kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第468回 2022.6/29

百人一首No.46. 曾根好忠(そねのよしただ):由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行くえも知らぬ恋の道かな

由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が、舵がなくなって行く先も分からず漂うように、これから行く先の分からない恋の道だなあ。

N君由良川京都府の真ん中あたりから北西(丹後国)に向かって流れ若狭湾へ注ぐ大きな川で、河口の西方には日本三景のひとつ「天の橋立」もあります。

As a boatman who has lost his rudder in a rapid stream of the Yura Channel will drift in uncertain direction, so will the destination of our love be unknown.

S先生:「たとえの構文」As ~, so ~ の形を使ってきましたね。後半は強調のために助動詞 will が前に出ていますがこれもアリです。このような倒置はあってもなくてもよいです。前半部分のラストに使われた direction にかかる前置詞はいかなる場合でも必ず in であることを再確認しましょう。I was looking in his direction. が正しいのであって、at や to は誤りです。Yura channel ではなくて Yura Channel で正解です。

As a fisherman will drift on the waves with his rudder lost at the Straits of Yura, so do I not know where our love will go.

MP氏:Crossing the Straits of Yura the boatman lost the rudder.  The boat's adrift not knowing where it goes.  Is the course of love like this ?

N君:MP氏の作品では「舵を失った」のが単なるたとえ話ではなくて「過去の事実」として述べられていて、現在形で述べられた「恋の行方の問題」が生々しく浮かび上がっています。

K先輩:第451回で登場した No.29凡河内躬恒「置きまどはせる白菊の花」が淡路国掾であったのと同様に曾根好忠は丹後国掾でした。よって彼に付いたあだ名は曾丹で、明らかに軽蔑comtempt の意が含まれています。都の貴族に比べて身分が低いということも軽蔑の一因ですがそれだけではありません。好忠は相当な偏屈者 a narrow-minded person であったらしく、招かれてもいない歌会に乗り込んで「わしが招かれていないのはおかしい」などと文句をつけて、襟首をつかまれてつまみ出された、などというエピソードもあります。なかなか微笑ましい変わり者とお見受けしました。こういう男、私は嫌いではありません。冷淡かつ貴族然として取り澄ましている男に比べればマシです。さて皆から軽んじられた曾丹でしたが、この歌はなかなかしゃれています。激しい恋の歌ですが、どこか達観したような抜け感がありますね。この恋はもう自分の制御を離れてしまっていてどうしようもない、あとは風まかせ、どうにでもなれ、自分はその力に身を委ねて漂うだけだ、と言っています。男性歌らしい清々しさを感じます。女性だとこうはいきません。たとえば No.56和泉式部「あらざらむ」の歌は一途過ぎてご遠慮申し上げたいし、No.80待賢門院堀河「長からむ心も知らず黒髪の」の歌はドロドロとした艶めかしさに圧倒されてしまいます。コッテリ感がすごいのです。もっとも、この黒髪の歌を添削指導したのは佐藤義清(さとうのりきよ、後の No.86西行法師)だという噂もあります。西行にはプロデューサーとしての才能があったのかもしれないですね。源平合戦のさなかに平重衡によって焼かれた東大寺勧進のため、1186に西行は奥州平泉の藤原秀衡を訪ね、その帰途に鎌倉の頼朝を訪ねています。もしかすると東大寺勧進というのは隠れ蓑で、西行には別の目的があったかもしれません。1185に壇ノ浦合戦が終わって平家が滅びたわけですが、1186当時は頼朝が仲違いした弟義経を追っている最中でした。頼朝は当然「早晩義経は秀衡を頼って奥州平泉へ行くに違いない」と見ており、奥州の動向を知りたがっていました。ゆえに、頼朝の意を受けた西行が、秀衡と会って様子を探りそれを頼朝に報告した、という想像も成り立つわけです。その情報との交換で頼朝も勧進のための金を出した、ということも考えられるのではないでしょうか。ただし義経が奥州に入ったのは1187ですから、西行義経には会っていません。また1187に義経に再会した秀衡はそのすぐ後に脳溢血で亡くなっています。頼朝は1189に奥州征伐をやり、義経は衣川の持仏堂で自害します。持仏堂の前で多数の矢に貫かれながら立ったままこと切れた「弁慶の仁王立ち」の名場面です。