kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第451回 2022.6/12

百人一首No.29. 凡河内躬恒(おほしこうちのみつね):心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花

あて推量でもし折れるものならば折ってみようか、初霜で見分けがつかなくなった白菊の花を。

N君:第444回に登場した文屋康秀三河国掾でしたが、本歌の凡河内躬恒淡路国掾です。掾(じょう)というのは中央ではなく地方の国における四等官制「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」のナンバースリーにあたります。

Shall I, by guesswork, pick up a flower of white chrysanthemums which are difficult to be discriminated from the first frost ?

S先生:by guesswork は文頭に置くのも不自然だし、本当は文尾に置きたいのですが、N君の作文においては動詞以下が長いので文尾も不自然。よってこの場所しかないでしょう。pick up は「拾い上げる」の意であって、「折って取る」なら break off のほうが適当でしょう。

Shall I try breaking off the flowers of white chrysanthemums though it is difficult to distinguish them from the first frost ?

MP氏:I can only pluck at random for I cannot tell apart in all this whiteness ー white chrysanthemums from the first frost.

N君:すべて真っ白で区別がつかないのでランダムにに摘んでみるだけだ、という理論的な言い換えが新鮮でした。

K先輩凡河内躬恒淡路国掾とのことですが淡路島は今で言えば兵庫県。この兵庫県という所はスゴイのです。淡路+播磨+但馬+丹波の一部+摂津の一部=兵庫県、つまり5か国を含んでいるのです。こんな県は他にはありません。たとえば静岡県=伊豆+駿河遠江(とおとうみ) であるし、福岡県=豊前の一部+筑前筑後 であって、せいぜい3か国くらいの県が多いのです。宮崎県=日向 のように1か国の県もあります。兵庫県はどうしてこんなことになったのか? 明治の初めに欧米に対して開港されていた横浜・神戸・新潟・函館・長崎 のうち「神戸を持つ兵庫県の県勢力を大きくしておくべきだと大久保利通が言ったから」というのがその理由らしい。何事においても偉い人の最初の一言というのは大変です。そもそも1869=明治2年に京都から東京へ遷都したのも大久保の意志が強く働いており、令和の東京が東京たる所以の大部分は大久保によるものだと言っても過言ではないでしょう。さて東京と同じく令和の現在「横浜はレインボーブリッジや山下公園、神戸はポートアイランドや元町で有名で、オシャレな街というイメージが定着している」わけですが、そもそも幕末の頃は横浜も神戸も「ペンペン草も生えぬ寒村」でした。私は幕末開港前の横浜村の写真を見たことがありますが、それこそ浦島太郎が魚籠と竿を持って出てきそうな雰囲気でした。神戸にいたっては本当に何もなくて、勝海舟が地元の知人に「土地を買っておいたほうがいいよ」とアドバイスしても誰も信用しなかったそうです。横浜横須賀が現在のような繁栄を築くもとになったのは「幕府がフランスの協力下に造船所を作ったから」ですし、神戸のそれは「幕府が海軍伝習所を作ったから」です。もちろん1858井伊直弼(いいなおすけ)の違勅条約=日米修好通商条約において、この二つの港が開港されると決まったことがベースにあります。何事でも最初のきっかけが大切で、それから150年経過した現在、横浜・神戸の発展は目を見張るものがあります。日本国中にあるさびれた漁村を思い描き横浜・神戸との違いをイメージしてみて下さい。最初のきっかけ、もっと言えば「他が誰もやっていない早い時期に、それまでとは違う姿に変わる勇気」みたいなものが、時代の経過とともに驚くべき変貌をもたらし、想像もつかないものへと発展していく、ということがよく分かると思います。もしこのブログを読んでいる若い人がいたら私は言いたい。「じっとしていてはダメだ、動け、変われ」と。

精神論ばかりやってもダメなので日本史の勉強も少ししておきましょう。先程話に出た大久保利通について語ります。言わずと知れた幕末の薩摩藩士で西郷隆盛と並ぶ維新の元勲です。司馬遼太郎先生によると薩摩男児の間では「ギを言うな」ということが昔から言われていました。言われていたというより不文律で、体に染みついていました。「ギ」というのは議論とか理屈の意でしょう。男たるものツベコベ言わずに行動で示せ、というような処世訓です。西郷隆盛はモロにこの処世訓に沿って生き、そして1877=明治10年西南戦争で武士の無念を飲み込んだまま黙って死にました。しかし大久保は逆に「闊達に議論し周旋して明治新政府の基礎を作っていった」という人生で、その経過中の恨みを買って1878=明治11年に紀尾井坂で暗殺されました。その事績を追いかけてみましょう。幕末の京都における交渉では「はじめのうちは佐幕派会津藩と結んで長州を追い落としたのに、後半は寝返って薩長同盟を結んで倒幕を実現した」という薩摩藩の寝業師的な動きの中心に大久保がいた、と理解してよいでしょう。なかなか食えぬ男です。維新前夜の1867.12/9の小御所会議では、土佐藩山内容堂の反対を押し切って15代将軍慶喜の辞官納地(官職と領地の召し上げ)を決め、年明けからの武力倒幕=鳥羽伏見戦~江戸開城 への道筋をつけました。1869=明治2年にはなかば強引に東京遷都を実行し、明治4年からは岩倉具視木戸孝允と共に欧米を見て回り、留守中の内政にも注文をつけていました。学制・太陽暦・徴兵令・地租改正のような民衆に受けの悪い内政問題を明治4,5,6年くらいに済ませておき、西郷中心の征韓論も封殺しました。正しい判断だったと思います。帰国してからは明治7年の台湾出兵問題です。台湾の原住民が嵐で漂着した琉球漁民を斬殺したという事件があって、これに対抗するため、西郷従道(つぐみち、隆盛弟)に軍事を、岩崎弥太郎に運輸を任せ、台湾出兵を実行しました。その裏で単身北京に乗り込んで李鴻章相手に一歩も引かぬ交渉をやり切って、清国をして「今回の日本の台湾出兵は義挙である」と言わしめたのです。これは「琉球が日本国の領地の一部である」ということを明確に清国に認めさせた、という点において令和の現在にも意義ある事績と言えるでしょう。「何が大事なのか」を分かった上でウヤムヤにすることなくエネルギーを傾けた、その胆力が尋常ではなかったと私は思います。内務卿としては同じ薩摩の川路利良に東京邏卒隊(らそつたい、現在の警視庁)を組織させ、現在の警察の原型を作りました。また明治10年に上野山にて第1回内国勧業博覧会を開いて殖産興業の基礎を作りました。不平士族問題に対しては明治7年佐賀の乱から始まって明治10年西南戦争までを戦い抜き、鎌倉以来続いてきた「武士の世」を本当の意味で終わらせました。その合間を縫って明治8年には大阪会議で木戸・板垣を懐柔し参議として国政復帰を促すとともに、元老院大審院・地方官会議が設置され、「漸次立憲政体を立つるの詔」も出されて、瓦解しかかった新政府を首の皮一枚で支えました。元老院参議院大審院は裁判所、地方官会議は各県議会の原型です。大久保の孫が1951=昭和26年サンフランシスコ講和条約吉田茂、その孫が麻生太郎さんです。大久保は「ギを言うな」という薩摩男児の処世訓とは別の道を行ったかもしれませんが、並みの維新志士に比べれば100倍の仕事をこなした偉人で、もし彼がいなかったら日本はどうなっていたか分かりません。民衆には不人気でしたが、このような人物こそが令和の日本を深いところで支えてくれているのだと私は思います。

1863八月十八日の政変:一派霧散の七卿落ち

1951サンフランシスコ講和会議:遠くの恋のサンフランシスコ