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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第518回 2022.8/18

百人一首No.96 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん):花誘ふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

桜の花を誘って散らす嵐が吹く庭では、まるで雪が降るように花弁が舞っているが、実は雪ではなく、真に古りゆくものはこの我が身なのだったなあ。

N君:なんだか深い歌です。

A spring storm blows away the cherry blossoms as if it were snowing.  The scene reminds me that it is neither blossoms nor snow but I myself that am scattering.

S先生:第2文はthat節の中が強調構文になっています。その中の関係代名詞that のすぐ後が am になっています。先行詞が複数存在する場合は that に最も近い先行詞に合わせた動詞を使うので、ここでは I myself に合わせて am になっています。全体としてとても良い出来で、以下に示した私の作文もだいたい同じ構成になっています。

A spring storm are scattering away the cherry blossoms as if it were snowing in my garden.  Yet it is neither blossoms nor snow but I myself that are really growing old to death.

MP氏:As if lured by the storm the blossoms are strewn about white upon the garden floor, yet all this whiteness is not snow ー rather, it is me who withers and grow old.

K先輩:第430回に登場した小野小町が容色の衰えを嘆いた歌「花の色は」は女性らしくて良かったですが、本歌も老境に達した男の寂しさを存分に伝えていて素晴らしいです。本歌作者は西園寺公経(きんつね)で、1221承久の乱の前後において京に居ながら鎌倉方と気脈を通じていた貴族でした。後鳥羽院からは疎まれましたが、乱後は2代執権北条義時のおぼえめでたい存在となり太政大臣まで昇りつめました。鎌倉幕府草創期の頼朝に対する九条兼実的な存在だったと考えればよいでしょう。西園寺家の子孫で最も有名なのが公望(きんもち)さんでしょう。明治の終わりに首相を2回務め、大正~昭和初め に元老として我が国の行く末を心配しました。亡くなったのが1940=昭和15年 なので太平洋戦争前夜ですね。後ろ髪を引かれる思いだったでしょう。今回は、どのような事情で米英との無謀な戦争を始めることになったのかを振り返ってみましょう。第447回において大正から昭和初めにかけての我が国の経済状況の悪化と軍部の台頭を概観し昭和11年=1936 の二・二六事件昭和12年=1937 の盧溝橋事件までお話しました。ひとつだけ話し忘れていた昭和8年=1933 のゴーストップ事件の話から始めましょう。この年はリットン調査団満州国に関する報告のもとで、日本が国際連盟から脱退して孤立を深めた年でした。最近亡くなった半藤一利氏が著書「昭和史 上下巻」で「このゴーストップ事件以降、軍部の専横がひどくなった」と力説していました。ゴーストップというのは交差点にある信号機のことです。この年の夏に大阪のとある交差点で交通整理業務をしていた巡査Tは、赤信号を無視してスクーターで交差点を横切った陸軍一等兵Nを停車させ、派出所へ連行しました。Nはこの日は非番で映画を見に行く途中とかで公務だったわけではありません。Nの尊大な態度に業を煮やしたTの取り調べが激しくなり、成り行き上殴り合いのケンカに発展しました。NもTも20歳代ですから血気盛んです。最終的に陸軍・警察のトップまで話が及んで、互いに一歩も引かぬ争いとなったのです。冬になりこの諍いが昭和天皇の耳にまで届き「天皇が心配している」と伝え聞いた両トップは急に態度を軟化させ、NとTに握手をさせて表面的な解決を図ったのです。しかしとうとう最後まで陸軍が警察に謝罪することはありませんでした。誰がどう考えてみても陸軍は警察に謝罪すべきでしょう。それを謝罪しなかった、ということは「我ら陸軍こそが国を守っているのだ」という尊大な考えが根底にあったからです。「警察なんぞは黙っておれ」と。無理が通れば道理は引っ込む。この事件を境にして日本はどんどん唯我独尊・孤独・戦争への道をひた走ります。昭和12年=1937盧溝橋事件に至って中国との本格的な軍事衝突が始まってしまいました。その背後には明治期の日清日露および大正期の第1次世界大戦で培われた戦勝気分と、中国朝鮮に対する徹底的な蔑視感情がありました。「驕り高ぶり人を見下す」。平家と同じです。

今回はこのあと昭和16年=1941の12月8日の開戦までを追いかけてみましょう。1937=昭和12年の七夕の日に「身長が高くて見栄えが良いから」という理由で近衛文麿首班指名を受け組閣した途端に、盧溝橋で日中の戦闘が始まってしまいました。鉄砲もって軍隊がにらみ合っていたらそうなりますよね。近衛は不拡大方針を発表したものの本腰が入っておらず戦線は北から南へ次々に拡大し、日中は宣戦布告もないまま戦争に入っていきました。広大な中国大陸を行く日本軍を歌った「麦と兵隊」という唄がありました。【徐州徐州と人馬は進む 徐州居よいか住みよいか 洒落た文句に振り返りゃ お国訛りのオケサ節 髭が微笑む麦畠】。年末になって日本軍は首都南京を占領しましたが、この時日本軍が無辜の市民を多数虐殺した(←中国では20万人と言われている)という南京事件があり、この件は令和の現在も日中間で問題になっています。中国軍は南京からさらに内陸部の重慶にしりぞいて徹底抗戦を続けたため戦争は泥沼化していきました。戦争というものは始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。彼我の情勢を充分吟味して見通しをつけておくべきで、この点、日露戦争の時の伊藤博文枢密院議長(首相は若き桂太郎)の密命を帯びた金子堅太郎が米国セオドア=ルーズベルト大統領に接触して1905ポーツマス条約(外相小村寿太郎 vs 露全権ウィッテ)へのお膳立てをした手腕は見事でした。昭和12年のこの時に日中戦争の収束を見通した陸軍幹部は居なかったのか? 威勢だけはよいが脳みそ空っぽで後先の見通しのつかない無責任野郎たち、と私は思っています。年が明けて昭和13年=1938 になり近衛の有名な声明「蒋介石の国民政府を対手(あいて)とせず」が出ます。蒋介石を認知せず汪兆銘を首班とする傀儡政権を南京に樹立させました。しかし日本のこのような独善的手法が受け入れられるわけもなく、蒋介石は米英ソの援助を受けながら日本への抗戦を続けました。一連の日本政府の方針を非難した東大教授陣(矢内原忠雄大内兵衛河合栄治郎)が失職に追い込まれました。そしてついに国家総動員法が出ました。その第1条を読んでみましょう。「本法に於いて国家総動員とは、戦時に際し国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮せしむるよう人的および物的資源を統制運用するを謂う」。政府は議会の承認なしに国民生活・経済全般を統制するようになったのです。完全におかしな方向に行っているわけですが、そのおかしな政府の尻馬に乗るが如く国民のほうも国民精神総動員運動を展開し、産業報国会なるものを結成したのです。町内会も青年団も婦人会も労働組合も農会も皆参加しました。新聞も同様。世の中の雰囲気に流されて準戦時体制をあおります。そのほうが売れますからね。ここまでが第1次近衛文麿内閣の主な出来事ですが、背筋を伸ばして高い所から時局を見渡す人材が完全に欠落していることが分かります。一種の社会的なヒステリーと言ってよいでしょう。令和の現在に起きたコロナ騒動にもおおいにそういう面がありますね。任意という名の半強制的なワクチン接種の風潮に乗るのは、個人の健康面からも国の財政面からも、相当に危ない行動だと私は思います。さて1938の中国大陸において蒋介石が米英ソの援助を受けながら対日抗戦をやり続けた、という構図は、2022のウクライナにおいてゼレンスキー大統領がNATO諸国の援助を受けながら対露抗戦をやり続けている構図と全く同じであることに注目してください。この結果として日本には1945に原爆が投下されました。全く同様に、2030頃にモスクワがどうなっているか、誰にも分かりませんが相当にヤバい状況です。ちなみにNATOというのは北大西洋条約機構 North Atlantic Treaty Organization のことで、場所的に日本は無関係なのですが「日本はやることなすことNATOと同じ」ということで、皮肉を込めて「日本もNATOだ」と言う人がいます。No Action, Talk Only とね。

さて年も改まって昭和14年=1939 です。内閣の首班は近衛から平沼騏一郎へ変わりました。この人は司法官僚で明治44年=1911大逆事件では幸徳秋水に死刑を求刑した検事を務めていた人物として有名です。この年は満州国境付近で日ソが軍事衝突したノモンハン事件がありました。事件、というと小さい出来事のように聞こえますが実際は国境を巡る本格的な戦争で、日本軍は大敗を喫しました。このように都合の悪いことを小さく扱う、という時点でアウトです。ことの重大性を自覚した政府は国民徴用令・価格統制令を出し国民生活はますます息苦しいものになっていきます。「贅沢は敵だ」というわけです。この年は米英との貿易も細りついには日米通商航海条約も破棄されて資材資源の入手が困難になったため、日本は石油を求めて南方のインドシナ半島へ進出していかざるをえなくなったのです。中国大陸だけでも戦線が伸びきっているのに、さらに南方への転進など狂気の沙汰です。補給が全く追いつきません。おかしなことがもうひとつ。日本はもともと共産国家へのアレルギーが強く昭和11年=1936に日独防共協定を結んでいたのに、その親玉たるドイツがこの昭和14年=1939 に突如として独ソ不可侵条約を締結したのです。ノモンハンで日本が手痛い敗戦を喫した相手の共産主義国ソ連と、日本が防共の親玉と頼むドイツとが、日本の頭上で握手したようなものです。この報に接した平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という捨て台詞を残して総辞職してしまいました。国内で国民精神の一本化を目指して頑張っていたのに、大陸では戦線を南方に拡大せざるをえず、かつ欧州では独ソの動きに振り回されて、めまいがして立っていられない、といった状況です。

この後は陸軍の阿部信行が半年、海軍の米内光政が半年、内閣の首班を務めましたが、やったことは「砂糖・木炭・マッチなどの配給制」でした。昭和15年=1940 はちょうど都合の悪いことに「紀元2600年」でした。神武天皇が即位してちょうど2600年というわけで国威発揚のための一大イベントが開かれました。そうして満を持して近衛文麿の再登場です。悪い時に悪い人事が重なるものです。ここで近衛さんが踏みとどまってくれれば良かったのですが、もとが優しいお公家さんですから主体的な行動を期待するほうが無理というものかもしれません。必要なのは「優秀さでも見栄えの良さでも品格でもなくただ単に胆力」だったのです。この年は色々なことが一気に戦争へ接近していきます。まず陸軍が北部仏印(仏印はフランス領インドシナの略)へ進駐して援蒋ルートを遮断しようとします。これだけでも日本の印象は最悪ですが、外相松岡洋右(まつおかようすけ、1933国際連盟脱退の際の日本全権)が日独伊三国軍事同盟を締結したため、日本と米英との対立は決定的となりました。ここまで来たらもう戻れません。国内では政党解散~大政翼賛会結成となって、政治的にも争う余地なく戦争への一本道が見えてきました。新聞もあおります。「国民は覚悟ができている」と

明けてとうとう昭和16年=1941 です。前出の松岡洋右外相が日ソ中立条約を結んで対米圧力を強めようとしましたが、あのソ連(いまのロシア)との約束事が何かの役に立つと思うほうがどうかしています。偽札を持ってノコノコ買い物へ行くようなものでしょう。陸軍は陸軍で北部のみならず南部仏印へ進駐していきましたから、米国は対日石油輸出禁止策をとり、経済制裁の意味でABCD包囲網を敷きました。America,Britain,China,Dutch による対日経済封鎖です。令和の現在でも北朝鮮やロシアに対して西側諸国がやっているアレです。近衛は公家らしく、事ここへ至ってもなお対米交渉を主張し、対米強硬策の論陣を張る松岡を罷免する目的で一旦総辞職したのち再組閣して対米交渉を続けようとしました。しかし松岡去って東条来たる。再組閣の中に陸相として入った東条英機は対米交渉打ち切りと即時開戦を主張して近衛首相と対立します。9月6日の御前会議で「10月上旬まで対米交渉に注力しまとまらぬ場合は対米英開戦」と決まりました。近衛 vs 東条 の諍いを懐柔する目的で、木戸幸一内相(大叔父は木戸孝允桂小五郎)は「9月6日御前会議の決定を白紙還元する」ことを条件に東条を首相に推挙することとし、近衛内閣総辞職・東条内閣成立となりました。やってることが公家っぽいですね。問題を糊塗しているだけ。腹の座った漢(おとこ)が一人もいない。米国は日本に対して最後通牒としてのハル=ノートを突き付けて「昭和6年=1931満州事変 以前の状態へ戻せ」と言ってきたのです。南北の仏印のみならず大陸からの完全撤兵要求を陸軍がのめるはずもありません。東条の腹も決まりました。こうして12月8日の Pearl Harbor となりました。

こうして見てくると、昭和12~13~14~15~16 の各年に引き返すポイントは沢山ありました。昭和12年では近衛首相の不拡大方針を内閣がもっとしっかりやってほしかった。昭和13年では国民精神総動員運動という名の精神的な悪ノリが過ぎて大所高所からの指摘がなく、日中戦争終結へのシナリオが全然見えません。社会的なヒステリーです。昭和14年の欧州での目も眩む驚天動地に対しては一回頭を冷やさねばなりませんでした。昭和15年紀元2600年がいけなかった。はしゃいでしまってグッとこらえる胆力を見失い三国軍事同盟まで行ってしまいました。昭和16年は最後の砦でした。文官や武官の突き上げがいくら激しくても、たとえ刺されても、近衛首相には踏ん張ってもらいたかった。以上まとめますと、「藤原伊周(これちか)と同じで貴公子近衛文麿には胆力が足りない」「平家と同じで陸軍の驕慢ここに極まれり」ということになります。明治維新のような国家存亡の危機の時に颯爽と現れた坂本龍馬高杉晋作のようなヒーローを、この昭和10年代にも持ちたかった。戦後の首相を務めた吉田茂岸信介の胆力がこの時に欲しかった。返す返すもそれが悔やまれます。ここで引き返す勇気さえあれば日本の歴史は全く別物になっていたでしょう。