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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第496回 2022.7/27

百人一首No.74 源俊頼朝臣:憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを

私がつらく思ったあの人が私になびくようにと、初瀬の観音様に祈りこそしたが、初瀬の山おろしよ、こんなにひどくなれとは祈りはしなかったのに。

N君:初瀬、ということは、以前出てきた奈良県長谷寺ですね。

I feel very sorrowful for her showing me an indifferent attitude.  Although I prayed to the Hatsuse Kannon that she would come back to me, alas, she is still cold to me.

S先生:だいたい良いと思います。説明的でなく、できるだけ短く簡潔にしたい、と考えながら作文するわけですが、そこがまた難しくて面白いところです。

I prayed to the Hatsuse Kannon that my sweetheart, who treated me coldly, would understand my heartrending feelings.  Wind from Mt. Hatsuse, never did I pray that she would be as hard and cold as you are.

N君:第2文は否定詞を前に出した「強い否定文」の形だと思います。否定詞に引っ張られて助動詞が前に飛び出して来ました。

MP氏:At Hase I prayed to Kannon to plead with her who made me suffer so, but like fierce storm winds ranging down the mountain she became colder still ー It's not what I asked for  .  .  .  .

N君:plead with+人+for+事「人に事を嘆願する」なのですが、ここはどういう構成になっているのか? for 以下 が省略されているのでしょうか。「長谷寺で私は観音様に、私に我慢を強いた彼女にお願いしてくださいと祈りました」という意味だと思います。

K先輩:本歌作者が著した「俊頼髄脳」の中から面白い話を一つ紹介します。No.57紫式部の兄=藤原帷規(のぶのり)が父の任国越後へ行く途中で病を得て、越後に着いた頃にはもう病膏肓(やまいこうこう)に入っておりどうしようもなくなっていました。帷規は死に臨んで枕元にいる僧に「あの世への旅の道々には紅葉・尾花(すすき)・松虫のような趣深いものがあるのでしょうか」と尋ねました。僧が「どういうつもりでそんなことを尋ねるのか」と聞き返すと、帷規は「歌を作って心を慰めるのです」と答えました。僧は「この事もの狂おし」と匙を投げて逃げ帰りました。そこで帷規は辞世の歌を詠みます。「都にも恋しき人のあまたあれば なほこのたびはいかむとぞ」ー 果ての「」の字をえ書かで息絶えにければ、親こそ「さなめり」とて「ふ」文字をば書き添えて形見にせむと置きて常に見て泣きにければ、涙に濡れて果ては破れ失せにけり、とかや、、、、。地獄行きを回避するためにひたすら仏縁にすがれと諭した僧は、帷規の尋常ならざる風流心を理解できなかったのでしょう。紫式部にこんな素晴らしいお兄さんがいたとは知りませんでした。紫式部は日記の中で兄のことなど触れていないのに、赤の他人である源俊頼が俊頼髄脳の中で「藤原帷規と申す者」として、このように取り上げたのはどういうわけでしょうか。第479回でも触れたように紫式部は性格的にキチッとした冷静な女性だったので、酔狂な兄のことがあまり好きではなかったかもしれません。ところで帷規の病気は何だったのでしょうか。元気だった若い人が旅の途中で具合が悪くなって死んだということから、恙虫病(つつがむしびょう)が疑われます。この時代、旅は野宿であり、河原の草むらなどで寝てツツガムシに刺されリケッチアに感染して、元気だった人が高熱にうなされて死ぬ、ということがありました。「つつがなく」は「道中ツツガムシに刺されることもなく無事で」の意味です。607小野妹子聖徳太子からの親書を隋の煬帝(ようだい)に届けましたがその冒頭に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々(隋書倭国伝)」と書いてあります。飛鳥時代の昔から「恙無きや=お元気ですか」という表現があったとは驚きです。