kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第522回 2022.8/22

百人一首No.100 順徳院:ももしきや古き軒端(のきば)のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

宮中の古びた軒端に忍草が生えている。この草を見ていると。しのんでもしのび尽くせないほどに恋しいのは昔の良き御代だったなあ、と思えてくる。

N君:百敷(ももしき)は宮中、しのぶは忍草の意です。

A mere sight of the ferns in the backyard of the court, which symbolizes its decline, recalls to me the old prosperous days reigned by the past Emperors.

S先生:the court よりも the Court とするほうが「宮廷」の意がはっきりします。そのほかの構成はこれで良いと思います。ついに100首の英訳が終了しました。和歌の英訳は初めてでしたがとても勉強になりました。特にMP氏の作品をじっくり鑑賞できたことはこの上ない経験となりました。

Whenever I look at the ferns on the old eaves of the Imperial Palace, I am reminded of the old good days when the Family flourished.

MP氏:Memory ferns sprout in the eaves of the old forsaken palace.  But however much I long for them, they never will come back ー the days of old.

N君:MP氏の作品第2文の them とか they って何なのか? と思わせておいて最後に the days of old をもってくるあたりが凄いと思います。

K先輩:1221承久の乱隠岐に流されたNo.99後鳥羽院の息子が本歌作者の順徳天皇で、後鳥羽院よりも積極的に北条義時泰時父子の追討を主張していました。それが祟って佐渡へ流され、在島21年にして都へ還れぬまま45歳で亡くなったそうです。有職故実(ゆうそくこじつ、宮廷内での行事のしきたり)をまとめた「禁秘抄」を著しました。優秀な人だったと思います。佐渡と言えば佐渡金山の初代の奉行は大久保長安でした。長安は有能な人でしたが女好きで派手好みだったため、質素倹約を宗とする家康には嫌われていたようです。蓄財に関する嫌疑をかけられて、まだ1614~1615大阪の陣も済んでいないうちから改易・お家断絶になりました。もう少し時代が下がって、松尾芭蕉奥の細道の旅に出たその帰り道に、越後国出雲崎で有名な句「荒海や 佐渡に横たふ 天の川」を詠みました。これは銀河系レベルの大きさであり、与謝蕪村「菜の花や 月は東に 日は西に」の太陽系レベルよりもスケールが大きいです。

さて私の歴史放談も今回が最終回となりました。最近私は歴史学者のM氏と連れ立って奈良県の飛鳥地方~大阪府南部の近つ(ちかつ)地方を回って、いわゆる「古墳巡り」をしてきましたので今回はその話をして、この歴史放談100回シリーズを締めたいと思います。まずは行った古墳を列挙しておきます。奈良盆地南部東側の山麓は「古墳銀座」と呼ばれるほどに古墳が数珠状に連なっています。行燈(あんどん)山古墳は第10代崇神天皇のお墓と言われています。渋谷向山古墳は第12代景行天皇のお墓と言われています。このあたりは日本最古の道「山辺道(やまのべのみち)」に沿って古墳が並んでいます。何故か桃の木がたくさんあって、果樹園で桃が栽培されていました。桃は昔の中国では長寿の薬とされていて、中国の使節団が飛鳥の朝廷に桃をもたらしたのかもしれません。飛鳥地方では何と言っても「石舞台古墳」です。蘇我馬子の墓と言われています。こんな大きな岩をどこから運んできたのか、どうやって運んだのか、謎です。江戸時代に、風雨で露出した玄室の巨石の上でキツネが踊っていた、というまことしやかな話があって、それ以来「石舞台」の名が付いたらしいです。石舞台の下の玄室には誰でも入れるようになっています。私も入ってみましたが4畳半の部屋くらいの広さがありました。飛鳥寺の西側に広がる田んぼの畦道には、大化改新で殺された蘇我入鹿首塚がありました。悪者の濡れ衣を着せられた入鹿の無念を思いながら手を合わせました。近くに「酒舟石(さかふねいし)」と呼ばれる奇妙な施設があります。丘の上に巨石があってここから水路に沿って水が流れ、丘の下にあるコロセウムの底みたいな場所へ貯まるようになっています。大王(おおきみ、天皇と呼ばれる前の呼び名)が沐浴する場所だったのでしょうか、これも謎です。飛鳥地方から西へ進んで生駒山系を越えると大阪府の南部へ出ます。ここには仁徳天皇陵があります。この前方後円墳は大きすぎて地面からでは分からないので近くにあるタワーに登って全貌を眺める仕掛けになっています。応神天皇陵もデカいです。誉田八幡宮に車を置いて裏手のほうに回ると後円の一部が見えるので私はここからお参りしました。生駒山系の西麓には古代の有名人の小さなお墓がたくさんあります。推古天皇陵は小さな丘のてっぺんにありましたが、同じ丘の上に普通の民家もありました。小野妹子孝徳天皇(中大兄の叔父)や用明天皇(聖徳太子父)などのお墓があります。叡福寺の裏手には聖徳太子のお墓があります。これははっきり言って円墳でした。山ひとつ隔てて東の飛鳥地方で活躍した人達を、こうして山の西側に葬ったのでしょうか。そう言えば西方浄土という言葉がありますが、この生駒山系西麓にしても最初に行った山の辺の道にしても、古墳は山の西側にあって西日があたるようになっている気がします。

再び奈良盆地へ戻って天理市柳本町の住宅街の中にある比較的大きな前方後円墳「黒塚古墳」へ行きました。資料館も付設されています。三角縁神獣鏡がたくさん出たことで有名な古墳で、周囲は池になっていて古墳周囲の散策道が整備されています。ここを歩きながら歴史素人の私と歴史学者M氏とで「AD400年頃の古墳の築造はどんな感じだったのか」について語り合いました。

私:古墳時代には貨幣もないわけだし賃金という概念もないですよね。

M氏:大王が亡くなって大きな墓を造るわけです。遠くの村々から多数の若者を集めなければなりません。米を餌にして若い者が集まるでしょうか。若い者は自分の村で米を作ろうと思えば作れるわけですし、たとえ米を賃金としてもらったとしても運搬が大変です。

私:武力をちらつかせて無理矢理集めたとか、、、。

M氏:そういう面もあったでしょうがそれでは長続きしませんし、また次の古墳を作る時に困ります。やはり自発的に集まるようにしなければなりません。

私:若い男達をあちこちから集めて半年・1年・2年と土木作業してもらうわけですから、彼らが好きそうなものを用意しなくてはなりませんよね。

M氏:そうです。若い男の好きなものは何でしょうか。

私:食欲と性欲ですか。

M氏:そうです。まず「好きなだけ食わせる」、これが最低条件です。自分の村が不作で思うように食べられない奴もいますからね。昼間は汗水流して働くわけですから夜は癒しが欲しくなります。今で言うところの AKB48 みたいな若い娘たちのグループを複数用意しておいて踊ったり歌ったり酒をついだり、、、。こういう楽しみがなければなりません。興行の手配師みたいな係も必要だったでしょう。

私:古墳造りから地元へ帰って来たお兄さんが村の男の子を集めて「村では見たこともないような綺麗なお姉さんが踊ってたぞ」みたいな話をしたでしょうね。

M氏:男の子たちは目を輝かせて聞き入ったでしょう。

私:古墳造りに行って、嫁を連れて村へ帰って来る奴もいたでしょうね。

M氏:おおいにあったでしょう。逆に古墳造りに行ったまま居ついてしまって村には帰ってこない奴もたくさん居たでしょう。嫁はんの実家に住んだりしてね。稀には古墳造りの専門家・指導者として生涯を送る者もいたでしょう。

私:若い男は食欲と性欲ですか、わりと単純ですね。

M氏:男達が古墳造りに集まる理由としてあとふたつ大切なことがあったと思います。第一に、古墳造りに欠かせぬ色々な技術や新しい道具を知る、ということが男達の好奇心をくすぐったと思います。

私:なるほど。鉄製の道具の使い方や、巨石運搬のための丸太を使ったコロの技術、水路を通して水をあやつる技術、、、、いろいろあったでしょうね。さまざまな形をした埴輪も、田舎出身の若者にはもの珍しかったでしょうね。

M氏:もうひとつは情報交換です。A村では桃を作ってみた、B村では豚を飼ってみた、C村で新しい漁法をやってみた、D村には腕の良い産婆さんがいる、、、などなどの話を古墳造りの休憩時間にやったでしょう。仲良くなるペアもできて技術や情報を交換する目的で、個別にお互いの村を行き来したかもしれません。

私:食欲性欲のほかに技術習得や情報交換という動機があったのですね。たしかに私でもそれはそそられます。新しいやり方を自分の村に持って帰って旧態依然とした田舎のやり方を変えていく、みたいな方向に進んだのでしょうね。

M氏:そうです。古墳造りというのは単に偉い人の墓を作るということではなくて、新しい culture に触れるための一大イベントだった、と考えられます。

私:日本国中に大小無数の古墳が造られた背景には「男達の好奇心をそそる仕掛け」があったのですね。令和の日本では、夏に東京ビッグサイトコミケ(コミックマーケット)が開かれて全国から多数の若者が集まります。古墳造りはコミケに似たようなものかもしれませんね。

M氏:その通り。そうでないとこんなにたくさん古墳はできません。コミケに限ったことではなく、この現象は令和の現在でも全く同様に起きています。地方の若い男達が東京に行きたがるのは何故ですか?

私:えーと、色々理由はありますが「なんか面白そうだから」ですかね。

M氏:そのとうり。何か面白そうな事がそこにあるからです。東京での仕事はきついかもしれないが、それを上回る面白そうなことがあるから行きたいと思うわけです。古墳時代も同じ。古墳造りそのものはあまり面白くなくても、それにまつわる色々なことが面白そうだから、若い男達は村々から集まって来たのだと思いますよ。

私:今日は面白いお話をありがとうございました。最後にM氏と連れ立って大阪府の南にある「近つ飛鳥博物館」へ行きました。ここは古墳時代に特化した博物館でおおいに勉強になりました。仁徳天皇陵を模した大きなジオラマが印象的でした。その傍らに年輪年代学のコーナーがありました。古墳から出土した木片の年輪の幅を計測することでその年輪の年代を決定しようとする学問です。扱う対象が年輪幅というアバウトなマテリアルなので「なんだかなあ」という感想を持ってしまいますが、この領域は最近大きな進歩を遂げています。名古屋大学中塚武先生が、年輪から抽出したセルロースの酸素同位体を用いて「弥生時代古墳時代の年輪年代を1年単位でピシャリと当てる」という仕事をしています。これはとんでもない大仕事で、近いうちに世の中の注目を浴びることになるでしょう。同成社から中塚先生の著書「酸素同位体比年輪年代法」も出ていますので、興味のある人は是非とも読んでみてはいかがでしょうか。私のような歴史オタクの皆さんにとっては必携の書だと思います。