1861=文久1年 

1862=文久2年

1863=文久3年

1864長州藩重苦:池田屋+蛤御門+長州征伐+国艦隊

オリジナル勉強風呂Gu 第451回 2022.6/12

百人一首No.29. 凡河内躬恒(おほしこうちのみつね):心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花

あて推量でもし折れるものならば折ってみようか、初霜で見分けがつかなくなった白菊の花を。

N君:第444回に登場した文屋康秀三河国掾でしたが、本歌の凡河内躬恒淡路国掾です。掾(じょう)というのは中央ではなく地方の国における四等官制「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」のナンバースリーにあたります。

Shall I, by guesswork, pick up a flower of white chrysanthemums which are difficult to be discriminated from the first frost ?

S先生:by guesswork は文頭に置くのも不自然だし、本当は文尾に置きたいのですが、N君の作文においては動詞以下が長いので文尾も不自然。よってこの場所しかないでしょう。pick up は「拾い上げる」の意であって、「折って取る」なら break off のほうが適当でしょう。

Shall I try breaking off the flowers of white chrysanthemums though it is difficult to distinguish them from the first frost ?

MP氏:I can only pluck at random for I cannot tell apart in all this whiteness ー white chrysanthemums from the first frost.

N君:すべて真っ白で区別がつかないのでランダムにに摘んでみるだけだ、という理論的な言い換えが新鮮でした。

K先輩凡河内躬恒淡路国掾とのことですが淡路島は今で言えば兵庫県。この兵庫県という所はスゴイのです。淡路+播磨+但馬+丹波の一部+摂津の一部=兵庫県、つまり5か国を含んでいるのです。こんな県は他にはありません。たとえば静岡県=伊豆+駿河遠江(とおとうみ) であるし、福岡県=豊前の一部+筑前筑後 であって、せいぜい3か国くらいの県が多いのです。宮崎県=日向 のように1か国の県もあります。兵庫県はどうしてこんなことになったのか? 明治の初めに欧米に対して開港されていた横浜・神戸・新潟・函館・長崎 のうち「神戸を持つ兵庫県の県勢力を大きくしておくべきだと大久保利通が言ったから」というのがその理由らしい。何事においても偉い人の最初の一言というのは大変です。そもそも1869=明治2年に京都から東京へ遷都したのも大久保の意志が強く働いており、令和の東京が東京たる所以の大部分は大久保によるものだと言っても過言ではないでしょう。さて東京と同じく令和の現在「横浜はレインボーブリッジや山下公園、神戸はポートアイランドや元町で有名で、オシャレな街というイメージが定着している」わけですが、そもそも幕末の頃は横浜も神戸も「ペンペン草も生えぬ寒村」でした。私は幕末開港前の横浜村の写真を見たことがありますが、それこそ浦島太郎が魚籠と竿を持って出てきそうな雰囲気でした。神戸にいたっては本当に何もなくて、勝海舟が地元の知人に「土地を買っておいたほうがいいよ」とアドバイスしても誰も信用しなかったそうです。横浜横須賀が現在のような繁栄を築くもとになったのは「幕府がフランスの協力下に造船所を作ったから」ですし、神戸のそれは「幕府が海軍伝習所を作ったから」です。もちろん1858井伊直弼(いいなおすけ)の違勅条約=日米修好通商条約において、この二つの港が開港されると決まったことがベースにあります。何事でも最初のきっかけが大切で、それから150年経過した現在、横浜・神戸の発展は目を見張るものがあります。日本国中にあるさびれた漁村を思い描き横浜・神戸との違いをイメージしてみて下さい。最初のきっかけ、もっと言えば「他が誰もやっていない早い時期に、それまでとは違う姿に変わる勇気」みたいなものが、時代の経過とともに驚くべき変貌をもたらし、想像もつかないものへと発展していく、ということがよく分かると思います。もしこのブログを読んでいる若い人がいたら私は言いたい。「じっとしていてはダメだ、動け、変われ」と。

精神論ばかりやってもダメなので日本史の勉強も少ししておきましょう。先程話に出た大久保利通について語ります。言わずと知れた幕末の薩摩藩士で西郷隆盛と並ぶ維新の元勲です。司馬遼太郎先生によると薩摩男児の間では「ギを言うな」ということが昔から言われていました。言われていたというより不文律で、体に染みついていました。「ギ」というのは議論とか理屈の意でしょう。男たるものツベコベ言わずに行動で示せ、というような処世訓です。西郷隆盛はモロにこの処世訓に沿って生き、そして1877=明治10年西南戦争で武士の無念を飲み込んだまま黙って死にました。しかし大久保は逆に「闊達に議論し周旋して明治新政府の基礎を作っていった」という人生で、その経過中の恨みを買って1878=明治11年に紀尾井坂で暗殺されました。その事績を追いかけてみましょう。幕末の京都における交渉では「はじめのうちは佐幕派会津藩と結んで長州を追い落としたのに、後半は寝返って薩長同盟を結んで倒幕を実現した」という薩摩藩の寝業師的な動きの中心に大久保がいた、と理解してよいでしょう。なかなか食えぬ男です。維新前夜の1867.12/9の小御所会議では、土佐藩山内容堂の反対を押し切って15代将軍慶喜の辞官納地(官職と領地の召し上げ)を決め、年明けからの武力倒幕=鳥羽伏見戦~江戸開城 への道筋をつけました。1869=明治2年にはなかば強引に東京遷都を実行し、明治4年からは岩倉具視木戸孝允と共に欧米を見て回り、留守中の内政にも注文をつけていました。学制・太陽暦・徴兵令・地租改正のような民衆に受けの悪い内政問題を明治4,5,6年くらいに済ませておき、西郷中心の征韓論も封殺しました。正しい判断だったと思います。帰国してからは明治7年の台湾出兵問題です。台湾の原住民が嵐で漂着した琉球漁民を斬殺したという事件があって、これに対抗するため、西郷従道(つぐみち、隆盛弟)に軍事を、岩崎弥太郎に運輸を任せ、台湾出兵を実行しました。その裏で単身北京に乗り込んで李鴻章相手に一歩も引かぬ交渉をやり切って、清国をして「今回の日本の台湾出兵は義挙である」と言わしめたのです。これは「琉球が日本国の領地の一部である」ということを明確に清国に認めさせた、という点において令和の現在にも意義ある事績と言えるでしょう。「何が大事なのか」を分かった上でウヤムヤにすることなくエネルギーを傾けた、その胆力が尋常ではなかったと私は思います。内務卿としては同じ薩摩の川路利良に東京邏卒隊(らそつたい、現在の警視庁)を組織させ、現在の警察の原型を作りました。また明治10年に上野山にて第1回内国勧業博覧会を開いて殖産興業の基礎を作りました。不平士族問題に対しては明治7年佐賀の乱から始まって明治10年西南戦争までを戦い抜き、鎌倉以来続いてきた「武士の世」を本当の意味で終わらせました。その合間を縫って明治8年には大阪会議で木戸・板垣を懐柔し参議として国政復帰を促すとともに、元老院大審院・地方官会議が設置され、「漸次立憲政体を立つるの詔」も出されて、瓦解しかかった新政府を首の皮一枚で支えました。元老院参議院大審院は裁判所、地方官会議は各県議会の原型です。大久保の孫が1951=昭和26年サンフランシスコ講和条約吉田茂、その孫が麻生太郎さんです。大久保は「ギを言うな」という薩摩男児の処世訓とは別の道を行ったかもしれませんが、並みの維新志士に比べれば100倍の仕事をこなした偉人で、もし彼がいなかったら日本はどうなっていたか分かりません。民衆には不人気でしたが、このような人物こそが令和の日本を深いところで支えてくれているのだと私は思います。

1863八月十八日の政変:一派霧散の七卿落ち

1951サンフランシスコ講和会議:遠くの恋のサンフランシスコ

オリジナル勉強風呂Gu 第450回 2022.6/11

百人一首No.28. 源宗干朝臣(みなもとのむねゆきあそん):山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思えば

山里は冬が特に寂しさが勝るものだったなあ。人目も離(か)れ草も枯れてしまうと思うので。

N君:「かれ」のシャレですね、こういうのを掛詞(かけことば)と呼ぶらしいです。

The lonliness in the mountains is deepened especially in winter, for people seldom visit me and plants shed their leaves.

S先生:全体的にこれで良いと思いますが、especially in winter の前にカンマが必要だと思います。後半は軽く for という理由の節でつないでいて好感触です。

I feel very lonely at a hamlet in the mountains, especially in winter, for nobody comes to see me and all the grasses and trees die.

MP氏:In this mountain village it is in winter that I feel loneliest ー both grasses and visitors dry up.

N君:なるほどMP氏の作品は強調構文でした。最上級 lonliest の使い方がなんだか新鮮です。dry up は自動詞で「干上がる」の意。

K先輩:歳をとってからの独居、しかも男のわび住い、その上に冬、ということになると救いようがないですね。こういう時に使われる英単語に seclusion があります。元来は「隔離」の意で重要な抽象名詞ですが、米国では昔黒人を一か所に押し込めた、などの差別的な政策があったため独特の意味を持っています。日本史では「鎖国 a policy of seclusion」のところに登場しますが、この「鎖国」という単語は 1641鎖国完成時には存在しませんでした。1800頃「歴象新書」でニュートンコペルニクスを日本に紹介した長崎通詞志築忠雄(しづきただお)が独医ケンペル「日本誌」を翻訳した際に、初めて造語としての「鎖国」を使ったのです。それが今は普通に使われています。ちょうど幕末の長州藩で流行った「議員」が今普通に使われているのと同じです。さて鎖国とか隔離とか言えば穏やかではありませんが、隠遁・閑居と言えばグッと日本的になります。10代のピチピチした人には分からないでしょうが、人間ある程度歳を取ってくると何もかも嫌になって独り山の中で隠遁生活をしたくなるものです。「もうこれ以上頭の悪い人と話をしたくない」という理由です。こういう時に隠遁という言葉が魅力的に聞こえます。閑居もいい感じですね。1221承久の乱の頃に「閑居の友」(作者不明)という説話集が出ましたが、この中に「あやしの男、野原にて屍(かばね)を見て心を起こすの事」というお話が出てきます。これが実にイイ。イヤナニ、別にたいした話でもないのですがオジサンの心にはビンビン来るのです。聖人でもなんでもない普通の暮らしをしていた男が、ある時所用でちょっとした旅に出て河原の草むらで野宿した時に、偶然そこにころがっていた髑髏(しゃれこうべ)を見つけて、「ああ、人生なんて虚しいなあ、この人も生きていた時には家族に愛されていただろうに、死んでこんな姿になり果ててしまった、、、自分もこの先こうなるのかなあ、、、」などと感じ、急に仏道修行をしたくなり、仕事を辞め奥さんとも別れて漂泊の旅に出た、というお話です。一見奥さんが可哀そうですが、男は「仏道修行の功徳によって必ず君を極楽に導こう」と言って去ったそうです。13世紀前半のこの時期は既に末法の世に突入しており、いわゆる「中世の無常観」が漂っていました。中世の無常観を一言で言うと鴨長明方丈記』書き出し部分です。「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にはあらず。流れに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住処(すみか)と、またかくの如し。、、、、」。無常観に苛まれたであろうこの男の気持ちも分かりますが、奥さんと別れて仏道修行の旅に出る勇気は私にはありません。だってそんなことしたら夫婦二人で受け取ることのできる行政上のアドバンテージ(たとえば税額の控除)がなくなるし、なにより年金pension の面で不利だと思います。現代社会に生きる私としては、できるだけ健康で長生きして収入を得て、家族に経済的な問題が起きないようにすることが最も大切な勤めだと思っています。

1641鎖国完成:色良い返事、清と蘭

オリジナル勉強風呂Gu 第449回 2022.6/10

百人一首No.27. 中納言兼輔(かねすけ):みかの原わきて流るる川 いつ見きとてか恋しかるらむ

みかの原を二分するように湧いて出てくるように流れる泉川、その泉川ではないが、いったい何時見たというのでこんなにもあの人のことが恋しいのだろうか。

N君:「泉川」のイヅミと、「いつ見きとてか」のイツミとが、シャレになっていたとは分かりませんでした。「みかの原 分きて流るる泉川」を序詞(じょことば)と呼ぶそうで、この序詞が次の「いつ見」を引っ張り出しているそうです。一種の言葉遊びのようなものでしょう。

The water from the Mika Plateaus becomes the Izumi River.  I wonder when I met her.  Why on earth do I miss her so much ?

S先生:難しい歌を上手に作文していると思います。特に miss 「~がいなくて寂しい」を使うことで「恋しかるらむ」の気持ちを伝えようとしていて好感が持てます。When I met her ? とするよりも I wonder when I met her. とすることで「~かしら?」という感じだよく出ていると思います。N君の作文を読んだ後で作文すると、自分の考えがどんどんN君の方向に引っ張られている気がします。

Why do I miss her so much though I don't remember when I met her by the side of the River Izumi which flows through the Mika Plains ?

N君:S先生の作文によると、作者が彼女に逢ったのは泉川の川岸だったのですね。なるほどこうすると、話がつながりますね。

S先生:序詞を生かすために無理やりこのように作文してみました。by the side of というあまり雅でない句でつなぎましたが、自分としてはやや不満です。

MP氏:When was it I got my first glimpse ?  Like the Moor of Jars divided by the Izumi river, I am split in two ー so deep my longing for you.

N君:the Moor of Jars「広口瓶の荒野」ってどういう意味?

S先生:私にも分かりません。みかの原がちょうど広口瓶みたいな地形だったのでしょうか。MP氏に手紙を書いて質問してみるといいですね。そのことは別にして「自分も二つに割れている」という発想がスゴイ。

N先輩京都府の南、奈良県との境を東から西へゆったりと流れるのが木津川で、昔は泉川と呼ばれていました。その泉川の両サイドは盆地ふうの地形になっていて、奈良平城京の「まほろば」にも似た牧歌的な雰囲気が漂っており、このあたりを「みかのはら」といいます。ここは平安の昔、都で一線を退いた貴族たちの隠棲の場でした。第430回に出てきた宇治も隠棲の地でしたが、宇治は都に近くて1日あれば都へ行ける。しかし「みかのはら」はちょっと遠くて2~3日かかります。ここには海住山寺(かいじゅうせんじ)、浄瑠璃寺のような古いお寺がたくさんあります。そこにある仏像はどれもびっくりするくらいでかい。2014に京都国立博物館で「南山城(みなみやましろ)の仏たち」という特別展がありましたが、まずびっくりしたのは、展示場の入り口にこの中納言兼輔の歌がドドーンと掲示されていたことです。実際の展示では仏像たちの大きさに圧倒されました。兼輔が生きた930頃は末法思想が広まり始める頃でした。釈迦が生まれてはじめの500年間は「正法(しょうほう)の世」で、仏の教えがキチンと行われる世の中なのですが、次の1000年は「像法の世」、さらにその後は「末法の世」で、世の中は滅茶苦茶になると信じられており、それが1052から始まる予定でした。よって皆の関心は「どうやったら極楽浄土へ行けるのか」でした。年老いた貴族たちは「みかの原」に隠棲しつつも、寺々に立派な仏像を寄進して自らを極楽往生させようとしたのでしょう。仏像の大きさは彼らの極楽往生を願う心の現れなのでしょう。このような世情に沿って恵心僧都源信「往生要集」、慶滋保胤(よししげのやすたね)「日本往生極楽記」が書かれたのです。日本一の大天狗と言われた後白河法皇源平合戦の裏で権謀術数を働かせたことで有名ですが、彼の趣味は双六と今様でした。今様というのは流行歌みたいなもので、それを集めた本「梁塵秘抄」を編集するくらい好きでした。若い頃は朝から晩まで歌っていたそうです。1180頃のことです。その梁塵秘抄の中にも極楽往生を願う今様があります。それは「極楽浄土のめでたさは ひとつも虚(あだ)なることぞなき 吹く風立つ波鳥も皆 妙(たえ)なる法(のり)をぞ唱ふなる」という五七調の歌でした。誰も皆この10~11~12世紀の頃は極楽往生を心底望んでいたのです。恵心僧都源信空也が説いて回ったのは結局「現世ではなく来世で幸せになりましょう」という教え、すなわち浄土教でした。市聖(いちのひじり)空也醍醐天皇の御落胤で、梅干しの壺を乗せたリアカーを引いて京の辻々を回り、病人に梅干しを配って歩いたそうです。第433回に出てきた六道珍皇寺のすぐ近くに六波羅蜜寺という赤いお寺があって、ここへ行くと空也像を拝むことができます。その口からは六体の小さな仏が流れ出しています。南・無・阿・弥・陀・仏 というわけです。鎌倉時代の仏師康勝の作ですが、その発想が凄いと思います。この寺には空也像のほかにもう一つ目玉があってそれが「相国入道清盛の像」です。相国(しょうこく)というのは大臣くらいの意味です。頭は禿げ上がり体は老いさらばえて、うっすら見上げたその目は、その昔自分の母親(池禅尼)の説得に負けて命を助け伊豆へ流した頼朝を恨んでいるのでしょうか。国宝とか重要文化財というのはやっぱり迫力が違いますね。ちなみに我が国の国宝第1号は洛西にある広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像です。口元に僅かな微笑を湛えていて、これをアルカイックスマイルというのでしょうか、見ていると引き込まれそうになります。何かのことで心が荒れてしまった時に拝むことをお勧めします。奈良の中宮寺にもまったく同じ仏様がいらっしゃいますが、こちらは幾分大陸風で、和風が好きな方は広隆寺が良いでしょう。私が中宮寺に行った時に案内ボランティアの方に尋ねたところ、「弥勒菩薩半跏思惟像は中宮寺広隆寺ともに飛鳥時代の同時期に作られたが、中宮寺のほうは渡来人主導、広隆寺のほうは和人主導で作られたのでしょう」とおっしゃっていました。どちらも素晴らしいですが、私はどちらかというと広隆寺のほうが好きです。

オリジナル勉強風呂Gu 第448回 2022.6/9

百人一首No.26. 貞信公:小倉山(おぐらやま)峰のもみじ葉心あらば 今ひとたび行幸(みゆき)待たなむ

小倉山の峰の紅葉よ、お前に人間と同じ心があるのなら、次の行幸まで散らずに待っていてほしい。

N君行幸は「天皇が御所を出てどこかへ出かけること」を意味します。第447回でK先輩に解説して頂いた「未然形+誂え終助詞なむ」が早速登場しました。誂え(あつらえ)ですから、自分が~したい、ではなくて、相手に~してもらいたい、の意になります。ゆえにここでは「紅葉に待っていてもらいたい」となります。このことも第447回で教えてもらいました。勉強の成果は案外すぐに出ることもあるのですね、驚きました。

If you, colorful maple leaves of the Mt. Ogura, have the same heart as human beings, I would like to ask you to keep your beauty and wait for another opportuniy for the Emperor Daigo to come to see you.

S先生:上出来の作文ですが、Mt. Ogura に定冠詞を付けたのはいけません。ここは無冠詞が正しい。第435回=No.13陽成院の和歌を思い出して下さい。Mt. Tsukuba は無冠詞だったのに Minano River には定冠詞が付いていましたね。山には付かず川には付く。何故だか分かりません。英語で最も厄介なのが冠詞、と言われる所以です。冠詞の次は前置詞です。maple leaves of Mt. Ogura がよいのかそれとも maple leaves on Mt. Ogura がよいのか、という問題です。私自身はどちらでも良いと思ったのですが、実は趣味でやっている合唱団にいるイタリア系アメリカ人に尋ねたら「どちらかというと on のほうが良い」との返事でした。英語でもっとも厄介なのが冠詞、第2位が前置詞です。

Oh, maple leaves of Mt. Ogura, if you have the same heart as human beings, will you wait for the Emperor Daigo to come to see you again with your leaves unscattered ?

N君:S先生の作文の文末にある with your leaves unscattered は「葉が散っていない状況で」ととらえてよいですか。

S先生:その通りです。付帯状況ですね。

MP氏:Mt. Ogura, if you have a heart please wait for the emperor to pass this way before shedding on the peak your lovely autumn colors.

N君:if you have a heart の後にカンマがありません。emperor は大文字開始になっていません。shed の目的語が your lovely autumn color であり、on the peak という副詞句が挟まっているのでしょうか。

S先生:カンマはあるほうが分かりやすいですがMP氏くらいになると省略しがちなのかもしれません。他の歌でもこういうパターンを見ます。emperor が大文字になっていませんね。私もびっくりです。あまりこだわる必要もないのでしょう。shed は他動詞で「木が葉を落とす」の意です。on the peak を前に持ってきたのは二つの意味があると思います。第1は on the peak を強調したかった。第2は目的語が4単語から成っており重たいので後置した。どちらかというと第2のほうの理由でこうなったのでしょう。ちなみに shed には「小屋、物置」の意もあります。百人一首のシリーズでもよく登場する cot や hut と同じような意味です。こうしてみると shed, cot, hut ともに1音節で「ちっちゃい物置」みたいな雰囲気がありますね。

K先輩:901昌泰の変で菅原道真を追い落とした藤原時平の弟が忠平=貞信公です。道真贔屓の宇多天皇が退位して、醍醐天皇の御代となっています。さて、嵐山渡月橋天龍寺~野々宮神社~落柿舎(らくししゃ)~二尊院~常寂光寺~祇王寺~化野(あだしの)念仏寺~大覚寺~広沢池 の洛西散歩は少し距離がありますが、情趣溢れる素晴らしいコースです。春か秋の晴れの日に早朝からゆっくり時間をかけてハイキングすると良いでしょう。このコースの西に小倉山があります。そこに定家の息子為家の嫁はんの父=宇都宮頼綱の山荘がありました。頼綱が定家に「山荘の障子や屏風に古今の名歌を書いた色紙を貼って楽しみたいから、良い歌を100首選んでくれませんか?」と頼んだのがきっかけで、小倉百人一首が誕生したのです。定家は1162生まれですから、1156保元・1159平治の乱が済んで清盛が売り出し中の頃の生まれということになります。定家19歳=1181 は治承寿永年間で、1180が以仁王+源三位頼政の挙兵ですから、世は将に源平合戦の真っ最中ですが、この時の定家のセリフが凄いのです。「世上乱逆追討耳に満つと雖(いえど)も之を注せず」「紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾が事に非ず」と言い放ちました。紅旗征戎は白楽天「白氏文集(はくしもんじゅう)」の中に出てくる言葉で「戦争」の意です。すなわち定家は「今の世の中で繰り広げられている争い事など俺の知ったことか、俺は芸術の世界に生きるのだ !」と宣言したのです。世の人々が皆、源氏につこうかそれとも平氏がいいか、と右往左往している時に、弱冠19歳の少年が孤高を貫く態度を表明したのですからたいしたものです。その宣言通り定家は1205新古今集を編纂しました。905紀貫之古今集」から数えてちょうど300年後であることもなんだか因縁めいています。本歌は、紅葉が綺麗な小倉山への醍醐天皇のお出ましを太政大臣忠平が乞い願っている、という構図になっています。この歌が詠まれたのがちょうど905頃であって、醍醐天皇が貫之に古今集の編纂を命じた頃です。その歌がちょうど300年後に百人一首に選ばれて小倉山山荘の屏風を飾ることになろうとは、忠平も予想しなかったでしょう。歴史の偶然ですね。今では秋の行楽シーズンともなれば、洛西のこのあたりは観光客でごった返していますが、その中にあって祇王寺の森閑とした空気は最高です。竹林や苔むす庭の間に続くつづら折りの細道を歩いて草庵に達し畳に座って丸い吉野窓を眺めながら、清盛に捨てられた白拍子祇王の悲しみに思いを馳せてみましょう。

 

オリジナル勉強風呂Gu 第447回 2022.6/8

百人一首No.25. 三条右大臣:名にしおはば逢坂山のさねか

づら 人に知られでくるよしもがな

逢って寝るという名を持っているのならば、逢坂山のさねかづらよ、お前を手繰ればこっちへ来るように、誰にも知られないであの人を手繰り寄せる方法があればいいのになあ。

N君:「名に負う」は「その名に値する力がある」の意。「し」は強意の副助詞で、No.16中納言行平の「待つとし聞かば」にも出てきました。「くるよし」は「繰る方法」つまり「手繰り寄せるやり方」の意で、このあたりはかなり難しいです。そして本歌のメインは願望の終助詞「もがな」=「~したいなあ、~だったらいいなあ」で、これはNo.26貞信公やNo.93実朝の歌にも出てきます。受験生としては「もがな」は必須。

If the vines of Mt. Ohsaka really have the power of making love with their sweetheart, I would like to have a measure to lure you away without being noticed by anyone, as if I were pulling the vines

S先生:making love with its sweetheart はあまりにも表現が直接的過ぎるのと、their が vines を受けていて不自然です。そこでここは making one have a tryst with his sweetheart としましょう。have a tryst は「男女がこっそり逢う」の意ですから make love よりは格調が高いでしょう。

It is said that anyone can have a tryst with his sweetheart at Mt. Ohsaka.  If so, I wish I had a means to lure you away like pulling the vines there without being sensed by  anybody.

MP氏:If it is true to its name, the 'let-us-sleep-together vine,' that grows on Meeting Hill, how I wish I could draw you in to me ー like a tendril of that vine ー unknown to anyone.

N君:tendril「蔓(つる)」。MP氏の作品では逢坂山が Meeting Hill になっていて驚きました。さねかづらが let-us-sleep-together vine になっていて、うまいこと言うなあ、と思いました。後半の how 以下は感嘆文というよりも「どんなにか焦がれていることだろう」という情緒がほとばしっている文章のように感じました。

K先輩:本歌は結局「私は、あなたを、手繰り寄せたい」と謳っているわけですが、「私は」と「あなたを」が抜け落ちていて「手繰り寄せたい」だけが残り、それに変な修飾がくっついているわけです。SVO の S と O を抜かして V だけで判断してくれと言われても、それは無理な話で、私やN君をはじめとする理系人間にはまさにこの点が「分からない」のです。古文の先生には「S や O を欠く文章に出会った時にどうやって S や O を補ったらよいか」という観点からの授業をお願いしたいものです。そういう話なら理系人間も興味を持って聞くでしょう。さて今回は願望終助詞「もがな」が登場したので、その対抗馬として誂え(あつらえ)終助詞「なむ」にも触れておきましょう。誂える=注文する=相手が居てその相手に何かを頼む=自分がこうなりたいではなく相手にこうしてもらいたい、の意です。紫式部源氏物語」に憧れる文学少女菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が書いた更級日記の中に、慕っていた継母との別れの場面が出てきます。継母が「梅が咲く頃にはまた会えるでしょう」と慰めを言い、素直な少女は「早く梅が咲いて欲しいなあ」と願います。この場面での少女の「いつしか梅咲かなむ」という発言が大事です。「いつしか」は「早く早くとせかす感じ」の副詞。「咲かなむ」を「未然形+誂え終助詞なむ」と認識することが大切で、「早く咲いて欲しいなあ」の意になります。もしもここが「咲きなむ」だったら「連用形+完了ぬ未然形な+推量む終止形む」となって、「咲いたでしょう」の意になってしまいます。要するに「誂え終助詞なむ」は未然形接続だが、「完了助動詞ぬ」は連用形接続、ということです。助詞はともかくとして助動詞が何形に接続するかという問題は大切です。助動詞活用表を見ると、右から左へ向かって未然・連用・終止・体言・特殊 の順で並んでいますが、これを元素周期表のように眺めることが大事です。はじめは分からなくてもいいから、1日に1分でも2分でも眺めてみて下さい。そのうちに数列のような規則性をアチコチに発見することでしょう。

さてN君が触れた強意の副助詞「し」で思い出したフレーズがあります。太平洋戦争は1941=昭和16年12/8のパールハーバーから始まりましたが、早くも昭和17年頃から敗色が漂い始め昭和18年には客観的に見て日本の負けは明らかとなってきました。この時期に陸軍が戦意向上のために、古事記神武天皇東征伝から取ってきたフレーズが「撃ちて止(や)まん」でした。強意の副助詞「し」が使われています。「敵を撃ち、そうして、敵に損害を与えたら攻撃を止めよう」のような意です。もっと深読みすると「敵に損害を与えるまでは戦争を続ける」「勝つまでやる」ということになってしまいます。1943=昭和18年というのは日本が敗色濃厚となって悪あがきを始めた年です。陸軍がこの「撃ちてし止まん」のポスターを作ったり、学徒出陣が始まったり、東条英機首相がアジアの植民地解放を謳った大東亜会議を開いたりしました。しかし「貧すれば鈍す」とはこのことで、かえってアジア各地で抗日運動が燃え上がる始末でした。大東亜会議と紛らわしいのが1927=昭和2年東方会議です。明治維新の元勲井上薫は「明治は7の年に戦があった」と言いましたが、実際、1874=明治7年台湾出兵、1884=明治17年甲申事変、1894=明治27年日清戦争、1904=明治37年日露戦争、と来て日本はなんとかうまく波に乗ってきました。さらにちょうど10年後の1914=大正3年には第1次世界大戦が始まりました。欧州における戦争が日本に好況をもたらすと予感した井上は「これぞ大正新時代における天祐」という最期の名言を残して病死します。その予言どうり日本は大戦景気に沸いて船成金が続出しましたが、1918=大正7年に大戦が終結して国際協調の時代が来た途端に不況の波が押し寄せました。平和なのに不景気。こんなことなら戦争のほうがマシ、と考えた人も多くいました。そこへ1923=大正12年関東大震災です。震災手形の決済が進まず、1927=昭和2年若槻礼次郎内閣の片岡直温蔵相の失言から民衆が預金引き出しのために押し寄せたために銀行が営業不能となりました。金融恐慌です。若槻の後を引き継いだ田中儀一内閣が支払い猶予令(モラトリアム)を出して一旦落ち着きました。田中は国民の目を国外に向けるため積極外交に出ます。田中は東京の外務大臣官邸に中国関係の官僚を集めて「中国における日本の権益を力ずくで守る」ことを決め、日本人居留民保護との名目で山東省に出兵することとしました。これが東方会議と呼ばれるもので、それまでの国際協調を主唱した幣原(しではら)外交との決別を宣言したのです。こうなると大陸に展開する関東軍は勝手なことを始めます。1928=昭和3年には満州張作霖爆殺事件を起こします。時代はこのようにして、不景気から戦争へ向かってひた走るのでした。若き昭和天皇がこの件で田中を叱責したとの噂話もありますが、もっと強くブレーキをかけて欲しかった。このあとは1929=昭和4年ブラックマンデー、1930=昭和5年 金解禁と昭和恐慌、1931=昭和6年満州事変、1932=昭和7年五一五事件、憲政の常道が瓦解、満州建国、1933=昭和8年国際連盟脱退、1934=昭和9年ワシントン海軍軍縮条約破棄、1935=昭和10年国体明徴声明、1936=昭和11年二二六事件、1937=昭和12年盧溝橋事件、、、という具合にどんどんと戦争の泥沼にはまっていきます。あとから振り返ればいろいろと言いたいこともありますが、ただ一つ「すべての原因は貧乏だった」と言えるでしょう。そう、お金は大切、なのです。経済的に潤っていれば人と争うこともないですからね。今回は東方会議および大東亜会議をネタとして昭和の戦前を概観しましたが、この時期にはまだまだ重要事項が山ほどありますから、またどこかでお話しましょう。単に日本史の点数を上げる、というよりも、今後の人生のターニングポイントで間違いを犯さないようにするにはどうしたらよいか、を考えるための良い教材が揃っているのです。「お金は大切」「小さな間違いは仕方ない」「大きな間違いだけは回避しよう」のような人生訓を味わうことができるでしょう。

オリジナル勉強風呂Gu 第446回 2022.6/7

百人一首No.24. :菅家(かんけ):このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま) 紅葉の錦神のまにまに

今回の旅は幣を捧げることもできません。そのかわりに手向山の紅葉を幣として捧げるので、神様の御心のままにお受け取り下さい。

N君:菅家は菅原道真のことです。幣というのは神様に捧げるための布製の供物で、平安時代の人は旅に出る時に幣を何枚か持っていき、道中の祠に祀ってある道祖神に捧げて旅の無事を祈ったとのことです。今はもうこんな風習はなくなっていますが。

In this excursion, I can't prepare an offering to the deity.  Since I offer you God colorful maple leaves of Mt. Tamuke instead, will you accept my tribute just as like you ?

S先生:文頭の excursion に違和感があります。excursion は行楽のための団体小旅行で school excurtion のように使います。expedition は探検で、ある目的を持った比較的長い旅行を意味します。trip は小旅行で、ちょっとそこまで、という感じ。travel は比較的長期のちゃんとした旅行。journey は長期の雄大な旅というイメージです。本歌の場合がどれにあたるか悩みますが少なくとも excursion ではないでしょうから journey にしておきましょう。またその場合 In this journey ではなくて Going on a journey くらいの分詞構文でスタートするのが良いと思います。文末の just as like you「お好きなように」にも違和感があります。ここは一旦カンマで区切って , if you please「もしよろしければ」に変えるほうが良いでしょう。

Setting out on a journey, I can bring no offering to God.  God, will you accept the red leaves of Mt. Tamuke instead, if you please ?

MP氏:On this journey I have no streamers made of silk to offer up.  Gods, if it pleases you, may you take instead this beautiful brocade of Mt. Tamuke's autumn colors.

N君:MP氏の作品の第1文に出てきた streamer は「飾りリボン」のような意味です。これでようやく幣のイメージが湧いてきました。第2文は文末に ? がないので変だなと思っていたら、may で始まる祈願文でした。Mt. Tamuke という無生物名詞がまたまた所有格になっていますね。

S先生:もしかしたら手向山を擬人化しているのかもしれません。いずれにしてもN君が大学入試の英作文を書く時に、無生物の名詞を所有格として使うのはやめたほうが良いと思います。この件については第444回で述べました。

K先輩:本歌で使われている「とりあへず」は、「とりあえずビール!」の「とりあえず」とは違います。「動詞+あふ+打消」=「完全には~しきれない」の形は重要で、No.32春道列樹(はるみちのつらき)の歌にも出てくるので注意しておいて下さい。「幣を取る」=「捧げものの布切れを用意する」ことが完全にはできなかった、と作者菅原道真は言っているのです。右大臣文章博士の道真が宇多天皇ののお供をして奈良旅行に行った時の歌で、来るべき901昌泰の変(大宰府左遷事件)の影すら感じさせない上機嫌ですね。幣というのはN君も言っているように短冊みたいな布製の供物ですが、最近は見かけません。神社でお神楽を見ていたら鬼が出てきて、1メートルくらいの竹棒の両端にはたきのようにビラビラしたカラフルな布短冊をつけて踊っていましたが、もしかしたらあの布が幣の名残りかもしれません。とにかく幣というのは神様に「たむける」ものらしい。この「たむけ」の語変化に関して面白い話を聞いたことがあります。現代に比べて昔の旅は盗賊・病気・食料・宿泊など問題山積でしたから、道中の無事を神様にお祈りするミニチュアの祠(ほこら)のようなものがあちこちに設けられていました。道祖神というやつですね。日本は山国ですから山を越えて歩くこともしばしばでした。山の裾から登って行って見通しの良い中腹地帯に来た時、人間誰しも一休みしてついでに旅の安全を祈りたくなるものです。その中腹地帯で幣を手向けるのです。「たむけ → たうげ → とうげ」となって、そのような場所を峠と呼ぶようになりました。手向けが峠になったとは驚きですね。峠で一安心する、という心理は古事記にも見えます。稗田阿礼・大安万侶の手になる712古事記に倭武尊(やまとたける)の東征の話が出てきます。東征の途中に三浦半島から海路房総半島へ渡ろうとして愛妃弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を海の神に差し出さなければならなくなりました。弟橘は自ら海面に畳を浮かべて水へ入っていきました。その悲しい思い出をかかえながら彼は東征を終えて都への帰路に就きます。その途中、一休みした足柄山の峠で東方を振り返って「吾妻やは」と呟いた。「ああ我が妻よ、、、」と呟いたのです。その吾妻が東となり東国となり坂東となりました。東夷(あずまえびす)=関東の田舎者 などという言葉も生まれました。936下総国猿島(しもおさのくにさしま)で挙兵した平将門は典型的な東夷で、自らを新皇と称して暴れまわりました。ところで倭武尊が海を渡った三浦半島~房総半島の経路は、時代が下がって平安時代末期に、頼朝が神奈川県の石橋山合戦に敗れて海路を千葉県方面へ逃げる時にも使われました。このルートは大昔からあったことが分かります。

936 承平天慶の乱:草蒸す坂東、将門の乱