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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第452回 2022.6/13

百人一首No.30. 壬生忠岑(みぶのただみね)有明のつれなく見えし別れより あかつきばかり憂きものはなし

明け方の月が素っ気なく見えた、その素っ気ない別れ以降、私は「(宵闇よりも)明け方こそが最も辛い」と思うようになった。

N君:「つれなく見えし別れより」の「より」が、比較ではなくて時間の起点を表していることを知るのに時間を要しました。

A morning moon seemed to be indifferent to me when I was forced to part from her.  I have come to feel the most mournful at dawn since then.

S先生:いやいや別れた、という気持ちを be forced to part from ~ で表したのでしょうが、ちょっと無理があるような気がします。ギリギリセーフとしておきましょう。

A morning moon looked so heartless to me when I was forced to part from my sweetheart.  Nothing is so dismal as an early morning.

N君:dismal「憂鬱な」、dismay「狼狽」、dismiss「解雇する」。研究社の辞書によると the dismal science「陰気な学問」というのは経済学の異称だそうです。実社会ではどうやっても最後は不景気に終わるからでしょうか。

MP氏:Nothing is so miserable as the hour before dawn since I parted from you ー The look on your face then cold as the morning moon.

N君:なるほど、さっき夜明けに訪ねて行ったら拒絶してきた彼女の顔が有明の月にも似て素っ気なかった、というわけですね。この想像力には脱帽です。

K先輩:今回は壬生つながりで壬生寺について語ります。京都駅から北西に20~30分くらい歩くと住宅街の真ん中に壬生寺(みぶでら)があります。それほど大きな寺ではなくまずまず中くらいでしょう。壬生寺といえば新撰組です。1863に14代将軍家茂が孝明天皇に対して「攘夷の誓い」を立てるために上洛した際、将軍警護および洛中治安維持の目的で「関東の荒くれ者ども」=浪士隊 を引き連れて行きました。その中心は清河八郎山岡鉄舟らでしたが、中味は、水戸の脱藩浪士あり、日野の豪農あり、一旗揚げようと目論む浮浪者あり、で、まとまりを欠いていました。元々京都には京都所司代所轄の見回り隊があったのですが戦闘力不足ゆえ、この荒くれ者どもを加えたというわけです。ちなみに将軍が上洛するのは2代秀忠以来ということですから200年をゆうに越えています。1853ペリー来航以来幕府の権威低下は明らかで、この時も将軍の行列が洛中を進む時に、雑踏の中にいた高杉晋作が大声で「イヨッ、大将軍!」と声を掛けましたが結局お咎めなしで済んでいます。10年前なら即座に斬り捨てられていたでしょう。さて浪士隊ですがその身分は「佐幕派会津藩の預かり」すなはち武士として遇したのです。荒くれ者どもにとって武士の身分は魅力的でした。誘蛾灯に集う夏虫の如くたちまち200名が参加しました。当時「京は長州の京か」というくらいに長州の尊王攘夷論が公家を巻き込んで喧伝されており、その勢いを背景にした朝廷は幕府に具体的な攘夷決行を迫っていたのです。幕府は「攘夷など無理」と分かっていたものの、勅を下された手前「5月10日をもって外国船を打ち払います」と朝廷に対して約束してしまい、その確認のために家茂が上洛したというわけです。このあたりの本音と建前の構造が昔も今も日本では変わりなく続いていますね。さて幕府としても朝廷の背後で長州が糸を引いていることは先刻承知であって、「ここは長州の手に乗って将軍上洛を受け入れるが、同時に浪士隊を準軍事警察集団として京都に送り込んで、逆に主導権を握ってやろう」という意図を持っていたのです。浪士隊はすったもんだの内紛を繰り返しながら「新撰組」と改名して、壬生寺にて軍事調練をしつつ次第に純化していきます。最大の内紛は「芹沢鴨(せりざわかも)暗殺事件」でしょう。新撰組筆頭局長芹沢鴨の一派は、ゆすり・たかり・喧嘩・かどわかし・放火 などなどヤクザも真っ青の不埒な奴らであったため、一般の隊士たちの怒りは沸点に達していました。ある晩酔って壬生寺傍らの八木邸で眠り込んでいた芹沢は情婦お梅ともども切り殺されました。下手人は実ははっきりしないが鬼の副長土方歳三が加わっていたことは間違いないでしょう。局長近藤勇は直接には手を下していないが暗殺計画を把握していたでしょう。私は八木邸に行って芹沢が暗殺された部屋を見せてもらいましたが、頭上の障子の桟(さん)に芹沢の刀痕がはっきりと残っていました。新撰組にしろ日本赤軍にしろオウム真理教にしろ、思想的に尖った暴力的組織というものの内部では、必ず「粛清」という名の内部抗争が常態化してくるものです。同じことは共産党社会主義の国々の成立過程でもさんざん起きました。あまり一つのことに拘泥するのは考えものですね。当時の京都の民衆や、現代人の中でも、「キャー、新撰組カッコイイ」なんて言う人もいますが、実際はどうだったのでしょうか。研究者から聞いた話では「当時の京都の民衆は新選組を怖がっており、迷惑な存在として捉える者も多かった」とのことです。確かに近藤・土方に率いられた新撰組は純粋に国のことを思って活動したとは思いますが、その佐幕的な活動は結果からみて誤っており、また明治日本を率いていくはずだった有能な人々をあまりにも多く殺してしまった、と私は思います。特に1864池田屋事件では、肥後藩宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州藩吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐藩望月亀弥太(もちづきかめやた) らが亡くなっています。この事件の直前に土方は捕縛した長州藩士古高俊太郎を八木邸近くの前田邸の蔵に逆さ吊りにして拷問し、祇園祭の晩に三条木屋町池田屋で密談が行われる情報を仕入れたと言われています。私はその蔵を見に行ったのですが、暗くて湿気の多いイヤーな所でした。なお長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)は本来参加するはずだった池田屋の会合に不穏な空気を感じて参加せずに難を逃れています。のちに芸妓幾松と城崎(きのさき)温泉へ逃避行したなどの行動とも合わせて「逃げの小五郎」と揶揄される嗅覚の鋭さでした。池田屋は令和の現在、流行りの居酒屋になっていて、そのあまりの軽さに歴史ファンの私は唖然とするほかありません。試しに私も友人と二人で入ってみたのですが「女子受けするオシャレな居酒屋」でした。まあ街中ですからどうしてもこういうふうになるんですかね。

1853ペリー来航

1858日米修好通商条約

1861=文久1年 

1862=文久2年

1863=文久3年

1864長州藩重苦:池田屋+蛤御門+長州征伐+国艦隊