kn0617aaのブログ

文系科目ダメダメな中高生・浪人生のための英作文修行

オリジナル勉強風呂Gu 第445回 2022.6/6

百人一首No.23. 大江千里(おおえのちさと):月見れば千々(ちぢ)にものこそ悲しけれ 我が身ひとつの秋にはあらねど

月を見るとあれこれ際限なく物事が悲しく思われるなあ。私一人の秋ではないけれど。

N君:本歌作者大江千里はNo.16行平・No.17業平の甥にあたります。「こそ~已然形」の係り結びですが、結び部分の「悲しけれ」は「形容詞『悲し』の已然形」であって、決して過去助動詞「けり」がからんでいるわけではありません。

I feel very sad, thinking of this and that, although I am not the only person that becomes melancholic in autumn.

S先生:冠詞の話を少ししましょう。名詞に対してある一定の制限を加えるような句や節がある時には、その名詞にくっつく冠詞は不定冠詞ではなくて定冠詞にする、という原則があるので、ここでも the only person+that節 という形は良いと思います。He is an only son.「一人息子」に対して、He is the only son of Mr. Miller.「ミラー氏の一人息子」となります。 a mere fact「単なる事実」に対して、the mere fact that he said so「彼がそう言っただけのこと」となります。She trembles at the mere sight of snakes.「蛇を見ただけで震えあがる」も、of sanakes がくっついているからこその定冠詞です。

Whenever I look at the moon, I feel very mournful, reminded of this and that, although autumn comes to all, not only to me.

MP氏:Looking at the moon thoughts of a thousand things fill me with sadness ー but autumn's dejection does not come to me alone.

N君:dejection=disappointment は「落胆、意気消沈」の意。autumnは無生物の名詞なのに所有格になっています。

S先生:本当ですね。私が正しいと思っていることが次々に壊されていきます。ただしこの件に関してはあくまでも第444回に述べたことが原則になっているので、むやみやたらと無生物の名詞を所有格にしてはいけません。

K先輩平城天皇の系譜にある在原氏、その在原氏の分家みたいな存在が大江氏です。No.56和泉式部は大江家の出身ですし、No.59赤染衛門は大江家に嫁入りしています。「和泉式部日記」「栄花物語」の女流作家二人を擁しているのですから大江家はたいしたものですが、まだまだそんなものではありません。大江音人(おとんど)~千里~匡衡(まさひら)~匡房(まさふさ)~広元~ と続く家系は学問の家系であり「文章(もんじょうはかせ)」を多数輩出しています。文章道紀伝道=中国歴史文学 でした。明経道儒教です。N君も言っていたように千里は行平業平の甥にあたり大学別曹「奨学院」で学んでいたかもしれません。京都市北東に修学院離宮という場所があって奨学院と混同する人がいますが、これは全くの別物です。江戸時代の初め1629紫衣(しえ)事件で有名な後水尾天皇が営んだのが修学院離宮です。後水尾天皇は2代将軍秀忠の娘=東福門院和子を妃に迎え、生まれた女児が明生(めいしょう)天皇となっています。この頃は後水尾天皇と幕府の仲が悪く、後水尾天皇が突然退位したりして大騒ぎになりましたが、秀忠は自分の孫が皇位に就くのなら、と了承したようです。話を戻します。日本史通の皆さんは、No.73大江匡房院政期直前に後三条天皇のもとで1069延久荘園整理令を出した、とか、大江広元が頼朝に頼まれて鎌倉幕府の政所初代別当に就任した、などの件についてはよく御存知だと思います。醍醐天皇の902延喜荘園整理令と合わせて「暮れには登録しようよ荘園を」などと覚えた人もいるでしょう。しかしながら「大江家はその後武士になって結局戦国大名の毛利氏につながっていった」ことを知っている人はそうそういません。元々は貴族の名家で学問を家業としていたのに、次第に政治と関わるようになり、ひょんなことから頼朝と知り合って以降は武家色が強まって、ついには戦国大名となりました。運悪く関ケ原では当主毛利輝元(元就の孫)が西軍の総大将に祭り上げられて苦杯を舐めましたが、もともと本気で家康とやりあうつもりもなかったわけだし、なんで「三河の田舎から出てきた徳川」にヘイコラせなアカンの ? という気持ちはずっとあったでしょう。精神的に辛かった江戸時代を毛利氏はどうやって耐え忍んだのでしょうか。司馬遼太郎先生は「毛利家長州藩士は西枕で寝る」と述べています。西枕で寝る、つまり、足を江戸の方に向けて寝る。さらに「毎年正月朔日(ついたち)に藩主が萩城天守閣で出陣を宣言し家老がそれを押しとどめるというセレモニーがあった」らしいのです。この儀礼的な陣振れは明らかに江戸への進発を宣言するものでしょう。なんたる怨念! 約250年にもわたって本当にこんなことを続けていたのでしょうか。話を盛り過ぎているんじゃないの、という気もしますが、これくらいの気概がないと倒幕などできるものではありません。教科書にはよく「薩長のような西国雄藩が経済的にも潤って実力を蓄えて尊王攘夷~倒幕運動の中心になっていった」みたいなことが書かれていますが、なんと皮相的な説明であることよ、と思います。いくら金があって鉄砲や大砲や軍艦を買うことができても、「あの徳川の野郎、偉そうにしやがって、元はと言えばこっちの方が上なんだぜ」という精神的な克己心がなければ、鉄砲の引き金を引くことはできないのです。長州藩の御先祖は、我が国初の武家政権=頼朝政権 の右腕(大江広元)だった、という気概があってこその、幕末における長州藩の活躍だったと私は思います。ではもう一方の島津家薩摩藩はどうだったのか。このテーマは壮大でここでは語りつくせないので第474回でお話することとしましょう。とにかく今は「薩摩藩薩摩藩らしく寝業師的に、長州藩長州藩らしく書生的に、徳川への恨みを貫いた」と申し上げておきましょう。

1629紫衣事件:色に苦情の沢庵和尚