kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第455回 2022.6/16

百人一首No.33. 紀友則(きのとものり):ひさかたの光のどけき春の日に 静心(しずこころ)なく花の散るらむ

陽がのどかにさす春の日だというのに、桜の花は落ち着いた心がないから次々と散っているのだろう。

N君:枕詞「ひさかたの」が「光」にかかっています。最後のところの「らむ」は現在推量の助動詞です。全体的な歌意は分かり易い。

Why are cherry blossoms scattering even in this warm spring day filled with sunshine ?  I wish they would appreciate this vernal atmosphere carmly.

S先生:やや冗長な面もありますが、よく書けていると思います。

On a calm sunlit vernal day, why are the cherry blossoms falling on so restlessly ?

N君:falling on の on はどういう意味合いですか。

S先生:これは継続の意を表す on です。

MP氏:Cherry blossoms, on this quiet lambent day of spring, why do you scatter with such unquiet hearts ?

N君:lambent「ゆらめく、淡く光る」。桜に対してまず呼びかけをして、後で you で受けると親近感がありますね。それと quiet vs unquiet の対比が印象的でした。

K先輩:今回はN君も触れていた現在推量助動詞「らむ」に関してその文法的な諸問題について考えてみましょう。ここは古典文法のヤマ中のヤマなので受験生諸君にとっては得るところ大でしょう。はじめに言いたいことは「現在推量助動詞の【らむ】ではない『らむ』がたくさんあってややこしい」ということです。例を挙げていきましょう。第1例目は伊勢物語の筒井筒から取ります。筒井筒というのは幼馴染の男女に次第に恋心が芽生えて二人は結婚しその後男が浮気をするけれども最終的には元の鞘に収まる、という happy end のお話です。世阿弥が能「井筒」の題材にしました。そういえばデパートに「井筒屋」というのがありますが何か関係があるのでしょうか。さて筒井筒ですが、浮気をしている自分に対してあまりにも優しい妻を訝しく思った男の心中を描写している場面です。「男、異心(ことごころ)ありてかかるにやあらむと思ひ疑ひて、前栽(せんざい)の中に隠れゐて、、、」。もしかして自分が不在の間に変な男が通ってきているのではなかろうか、と疑った夫が物陰から女房の行動を監視しようとしています。ここの「あらむ」は「四段動詞あり未然形あら語尾ら+推量助動詞む終止形む」です。推量助動詞「む」は未然形接続なので、助動詞活用表の右のほうにあります。理系の諸君はメンデレーエフの元素表と同じイメージでとらえましょう。第2例目は枕草子です。中宮定子が清少納言に謎をかける場面で「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と問いかけます。定子・清少の心には白居易(白楽天)の詩の一節「遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き 香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る」が響き合っていて、定子のこの言葉を聞いた清少は黙って簾を上げます。江戸時代の初めころに活躍した絵師土佐光起(とさみつおき)がこの場面を描いているのでネットで探してみて下さい。さてこの部分の「ならむ」ですが、「形容動詞いかなり未然形いかなら語尾ら+推量助動詞む終止形む」です。第1例目と似ていますね。第3例目は徒然草から。「生けらむほどは武に誇るべからず」は「生きているうちは武力に頼るな」の意味です。「ほど」の訳し方が難しいですね。ここの「生けらむ」は「四段動詞生く命令形生け+完了存続助動詞り未然形ら+推量助動詞む連体形む」であって、基本的な構造は第1・2例目と変わりないが、「完了存続助動詞り」が命令形接続であるという特殊な事情に気付く必要があります。この接続様式はかなり特殊であって、助動詞活用表の左端にあるので注意して確認してみて下さい。以上3例ともにいはば偽物の「らむ」だったわけですが、本歌に出てくる「散るらむ」の「らむ」こそが本物の現在推量助動詞「らむ」です。目の前の事実に対してその原因理由を推量していています。眼前に散りゆく桜、何故? どうして? なぜそんなに急いで散っていくの? という気持ちがあって、落ち着いた心がないから散っていくのでだろう、と推量しているのです。結局4種類の「らむ」を示したわけですが、こういうことを言われても皆さんすぐに忘れてしまうでしょう。私もすぐ忘れます。このことに関して明治大正昭和を生きた文学者内田百閒(うちだひゃっけん)は次のように述べています。「知らないという事と忘れたという事は違う、忘れるためには学問をしなければならない、何もかも忘れた後に本当の学問の効果が残るのだ」と。とても良い言葉ですね。東大文学部史学科の磯田道史先生が朝日新聞で紹介していました。我々は、勉強した内容を忘れてしまうことをあまり心配する必要はないのです。一旦覚えてその後に忘れた事は、ずっと後々になって必ずその人に効いてくるのであるから、心配せずに勉強すれば宜しい、こうして教養が身についていく。百閒先生は我々にそう語りかけてくれていると思います。