kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第584回 2022.10/22

古文研究法34-2 土佐日記:守柄(かみがら、土佐国国司紀貫之の人柄)にやあらむ。国人(くにびと)の心の常として「今は」とて見えざなる、心ある者は恥ぢずになむ来ける。これはものによりて賞(ほ)むるにしもあらず。

八木さんが土佐国国司(これは実は筆者=紀貫之を指す)の送別会をしてくれたのは、その国司の人柄の故であろうか。国の役人の心理としてはたいていは「もう用はない」とばかりに見送りにも顔を見せないようだが、情誼を弁えた者はおかまいなくやって来た。これは、八木さんが物をくれたから誉めているわけではないよ。

N君土佐国国司は貫之であり、自分で自分のことを「人柄が良い」などと書いているのは少々変ですが、貫之は女の身としてこの日記を書いているのですから、「こっそりと自分のことを褒めている」と考えられます。「今は」は相手との関係を断ち切って出立する時の言い方なので「もう用はない」と訳しています。「見えざなる」は「見えざるなり」つまり「顔を見せなくなる」の意です。それに続く「を」は逆接です。

The reason why he gave me a rousing send-off may have been that the provincial governor who was to go back to Kyoto was good-natured.  Although it was natural for local servants to be indifferent to the retired governor, those who had a good knowledge of etiquette were frank enough to attend the party.  I don't speak highly of him because he gave me some presents.

S先生:第1文の he は八木康則、me は実は国司=貫之 なのですが、ここでは貫之に付き従って京へ帰る予定の女、というストーリー設定になっているわけですね。なかなか複雑です。以下の私の作文では、そういう設定は抜きにして、訳文にできるだけ忠実に作ってみました。

It may have been to my (the provincial governor's) fine character that Yagi did me such a kindness.  Psychologically government officials would not take the trouble to come and see me off, thinking that they had nothing to do with me.  But he knew so well how to behave himself that he did not hesitate to come.  It is not because he presented me with something that I praise him so highly.

今日は昔話をします。私は昭和11年=1936 の広島生まれで終戦の年は9歳でした。2022の現在は86歳でいつ死んでもおかしくありません。軍国少年から戦後の反戦家となった私から見た太平洋戦争の軍人「山本五十六元帥」「南雲忠一中将」について、忌憚なく述べてみたいと思います。

山本五十六元帥:名将の誉れ高い山本五十六元帥ですが、私は多少の疑問を抱いています。彼は在米日本大使館付の武官を勤めたこともあり、米国人の気質や米国の国力を知悉していたはずです。また彼は、米内光政海軍大将・井上成美海軍大将と共に日独伊三国軍事同盟に強く反対していたし、対米戦争回避論者でもありました。なのに何故「一年やそこらは存分に暴れて御覧に入れる」と嘯き、無謀にも昭和16年12/8の真珠湾奇襲を強行させたのか。死を賭してでも反対すべきでした。この奇襲が米国人に”Remember Pearl Harbor !"という対日意識を燃え上がらせ、その結果がどうなったかは論を待ちません。1年どころか半年後の昭和17年6/3~6/5のミッドウェイ海戦連合艦隊は、赤城・蒼龍・加賀・飛竜の4空母、その他の巡洋艦や多くの航空機と優秀な搭乗員、を失ってしまいました。この時山本元帥は、緒戦の勝利に浮かれ、戦果を見んとして戦艦大和に座乗して、ノコノコと連合艦隊の数百km後ろを航行していたといいます。乏しい石油を消費しながら。米国は、開戦前もミッドウェイの時もまたそれ以降も、暗号を解読し日本の手の内を全て知っていました。彼は前線視察中の昭和18年4月にブーゲンヴィル島上空にて、その搭乗機を撃墜されて戦死しましたが、この時も米国側は暗号を解読していました。米国側は山本元帥が時間に極めて正確であったことを知っていたので、ロッキードP38が航行力ギリギリの所で待ち構えて彼を屠ったのです。米国は戦後までこのことを公表しませんでした。暗号解読がばれるのを恐れたからです。どこまでも用意周到な米国です。山本元帥の国葬が行われたのが昭和18年の5月で、私がいた国民学校でも厳粛な式が行われました。式の間は全員がずっと直立不動の姿勢で校長の訓示を聞き、最後に「海行かば」を歌い、最敬礼をして元帥に哀悼の意を捧げ「必ずや憎き米英を敵討ちにする」と心に深く誓ったことを、当時国民学校の低学年であった私は今もはっきりと覚えています。

南雲忠一中将:南雲中将は、ハワイ奇襲の時もミッドウェイ海戦の時も連合艦隊の指揮官でしたが、決してその任にふさわしい人物ではなかった、と私は思っています。彼は「水雷屋」であって、航空戦についてはズブの素人だったからです。これは南雲中将の責任というよりも、彼をその任に任じた者の責任と言うべきでしょう。陸軍と同様に海軍においても、その適性にはお構いなく海軍大学の年次序列によってその任に付けたのです。航空作戦にこのような人物を任命することは他国では考えられないことです。このような悪弊は現在も続いています。大臣としてふさわしくない者がその地位にふんぞり返っている例が多数あります。南雲中将は、ハワイ奇襲作戦において指揮官機からの「第3次攻撃の必要あり(石油タンクを狙え、の意)」との打電があったにもかかわらず、敵空母の襲来を恐れて「三十六計逃げるに如かず」を決め込んでしまいました。後方に居た山本元帥もこの状況を知らないはずはなかったと思います。この「完璧を尽くさない悪弊」は現在でも種々の場面に見られるのです。ミッドウェイ海戦において最後に残った空母飛竜の艦長から、新たに発見された敵空母2隻を早く攻撃するようにと矢のような催促を受けたにもかかわらず、モタモタしているうちにあの惨状を招いたのです。彼は最後にはサイパン島の最高指揮官たる中部太平洋隊司令長官となって、日本軍が玉砕した昭和19年7/6の前日に自決し、死後大将に任ぜられました。子供であった私がサイパン玉砕を知ったのは7/6から数日経った夕刻6時のニュースからでした。当時はニュースではなくて報道と呼んでいました。暑い西日の差し込む部屋でラジオから荘重な「海行かば」が流れるのを聞いて「ああまたか」と思ったものです。昭和18年5/30のアッツ島玉砕に始まって、マキン・タラワ・ぺリリュウ・グアム・テニアン、、、と次々に玉砕が続いていたからです。生粋の愛国者であった父が「ああ、日本はもうダメじゃ」とつぶやいたその言葉に、子供であった私も大きなショックを受けました。あの時の重苦しい雰囲気は今も忘れません。

死が近づいた人間として、当時を知る人間として、ほんの少しでも若い人達に真実を知ってもらいたい、と願って以上のことをここに記しておきます。