kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第519回 2022.8/19

百人一首No.97 権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ):来ぬ人をまつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身も焦がれつつ

いくら待っても来ない人を待ち続けて、松帆の浦の夕凪の頃に焼く藻塩のように、私の身も恋焦がれ続けております。

N君:真打ち登場ですね。新古今和歌集選者の筆頭にして、この小倉百人一首を作った藤原定家です。

I am waiting for my cold-hearted sweetheart only to be betrayed.  As the moshio weeds are burned on the Matsuho Beach in the evening, so have I been burned by my ardent love for her.

S先生:only to be betrayed 「待っていたのに結局振られた」は感じが出ています。

How long I am waiting for her !  I am longing for her as a fire as if weeds were burnt to make salt at the Matsuho Beach in the evening.

MP氏:On the shore of Matsuho Bay waiting for you who do not come my heart burns like the flames of salt-making fires burning fiercely in the evening calm.

N君:MP氏の作品にはたくさんの感動ポイントがありますが今回は「夕凪」です。僕は in the evening くらいしか思いつきませんでしたが、MP氏は in the evening calm と表現しました。ここに calm を持って来るとは、と勉強になりました。

K先輩:歴史放談も今回を入れて残すところあと4回。最近は日本史の勉強というよりは私の意見表明みたいになっていますが、歴史を詳しく探っていくと結局はそうなるのです。最終的には「人間を理解する」という方向になっていきます。ある人が自分の思いを遂げようとしているところへ別の人がそれに反対して竿をさす、そこに争いが起こる、こうして歴史が重なっていきます。前回は「昭和8年ゴーストップ事件から陸軍が暴走し始めて昭和12年の盧溝橋事件から完全におかしくなった」という話をしました。軍部の暴走に抗おうとした矢内原忠雄大内兵衛のような学者はいましたが、軍部に対抗した政治家はいなかったのか。今回はこのテーマで浜田国松「腹切り問答」の話をします。時は昭和11年=1936、 二・二六事件により斎藤実内相・高橋是清蔵相が殺害され岡田啓介首相も負傷して、外相広田弘毅首班指名を受けます。この頃は最後の元老西園寺公望がまだ存命中(昭和15年死去)で、彼の推挙で広田に決まったものと思われます。広田は福岡市にあった石屋の息子で親戚にはこれといった政治家がいなかったので、昭和天皇はその点で広田がつらい目に遭うのではないかと心配したそうです。二・二六の直後ですから、広田も陸軍に対して厳しい軍律を課すよう注文を付けたのですが、陸軍もさるもので代わりに「軍部大臣現役武官制」の復活を飲ませたのです。陸海軍の大臣が退役者ではなく現役であることは、陸海軍から内閣への力のカードとなるのです。何故かというと「陸海軍から見て内閣のやることが気に入らなければ大臣を出さずに内閣の瓦解を招くことができるから」です。要するに陸海軍が内閣の首根っこを押さえているようなものです。この制度は元はといえば明治33年=1900 山県有朋内閣の時に発足したのですが、大正初めにこの制度を利用した軍部があまりに勝手なことをやって予算を通したりしたので、大正2年=1913 山本権兵衛内閣の時に廃止されたのです。ところが今回の二・二六事件を受けて軍律引き締めのバーターとしてこの制度が復活してしまいました。これに腹を立てたのが衆議院議員浜田国松でした。浜田は衆院議長も勤め上げた宿老で、このとき70歳近い御老体でした。舞台は、年明けて昭和12年初めの国会です。軍部の専横を正す政治家の気骨を見せようと登壇した浜田国松は、陸相寺内寿一(1918米騒動の時の首相寺内正毅の息子)を槍玉に揚げます。

浜田:近頃は言論の自由が圧迫されており、その原因は軍部の政治干渉だ。

寺内:軍人を侮辱するかの如きお言葉を承りました。

浜田:私の言葉のどこが軍への侮辱なのか。

寺内:侮辱されるが如くに聞こえた、と申したまで。

浜田:速記録を調べよ。もし私の言葉の中に軍を侮辱する言葉があるのなら、私は今ここで割腹して君に謝罪しよう。しかし侮辱する言葉がないなら君が割腹せよ

これに激怒した寺内は答弁を拒否し議会は大混乱となりました。結局肚の虫がおさまらぬ寺内がやめて広田弘毅内閣も総辞職となり、林銑十郎のワンポイントリリーフを挟んで近衛文麿の登場となりました。このあとのことは前回お話した通りです。それにしても浜田国松のこの迫力は凄いですね。まだ40代中盤だった近衛文麿には、老体に鞭打って発言した浜田国松の心意気を感じて欲しかったです。浜田国松と同じ自由主義・粛軍の考えを持つもう一人の衆議院議員斎藤隆夫でした。彼は昭和14年国家総動員法に反対する演説をしていますし、昭和15年には日中戦争の是非に関して軍部批判を繰り返し、議員を辞めさせられてしまいました。軍の暴走を止めようと頑張った人達がいたことを私たちは忘れないようにしたいものです。