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文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第492回 2022.7/23

百人一首No.70 良暹法師(りょうぜんほうし):さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮れ

寂しさのために庵を出てあたりを見渡すと、どこも同じように寂しい秋の夕暮れであったよ。

N君:分かり易い歌で一文にまとまりそうです。

Feeling too lonely to stay indoors, I stepped out of my secluded cottage only to see nothing but a deserted landscape.

S先生:なかなか良いです。分子構文の軽いスタート、step out of ~ の主節、結果の不定詞、で構成されていて締まった文章になっています。腕を上げました。

Sad and dreary, I went out of my cot to look around.  How desolate autumn looks here and there in the evening !

MP氏:Lonely, I step outside my hut and look vacantly around : It's the same all over ー Autumn dusk !

N君:vacant「うつろな」。dusk「黄昏、夕暮れ時」は dawn の反対語。小屋から出てぼんやり見渡している様子が浮かびます。

K先輩:良暹法師は1000頃の人で延暦寺の僧でした。延暦寺の出張所みたいな道場が大原にポツンとできてだんだん大きくなり現在の三千院になりました。良暹法師も草創期の三千院に居たようです。京都市そのものが盆地ですが、その東にある付属の盆地が山科で、北東にある小さな盆地が大原です。「京都大原三千院 恋に疲れた女が独り」ー 昭和30年代に渚夕子という歌手が大ヒットさせた曲の歌碑が今も三千院には残っています。洛北の東側をさらに北へ北へと分け入った先にヒョッコリと現れる小さな盆地が大原で、はっきり言ってただの田舎なのですが、私は好きです。東南の宇治にはどこか明るさが伴っているのに対して、北の大原にはどちらかというと陰鬱な影が付きまとっています。恋に破れた女の一人旅、その足は何故か大原へ向かうようです。それは令和の現在でもそうです。三千院の付属の寺なのかどうか知りませんが、宝泉院という小さな塔頭(たっちゅう)があります。額縁庭園でお茶を飲んだり時には小さなコンサートがあったりして、若い女性は好きかもしれません。三千院などはもはや観光地化されてガヤガヤと団体客がうるさいのですが、周囲の小さな寺々には一人で手を合わせる若い女性が多い気がします。いったい何が彼女たちを惹きつけるのでしょうか。私は寂光院の力が大きいと思います。清盛の娘徳子は高倉天皇の后となり安徳天皇を生んだが、1185壇ノ浦の戦いに敗れて入水(じゅすい)しました。8歳の安徳および安徳をを抱いた二位尼(にいのあま、清盛母)はそのまま沈んで海の藻屑となりましたが、建礼門院徳子は源氏の手勢によって海から引き上げられました。29歳の彼女は大原に庵を結び安徳幼帝や平家一門の菩提を弔ったのですが、この庵が寂光院となりました。宮中で徳子に仕えていた右京大夫(第425回で触れたように資盛の恋人)が著した建礼門院右京大夫集の中に、「寂光院で余生を送る建礼門院徳子のもとを作者右京大夫が訪れるシーン」が出てきます。これが素晴らしいのです。ー--女院大原におはしますとばかり聞きまゐらすれど、さるべき人に知られではまゐるべきやうもなかりしを、深き心をしるべにてわりなく訪ねまゐるに、やうやう近づくままにまづ涙は先立ちて、言ふかひなき御庵のさま・御住まひ・ことがら(生活ぶり)すべて目もあけられずー--この後右京大夫寂光院に身を寄せて徳子と共に余生を送ることとなります。先日寂光院にお参りした時に、徳子の位牌の傍らに阿波内侍の位牌をみましたが、この阿波内侍という人は、1159平治の乱源義朝(頼朝父)に殺された学者藤原信西の娘です。名のある人たちというのはこうしてあちこちで繋がっているんだなあ、と思いました。私が京都を好きになった理由は、だいぶ前の冬の朝に誰もいない寂光院の山門へ続く石段に雪が少し降り積もっている景色を見たからです。そこには「日本の美」が凝縮されていて身震いがするほどに感動しました。寂光院の近くに大原山荘という旅館があります。味噌仕立ての鍋がうまいです。冬に1週間くらい時間をとってのんびり過ごすことをお勧めします。何もありません、何もないからいいのです。