kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第447回 2022.6/8

百人一首No.25. 三条右大臣:名にしおはば逢坂山のさねか

づら 人に知られでくるよしもがな

逢って寝るという名を持っているのならば、逢坂山のさねかづらよ、お前を手繰ればこっちへ来るように、誰にも知られないであの人を手繰り寄せる方法があればいいのになあ。

N君:「名に負う」は「その名に値する力がある」の意。「し」は強意の副助詞で、No.16中納言行平の「待つとし聞かば」にも出てきました。「くるよし」は「繰る方法」つまり「手繰り寄せるやり方」の意で、このあたりはかなり難しいです。そして本歌のメインは願望の終助詞「もがな」=「~したいなあ、~だったらいいなあ」で、これはNo.26貞信公やNo.93実朝の歌にも出てきます。受験生としては「もがな」は必須。

If the vines of Mt. Ohsaka really have the power of making love with their sweetheart, I would like to have a measure to lure you away without being noticed by anyone, as if I were pulling the vines

S先生:making love with its sweetheart はあまりにも表現が直接的過ぎるのと、their が vines を受けていて不自然です。そこでここは making one have a tryst with his sweetheart としましょう。have a tryst は「男女がこっそり逢う」の意ですから make love よりは格調が高いでしょう。

It is said that anyone can have a tryst with his sweetheart at Mt. Ohsaka.  If so, I wish I had a means to lure you away like pulling the vines there without being sensed by  anybody.

MP氏:If it is true to its name, the 'let-us-sleep-together vine,' that grows on Meeting Hill, how I wish I could draw you in to me ー like a tendril of that vine ー unknown to anyone.

N君:tendril「蔓(つる)」。MP氏の作品では逢坂山が Meeting Hill になっていて驚きました。さねかづらが let-us-sleep-together vine になっていて、うまいこと言うなあ、と思いました。後半の how 以下は感嘆文というよりも「どんなにか焦がれていることだろう」という情緒がほとばしっている文章のように感じました。

K先輩:本歌は結局「私は、あなたを、手繰り寄せたい」と謳っているわけですが、「私は」と「あなたを」が抜け落ちていて「手繰り寄せたい」だけが残り、それに変な修飾がくっついているわけです。SVO の S と O を抜かして V だけで判断してくれと言われても、それは無理な話で、私やN君をはじめとする理系人間にはまさにこの点が「分からない」のです。古文の先生には「S や O を欠く文章に出会った時にどうやって S や O を補ったらよいか」という観点からの授業をお願いしたいものです。そういう話なら理系人間も興味を持って聞くでしょう。さて今回は願望終助詞「もがな」が登場したので、その対抗馬として誂え(あつらえ)終助詞「なむ」にも触れておきましょう。誂える=注文する=相手が居てその相手に何かを頼む=自分がこうなりたいではなく相手にこうしてもらいたい、の意です。紫式部源氏物語」に憧れる文学少女菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)が書いた更級日記の中に、慕っていた継母との別れの場面が出てきます。継母が「梅が咲く頃にはまた会えるでしょう」と慰めを言い、素直な少女は「早く梅が咲いて欲しいなあ」と願います。この場面での少女の「いつしか梅咲かなむ」という発言が大事です。「いつしか」は「早く早くとせかす感じ」の副詞。「咲かなむ」を「未然形+誂え終助詞なむ」と認識することが大切で、「早く咲いて欲しいなあ」の意になります。もしもここが「咲きなむ」だったら「連用形+完了ぬ未然形な+推量む終止形む」となって、「咲いたでしょう」の意になってしまいます。要するに「誂え終助詞なむ」は未然形接続だが、「完了助動詞ぬ」は連用形接続、ということです。助詞はともかくとして助動詞が何形に接続するかという問題は大切です。助動詞活用表を見ると、右から左へ向かって未然・連用・終止・体言・特殊 の順で並んでいますが、これを元素周期表のように眺めることが大事です。はじめは分からなくてもいいから、1日に1分でも2分でも眺めてみて下さい。そのうちに数列のような規則性をアチコチに発見することでしょう。

さてN君が触れた強意の副助詞「し」で思い出したフレーズがあります。太平洋戦争は1941=昭和16年12/8のパールハーバーから始まりましたが、早くも昭和17年頃から敗色が漂い始め昭和18年には客観的に見て日本の負けは明らかとなってきました。この時期に陸軍が戦意向上のために、古事記神武天皇東征伝から取ってきたフレーズが「撃ちて止(や)まん」でした。強意の副助詞「し」が使われています。「敵を撃ち、そうして、敵に損害を与えたら攻撃を止めよう」のような意です。もっと深読みすると「敵に損害を与えるまでは戦争を続ける」「勝つまでやる」ということになってしまいます。1943=昭和18年というのは日本が敗色濃厚となって悪あがきを始めた年です。陸軍がこの「撃ちてし止まん」のポスターを作ったり、学徒出陣が始まったり、東条英機首相がアジアの植民地解放を謳った大東亜会議を開いたりしました。しかし「貧すれば鈍す」とはこのことで、かえってアジア各地で抗日運動が燃え上がる始末でした。大東亜会議と紛らわしいのが1927=昭和2年東方会議です。明治維新の元勲井上薫は「明治は7の年に戦があった」と言いましたが、実際、1874=明治7年台湾出兵、1884=明治17年甲申事変、1894=明治27年日清戦争、1904=明治37年日露戦争、と来て日本はなんとかうまく波に乗ってきました。さらにちょうど10年後の1914=大正3年には第1次世界大戦が始まりました。欧州における戦争が日本に好況をもたらすと予感した井上は「これぞ大正新時代における天祐」という最期の名言を残して病死します。その予言どうり日本は大戦景気に沸いて船成金が続出しましたが、1918=大正7年に大戦が終結して国際協調の時代が来た途端に不況の波が押し寄せました。平和なのに不景気。こんなことなら戦争のほうがマシ、と考えた人も多くいました。そこへ1923=大正12年関東大震災です。震災手形の決済が進まず、1927=昭和2年若槻礼次郎内閣の片岡直温蔵相の失言から民衆が預金引き出しのために押し寄せたために銀行が営業不能となりました。金融恐慌です。若槻の後を引き継いだ田中儀一内閣が支払い猶予令(モラトリアム)を出して一旦落ち着きました。田中は国民の目を国外に向けるため積極外交に出ます。田中は東京の外務大臣官邸に中国関係の官僚を集めて「中国における日本の権益を力ずくで守る」ことを決め、日本人居留民保護との名目で山東省に出兵することとしました。これが東方会議と呼ばれるもので、それまでの国際協調を主唱した幣原(しではら)外交との決別を宣言したのです。こうなると大陸に展開する関東軍は勝手なことを始めます。1928=昭和3年には満州張作霖爆殺事件を起こします。時代はこのようにして、不景気から戦争へ向かってひた走るのでした。若き昭和天皇がこの件で田中を叱責したとの噂話もありますが、もっと強くブレーキをかけて欲しかった。このあとは1929=昭和4年ブラックマンデー、1930=昭和5年 金解禁と昭和恐慌、1931=昭和6年満州事変、1932=昭和7年五一五事件、憲政の常道が瓦解、満州建国、1933=昭和8年国際連盟脱退、1934=昭和9年ワシントン海軍軍縮条約破棄、1935=昭和10年国体明徴声明、1936=昭和11年二二六事件、1937=昭和12年盧溝橋事件、、、という具合にどんどんと戦争の泥沼にはまっていきます。あとから振り返ればいろいろと言いたいこともありますが、ただ一つ「すべての原因は貧乏だった」と言えるでしょう。そう、お金は大切、なのです。経済的に潤っていれば人と争うこともないですからね。今回は東方会議および大東亜会議をネタとして昭和の戦前を概観しましたが、この時期にはまだまだ重要事項が山ほどありますから、またどこかでお話しましょう。単に日本史の点数を上げる、というよりも、今後の人生のターニングポイントで間違いを犯さないようにするにはどうしたらよいか、を考えるための良い教材が揃っているのです。「お金は大切」「小さな間違いは仕方ない」「大きな間違いだけは回避しよう」のような人生訓を味わうことができるでしょう。