kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第521回 2022.8/21

百人一首No.99 後鳥羽院:人も惜し人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は

人のことがいとおしくも恨めしくも思えてしまう。思い通りにいかないなあと世を憂えるがゆえに、あれこれと物思いにふけるこの私には。

N君:天才後鳥羽院にもそれなりに悩みがあったのかと思うと親近感が湧きます。

While I like a person, I have a hatered for him at times.  This is because my heart is fluctuating with worry that this world is dreary and uncontrollable.

S先生:だいたい良いと思います。a hatered よりも形容詞を入れて a deep hatered とするほうが自然な気がします。

Sometimes I adore other people, and sometimes I hold a grudge against them.  Since this world does not go the way (as) I want it to, I am leading a dreary life thinking of this and that.

MP氏:In spite of myself I spend so much time brooding over things ー There are some I love, some I hate, and even times when I hate the very ones I love.

N君:S先生の第2文 Since節末の to は何ですか?

S先生:代不定詞と呼ばれるもので to go の go が省略された形です。 

N君:MP氏の作品の brood over「~をじっくり考える」。第2文は「好きな人もいる、嫌いな人もいる、好きだった当の本人を嫌うことさえあった」みたいな訳文になるのでしょうか。

K先輩:第447、518、519回において日本が太平洋戦争へ突入する道筋を見てきましたので、今回は戦後の話をします。昭和20年=1945 の8月15日に玉音放送「耐え難きを耐え忍び難きを忍び、、、」があり日本は敗戦を認めたのです。この日の早朝に陸相阿南惟幾(あなみこれちか)が独り割腹自殺しました。介錯する者もなく苦しんだでしょう。9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリに於いて降伏文書の調印式がありました。日本側からは外相重光葵(しげみつまもる)と大本営参謀総長梅津美治郎(うめずよしじろう)が出席しました。日本の終戦に大きくかかわった阿南・重光・梅津の3人が皆大分県出身であったことは奇妙な偶然でした。この年の8月の政府や軍部の葛藤については「日本の一番長い日」という映画がありネット上にも出ているので、若い人は是非とも見ておくと良いでしょう。まだ77年しか経っていない、つい先日のことです。さて2022の今日、終戦から77年が経過してこの間に歴史的には本当にたくさんの出来事がありました。まずは思いつくままに主だった出来事を羅列してみましょう。1946=昭和21年に日本国憲法が発布promulgation されました。大日本国憲法に別れを告げて、象徴天皇を残しながらも民主的な国家を目指そうとしました。1949=昭和24年には法隆寺金堂壁画焼損事件があり白鳳文化の粋が失われ国民を悲しませました。翌年の文化財保護法制定に繋がっていきます。しかしこの昭和24年には京都大学理学部の湯川秀樹教授がノーベル物理学賞を受賞し国民を喜ばせました。戦後の廃墟の中に咲いた一輪の花でした。1950=昭和25年に朝鮮戦争が起きます。一般に他国の戦争は国内に好況をもたらしますが、この時もそうで「朝鮮特需」が生まれその後の長期にわたる高度成長につながっていきました。1951=昭和26年は吉田茂首相(麻生太郎さんの祖父)によるサンフランシスコ講和条約です。共産圏の国々を除く部分的な講和ではありましたが、6年間の植民地身分から晴れて独立国家に復帰しました。1953=昭和28年にテレビ放送が始まりました。白黒の粗い画像は70年後の現在の4K、8K画像となり隔世の感あり、です。1954=昭和29年には自衛隊が発足しました。憲法9条により軍隊を持つことができないので、自衛隊は「軍隊の方便」みたいなものです。専守防衛をうたってはいますが外国から見れば完全に軍隊です。1956=昭和31年は鳩山一郎首相(由紀夫さんの祖父)がモスクワに乗り込んで日ソ共同宣言を行い、常任理事国ソ連の反対がなくなったことにより日本は晴れて国際連合の一員となったのです。昭和8年松岡洋右満州国問題で国際連盟の席を蹴って出てきてから実に23年ぶりの復帰です。この年の経済白書の冒頭には「もはや戦後ではない」の一文が踊っていました。この後は、岸信介(きしのぶすけ、安部晋三さんの祖父)・池田勇人(いけだはやと)・佐藤栄作 の各首相のもとで日本は空前の経済成長を遂げます。軍事(安全保障)を米国に任せて経済一本に絞ったからこその果実でした。それを国際社会に発表する場となったのが 1964=昭和39年の東京オリンピックでした。合わせて東海道新幹線も開業しました。1972=昭和47年は、佐藤栄作首相のもとで沖縄が返還され、田中角栄首相のもとで日中共同声明が発表されてソ連に続き中国とも国交が回復されました。奈良県明日香村で高松塚古墳が発見されたのもこの年でした。天平時代の四美人が極彩色豊かに甦りました。20世紀における日本の考古学最大の発見でしょう。このあたりがピークだったかもしれません。1973=昭和48年にはオイルショックが起きて主婦がトイレットペーパーの買い占めに走りました。この後、経済はまずまずの発展を遂げつつも、イタイイタイ病水俣病四日市ぜんそくカネミ油事件 のような公害病が発生し、経済成長の負の側面を見せつけられる結果となりました。1985=昭和60年のプラザ合意により先進国間の為替レート安定が図られたのですがその副作用として日本では 1990=平成2年のバブル経済が発生し、それが崩壊した後は30年間にわたり長い不況に陥りました。2008=平成20年には米国発祥のリーマンショック、2011=平成23年 には東日本大震災 があって、日本はボロボロになりました。この時はたまたま短期的な左派政権(民主党)の時代だったのですが、そのあまりの酷さに民主党は国民からあいそをつかされて、再び保守政権となり自民党安倍晋三首相が誕生。アベノミクスという経済浮揚政策は一部成功したものの、いまだに曇り空は晴れず「失われた30年」などと揶揄されています。バブルが崩壊して30年間日本では賃金が上がっておらず、50歳以下の国民は「好況の経験をもっていない」という異常事態に陥っています。人口減少が続き、外国人や高齢者の占める割合がどんどん上昇しています。中ソや朝鮮半島とは諍いが絶えず、77年間続いた平和が今後どうなっていくのか、大きな問題となっています。2022における日本は「戦後高度経済成長を遂げた山頂から長い下り坂をトボトボと歩いており、経済的な問題や安全保障上の問題を内外にかかえて苦悩している状態だ」と総括できるでしょう。「30年続く不況・上がらぬ給料・経済大国からの脱落」に対して新聞TV雑誌などではよく怨嗟の声が特集されていて国民全体もそういう気分になっているのですが、私は「戦争になっていないだけ立派なものだ」と思っています。このまま戦争をせずに自然と枯れていけば良いだけ。枯れていく途中に花も咲いているでしょうし鈴虫も鳴いているでしょう。第496回で紹介した紫式部兄のような風雅な気持ちを持つことが大切だと思います。とにかく新聞TVの言うことを安易に信じてはいけない、自分で調べて歴史を勉強する、この2点がとても大切です。2020春から始まったコロナ騒動についてもおなじです。肩書ある人の言うことをそのまま信じてはいけません。

ここに挙げた出来事以外にも色々なことがありましたが、今日はこの中でも特に大切な二つの出来事に絞って論じてみたいと思います。第1は 1951=昭和26年 のサンフランシスコ講和条約です。「遠くの恋のサンフランシスコ」ですね。6年間にわたる米国の日本統治によって世の中の雰囲気はガラリと変わりました。マッカーサーの5大改革(秘密警察廃止・労働組合結成奨励・婦人解放・教育自由化・経済民主化)に加えて、戦争先導者の公職追放財閥解体・農地改革などが断行されました。その結果、戦前のいわゆる「偉い人やお金持ちや地主さん」が居なくなり、労働者や小作人や婦人が言いたいことを言い権利を主張するようになったのです。一言で言えば「民主化」が進んだのです。戦争への反省や古い価値観を否定する心が表に出てくると、どうしても左派的な主張が勢いを増します。それがカッコイイのだという風潮が特に若い人々の間にあったのです。「戦争反対・非軍備・天皇要らない・給料上げろ・賄賂ダメ・休みくれ・男女平等・自由にさせてくれ・偉い奴嫌い」みたいな感じです。昭和天皇のことを気軽に「天ちゃん」などと呼ぶ教員も実在しました。実際に片山哲芦田均といった社会党系の内閣が誕生したこともありました。これらの勢力と戦っていた吉田茂首相が、昭和25年の朝鮮戦争に触発された独立機運に乗っていざ米国の統治から抜け出そうとした時に大問題が発生したのです。とりあえず米英を中心とした西側諸国だけとの単独講和を選択するのか、それとも時間をかけて中ソも含めた全面講和を目指すのか、という問題です。吉田首相は、とにかく単独講和をやって一刻も早く国際社会に復帰すべきだと考えていましたが、社会党共産党日教組朝日新聞などの左派系勢力は「全面講和でなければダメだ」と主張しました。この人たちには100点満点や原理原則を声高に主張する傾向があり、言っていることは正しいのですが現実離れしているのです。一方吉田首相率いる保守勢力というのは、現実的ではあるのですが金にだらしがなくて汚職事件をよく起こします。一言で言えば、左派革新系は理想に燃える青年、右派保守系は実行力のある汚れた老人、という感じでしょうか。この時は吉田首相が左派の反対を振り切って半ば強引に講和会議に出て調印しましたが、結果から見てこの判断は正しかったと私は思います。米国に占領された状態から早目に独立して本格的な復興への道筋をつけ、国際社会に復帰したのは良かった。中ソとは個別に交渉すれば良いし、歴史上も実際にそうなっていますよね。さてサンフランシスコ講和条約は「仲良くしようね」という条約ですが、それと同時に日米間で合意された日米安全保障条約(略して安保)が大切だったのです。1952=昭和27年から1960=昭和35年まで「日本の安全は米国が守る」という内容でした。日本にとってはむしろこれが重要で、防衛費をさくことなく経済発展一本で走ることができたのです。米国は日本列島を不沈空母に見立てて中ソに対抗しようという思惑がありました。期限の切れる1960には当然ターニングポイントが現れます。

大切なことの第2は1960=昭和35年の日米新安保です。これが大変でした。原則として日米ともに安保を延長して新安保条約に調印したかったのですが、日本の左派勢力の抵抗がすさまじかった。社会党共産党日教組朝日新聞に加えて全学連全日本学生自治会総連合 が国会議事堂周辺で連日連夜の反対デモを繰り広げ、機動隊と衝突を繰り返していました。負傷者や逮捕者がたくさん出て、東大の女子学生樺美智子(かんばみちこ)さんが亡くなったりしました。現代で言えばちょうどミャンマー民主化運動みたいなものです。左派勢力は、日本が米国の手先となって戦争の先棒を担ぐような醜態が我慢ならなかったし、体制当局authorityサイドのやることは全て気に食わない、といった感じがありました。これに立ち塞がったのが自民党岸信介首相でした。ヤクザ・右翼・テキヤ・博打うち・反共宗教団体(たとえば統一教会) などを総動員して対抗したのです。税金の一部を横流しして彼らの活動をサポートした、とも囁かれています。岸首相にとって、それほどに日本の左傾化が恐ろしかった、とも言えるでしょう。「米国の核の傘のもとに日本は今後とも経済発展を続けて欧米に追い付かなければならぬ、米国の手を離れて共産主義国の中ソへ近づくことなどありえぬ」という信念があったのでしょう。調印のセレモニーのため米国アイゼンハワー大統領が来日する予定でしたが、危な過ぎて中止になりました。そのような状況で岸首相は新安保条約締結にこぎつけ、締結と同時に退陣して池田勇人新首相にあとを託したのです。岸首相の新安保あってこその池田新首相の所得倍増計画でした。この岸首相の「新安保は日本にとって絶対に必要だ」という判断は、後々から考えると、そのとおりだった、と私は思います。岸首相は東大出の文官の割りには肝っ玉の座った漢(おとこ)でした。44歳の若さで東条英機内閣の商工大臣を務め、日本の敗色が濃くなると早期和平を主張して東条首相と対立し、東条側近の軍人を「黙れ兵隊!」と一喝したこともあったそうです。東条内閣の閣僚でしたから終戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに入りましたが、結局許されて政治活動を再開し昭和32年に首相に就任したのです。昭和35年新安保の年には左派勢力が暴徒化して首相官邸も危なくなったのですが「俺は殺されてもここを動かない、官邸は本丸だ、本丸で死ぬのは男の本懐だ」と言い放ちました。左派勢力からすれば岸は「敵ながらあっぱれな男」でした。

ここまで見てきたように、戦後日本の大きなターニングポイントはふたつ。第1が吉田茂首相のサンフランシスコ単独講和+日米安保、第2が岸信介首相の新安保です。いずれも日本が共産化することへの恐怖がもたらしたもので、「安全保障を米国に依存し経済成長路線をひた走る」という大方針を具現化しました。それが良かったのか悪かったのか、さまざまな意見があるでしょうが、すくなくとも2022の現在、日本史オタクの私は「吉田・岸ふたりの首相が選んだ道は正解でした」と言いたいです。もっと言えば吉田・岸のふたりのいずれかが戦前に近衛文麿さんの代わりを務めて欲しかった、と痛切に思います。第518回で「必要なものは教養でも品格でも格好良さでもなく胆力であった」と言いましたが、吉田・岸のご両人にはそれがあった、と私は思います。

それともう一つ、朝日新聞について触れておきます。私は朝日新聞を読んで大人になりました。朝日新聞は、サンフランシスコでは「全面講和でなければダメだ」と主張し、新安保では「絶対反対」を貫き通しましたが、結果としては逆・逆になってしまいました。戦前の軍部提灯持ちを反省してのことか、戦後ではそのぶれない左派的態度は立派でしたが、サンフランシスコに関しても新安保に関しても不正解であったと思います。左派の人々が主張しがちな「幼稚な正義」は、卑近な問題に対しては効果を発揮するけれども、国家の行く末を決めるような大問題を丁半博打で決定すべき時には効力を発揮しないと思います。ゆえに今後に来るかもしれない国家存亡の大問題発生時においては、彼らの主張をリトマス試験紙のように利用して、その主張の逆を行くよう方針選択をすればよい、と私は思います。一方、目の前の汚職事件・公害・SDGs・機会均等・格差是正、、、などの小問題については彼らの主張は傾聴に値するものもあり、捏造に近いものもあり、で玉石混交だと思います。サンゴ・病気腎移植・慰安婦モリカケサクラ・福島原発避難事件などに関する報道(ネットで調べてみて下さい)は、どう贔屓目に見ても眉唾ものでした。それらは偏向報道というような生易しいものではなく、もはや捏造と呼ぶべきものであって、新聞というものの恐ろしさをまざまざと知りました。朝日新聞に限らず新聞TVに対して我々一般大衆は「本当なのか?」と疑いながら接していく必要があります。戦前によくあった「あおり」に乗せられないためにも。